第六十三話「三学期、先生は受験生と言った」
三学期の朝は、布団から出るところでもう負けそうだった。
正月の空気というのは厄介だ。学校が始まると分かっていても、身体のどこかがまだ休みのつもりでいる。三十二歳の頃も、年明け最初の出勤日はだいたいこんな感じだった。
違うのは、今の俺には母さんの声が飛んでくることくらいだ。
「悠真、そろそろ出ないと遅れるわよ」
「分かってる」
分かってはいる。
分かっているから動きたくない時もある。
そんなことを言っても学校は待ってくれないので、俺はマフラーを巻いて玄関を出た。
通学路には、同じように眠そうな顔をした中学生がちらほらいた。
冬休み明けの朝は、全員の歩幅が少し重い。正月に食べた餅のぶんだけ、足が遅くなっているのかもしれない。
くだらないことを考えながら歩いていると、校門の手前で田端に追いつかれた。
「悠真」
「朝から声がでかい」
「やばい」
「何が」
「数学のプリント、どこまで出すんだっけ」
俺は一度、田端の顔を見た。
正月が終わっても田端は田端だった。安心するような、しないような。
「全部だろ」
「全部?」
「冬休み前に高村先生が言ってた」
「マジか」
「マジだ」
田端は鞄を前に回し、歩きながら中を探り始めた。
危ない。歩きスマホならぬ歩き鞄だ。時代に合っているのか合っていないのか分からない。
「家に置いてきたかも」
「朝から終わってるな」
「いや、まだ分からん。鞄の奥にいる可能性がある」
「プリントを生き物みたいに言うな」
昇降口に入る頃には、田端の顔から少し血の気が引いていた。
靴を履き替えて教室へ向かうと、廊下の空気もどこか眠い。誰かが「あけおめ」と言い、別の誰かが「宿題見せて」と返している。
新年の挨拶と提出物の悲鳴が同じ場所にあるのは、学校らしいと言えば学校らしい。
教室へ入ると、小野がすでに席にいた。
机の上には提出物がきれいに重ねられている。こういうところは本当に小野らしい。
「おはよう」
「おはよう。田端くん、顔どうしたの」
「数学のプリントが行方不明」
「また?」
「またって言うなよ。新年一発目だぞ」
「一発目からそれなの?」
小野の言葉は正しい。
田端は反論しようとして、鞄の中からくしゃっとした数学プリントを引っ張り出した。
「あった!」
「よかったね」
「でも端が曲がってる」
「出せるだけましだろ」
俺が言うと、田端はプリントを机に置いて、両手で伸ばし始めた。
新品には戻らない。人生とプリントは、曲がった跡が残る。いや、朝から何を考えているんだ俺は。
杉浦は少し遅れて教室に入ってきた。
鞄を置くなり、机に突っ伏す。
「眠そう」
小野が声をかけると、杉浦は顔だけ横へ向けた。
「昨日、部活の予定表見てたら嫌になった」
「そんなにきついの?」
「正月明けから走るって書いてあった」
「うわ」
小野が素直に同情する。
杉浦は少しだけ顔を上げた。
「小野さんは宿題終わってるんだろ」
「終わってるよ」
「だよな」
「杉浦くんも?」
「一応。字は汚いけど」
「出せるなら大丈夫だよ」
何でもない会話なのに、二人の間に初詣の時の空気が少し残っている気がした。
杉浦が小野の方を見る時間が、ほんの少し長い。小野も、田端へ突っ込む時より声がやわらかい。
本人たちに言うと全力で否定しそうなので、俺は黙っておく。三十二歳の経験上、こういうものは外野が急かすとろくなことにならない。
久住は予鈴の少し前に来た。
席へ向かう途中で、提出物を持ったまま田端の机を見て、短く言う。
「田端くん、プリントが負けてる」
「負けてない。少し曲がっただけ」
「見た目は負けてる」
「久住さん、新年から容赦ないな」
久住は少しだけ笑って、自分の席へ向かった。
あの淡々とした一言があると、教室の空気が変に重くならない。田端は多少削られているが、本人も半分楽しんでいるので問題ないだろう。
白石はその少し後に教室へ入ってきた。
学校の制服姿に戻ると、初詣の時より少し落ち着いて見える。グレーのコートも白いマフラーもない。けれど、席へ向かう途中で俺と目が合うと、ほんの少しだけ表情がやわらいだ。
「おはよう、佐伯くん」
「おはよう」
それだけだった。
初詣の時みたいに、袖をつかむこともない。おみくじの話をするわけでもない。
それなのに、俺は机の中に手を入れたまま、少しだけ動きが遅れた。
年明け早々、我ながら面倒くさい。
白石は小野の方へ行き、提出物の話を始めた。
小野が何か言うと、白石が小さく笑う。久住もそこに加わって、三人で冬休みの宿題を確認していた。
その光景を見て、少しほっとした。
前の人生では、白石がこうして女子の輪の中にいるところを、俺はどれくらい見たのだろう。たぶん、ほとんど覚えていない。覚えていないということは、見ようとしていなかったのかもしれない。
そこで綺麗に反省できれば格好いいのだが、実際には田端が隣でまた鞄をあさり始めたせいで、俺の思考は途切れた。
「今度は何だよ」
「国語のワーク」
「お前、朝の短時間で何回不安になるんだ」
「不安は無料だからな」
「いらない無料サービスだな」
チャイムが鳴り、高村先生が教室へ入ってきた。
冬休み明けの教室が、ようやく学校の形に戻る。
「はい、おはようございます」
高村先生の声に、教室がばらばらに返事をした。
眠そうな声、元気な声、口だけ動かしたような声。先生はそれを見て、少し苦笑する。
「冬休み気分は、今日中に片付けてくださいね。提出物はこのあと集めます」
田端が小さくうめいた。
小野が横から「出せるでしょ」と小声で言う。田端は曲がったプリントをそっと机の上へ置いた。
連絡事項がいくつか続いた。
始業式、委員会、部活、給食の開始日。どれも学校らしい話で、聞いているだけで現実に戻される。
そして先生は、黒板の前で少しだけ声を落とした。
「それから、みなさんは春から中学三年生です」
教室の空気が、ほんの少しだけ変わった。
さっきまで宿題だの部活だのと言っていた連中も、少し顔を上げる。
「三年生になるということは、受験生になるということです」
受験生。
その言葉は、思ったより重く教室に落ちた。
中学二年の三学期なんて、まだ中二だろ、と言いたくなる時期だ。けれど先生の口から言われると、途端に逃げ場が減る。
田端が、俺の斜め前で手を上げた。
「先生、まだ早くないですか」
教室の何人かが笑った。
高村先生も少し笑ったが、首は横に振った。
「早くありません。今すぐ志望校を決めなさい、という話ではないです。でも、何も考えないまま春になると、そこから慌てることになります」
「慌てるのは嫌です」
「なら、少しずつ考えましょう」
田端は「うっす」と言って手を下ろした。
言い方は軽いが、たぶん半分くらい本気で嫌なのだろう。慌てるのが好きなやつはいない。慌てるしかない状況を作るやつはいる。社会人時代の俺も、わりとそっち側だった気がする。
受験と聞くと、前の人生でなんとなく流れに乗って、なんとなく学校を選んだ時のことが少し戻ってきた。
それで人生が全部決まるわけではない。三十二歳まで生きれば、それくらいは分かる。
ただ、後で面倒になる選び方というのはある。行き先を適当にしておいて、あとから距離だの校風だの成績だので文句を言うやつだ。昔の俺に刺さる。やめてほしい。
先生は黒板に「進路」と書いた。
「これから少しずつ進路の話もしていきます。おうちの人とも話してください」
家で話す。
その言葉で、父さんの顔が浮かんだ。
株より先に進路だろ、と言われる未来が見える。かなり見える。父さんなら言う。
ふと白石の方を見ると、白石は黒板をじっと見ていた。
少し真剣な顔だった。
進路希望調査の紙に、何を書くのか。
白石が何を考えているのかは分からない。けれど、初詣の時におみくじを両手で持っていた姿と、今の横顔が変に重なった。
おみくじにあった「急ぐな。誠実に待て」という一文が、ここでまた頭の奥に戻ってくる。
俺は机の下で、少しだけ指を曲げた。
おみくじの文言を学校まで持ち込むな。縁起物のくせに、妙に仕事熱心で困る。
ホームルームが終わる頃、高村先生は思い出したようにプリントの束を持ち上げた。
「それと、これは今日配っておきます。提出はまだ先ですが、なくさないように」
前の席から紙が回ってくる。
上には、進路希望調査と書かれていた。
田端が紙を受け取った瞬間、固まった。
「希望って、何書けばいいんだ」
その声がわりと本気で、俺は笑いそうになってやめた。
人のことは言えない。
二度目の中学生でも、白い紙は普通に白かった。
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▼登場人物まとめ
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