第六十話「新年、まず財布の中身を数える」
「悠真、はやく起きなさい」
母さんの声で、俺は布団の中から現実へ引き戻された。
カーテンの向こうが明るい。枕元の時計を見ると、もう朝とは言い張れる時間だった。
正月くらい寝かせてほしい。
三十二歳の俺なら、そう思って昼前まで布団にしがみついていたかもしれない。だが今の俺は、佐伯家の中学生である。正月の朝に母親から起こされる立場だ。
しかも佐伯家には、元日の朝だけやる妙なきっちり感があった。
「起きてる」
そう返したものの、起きてはいない。
布団の中で返事をしただけだ。
「返事だけじゃなくて起きなさい。おしるこ冷めるわよ」
おしるこ。
その単語で、ようやく身体が少し動いた。
佐伯家の元日の朝は、雑煮ではなくおしるこだった。
理由はよく知らない。母さんの実家がそうだったとか、父さんが甘い餅の方が好きだとか、たぶんそんな話だった気がする。毎年そうなので、誰も深く考えない。
家ごとの正月なんて、だいたいそういうものだ。
顔を洗って台所へ行くと、鍋から甘い匂いがしていた。
テレビでは朝から晴れ着の芸能人が笑っている。テーブルの端には届いた年賀状が束になって置かれ、父さんは新聞を広げたまま、まだ読んでいるのか眺めているだけなのか分からない顔をしていた。
「お餅何個?」
母さんが鍋を見ながら聞いてきた。
「二個」
「本当に二個でいいの?」
「朝から三個はきつい」
「去年は三個食べてたわよ」
「成長したんだよ」
「減ってるじゃない」
母さんが笑った。
十四歳の胃袋なら三個でもいける気はする。だが、中身が三十二歳だと、正月の朝から餅三個は少し構える。
それでも鍋の中でやわらかくなった餅を見ると、一瞬だけ三個でもよかったかと思った。俺の胃袋も方針を統一してほしい。
お椀が三つ並べられたところで、母さんが「はい」と声をかけた。
父さんが新聞を畳む。
俺も椅子へ座りかけて、母さんに見られた。
「先に挨拶」
「ああ」
そうだった。
佐伯家では、元日の朝に家族で向かい合って新年の挨拶をする。
しかも、軽く頭を下げるだけでは終わらない。
畳の部屋へ移動し、三人で膝をついて、三つ指をつく。
昔はそれが普通だと思っていた。
大人になってから考えると、なかなかきっちりしている。会社の年始挨拶より姿勢が正しいかもしれない。
父さん、母さん、俺の順で向かい合う。
母さんが少し笑いをこらえている。俺が眠そうな顔をしているからだろう。
「あけましておめでとうございます」
「あけましておめでとうございます」
「あけましておめでとうございます」
三人の声が重なった。
「今年もよろしくお願いします」
「今年もよろしくお願いします」
「今年もよろしくお願いします」
言い終わって頭を上げる。
照れくさい。
毎年やっているはずなのに、妙に照れくさい。
でも、この照れくささごと、家の正月なのだと思う。
「はい、じゃあ食べましょう」
母さんのその一言で、急にいつもの食卓へ戻った。
おしるこは少し熱くて、餅は箸で持ち上げるとゆっくり伸びた。甘い。朝から甘い。
正月の朝というだけで、この甘さが許される気がするのだから不思議だ。
「悠真、年賀状来てるぞ」
父さんがテーブルの端を指した。
「俺に?」
「田端くんから」
「あいつ、年賀状書くんだ」
意外だった。
手に取ると、田端らしい大きな字で「あけおめ」と書いてあった。余白には、よく分からない虎の絵がある。
いや、二〇一一年は卯年だ。
なぜ虎を描いた。
「田端らしいわね」
母さんが覗き込んで笑う。
俺は年賀状を裏返しながら、あとでメールで突っ込むことにした。
食べ終わる頃、母さんが封筒を持ってきた。
お年玉だった。
「はい。お父さんとお母さんから」
「ありがとう」
受け取る時、反射的に少し背筋が伸びる。
中学生の頃のお年玉は、やけに重かった。封筒の厚みだけで、しばらく夢が見られる。
三十二歳の俺なら、五千円で何ができるかをすぐ計算する。交通費、昼飯、コンビニ、足りない生活用品。夢がない。
だが今は、中学生の一年で数少ないまとまった収入だ。
午前中のうちに、近所の親戚の家へ挨拶にも行った。
そこで親戚からも封筒をもらう。
年始の挨拶をして、みかんを食べ、知らない間に背が伸びたと言われる。実際は身体が戻っただけなのだが、そんなことは言えない。
昼過ぎに帰宅して、自分の部屋へ戻る。
俺は机の上に封筒を並べた。
父さんと母さんから五千円。
親戚から五千円。
別の親戚から三千円。
合計、一万三千円。
中学生の手元にある金としては、かなり大きい。
パソコン代で出した一万円の穴が、少し埋まった気がした。
ただし、全部を自由に使えるわけではない。
うちでは、お年玉の大半は貯金に回すことになっている。全額没収ではないが、好きに使っていい金額は親と相談する。
前の人生では、正月に親戚からもらった金がどう処理されたのか、ほとんど覚えていない。たぶん何となく貯金され、何となく消えていった。
今は、何となく消える金が一番怖い。
俺は小遣いの支出表を開き、お年玉の欄を作った。
パソコン代の一万円。
参考書や付箋。
図書館へ行く時の飲み物代。
クリスマスのプレゼント代。
そういう細かい支出の横へ、今日の収入を書く。
表に入れると、少し落ち着く。
金が増えたという浮かれた感じが、数字になると現実へ戻る。
社会人時代の給与明細も、見た瞬間はうれしいのに、家賃だの保険だのカード代だのを引くと急に冷めた。
中学生の小遣い表で同じ気分になるとは思わなかった。
「悠真」
ノックのあと、父さんが部屋を覗いた。
「お年玉、数えたか」
「数えた」
「全部使うなよ」
「分かってる。貯金に回す」
「それと」
父さんが机の上の支出表を見て、少しだけ目を細める。
「株はまだ買わないぞ」
「分かってる」
「分かってる顔じゃない」
「どんな顔だよ」
「金が入って、少し悪いことを考えてる顔」
失礼な。
ただ、完全に外れてもいない。
お年玉が入った瞬間、頭の端で「これを元手に」と考えたのは事実だ。
頭には、ビットコインや日本株、スマホ関連という言葉がまとめて浮かんだ。
未来知識というやつは、金が少し入っただけで急に態度を大きくする。
だが、今それを親に隠してやったら終わりだ。
父さんに信用されなくなるし、パソコンも消える。俺の未来計画は、押し入れの古いラジオより先に電池切れになる。
「まだ調べるだけにする」
「そうしろ」
「小遣い表も続けてる」
「それはいい。使った金と残った金が分かるのは大事だ」
「お年玉は、いくらまで手元に置いていい?」
父さんは少し考えた。
「五千円までだな。残りは貯金」
「五千円」
「不満か」
「いや。十分」
正直、思ったより残してもらえた。
五千円あれば、参考書や文房具、図書館の飲み物代、初詣の屋台くらいはどうにかなる。
もちろん、調子に乗ればすぐ消える。
中学生の財布は、穴が開いていなくても勝手に軽くなる。
「あと、パソコンは今まで通りだ。正月だからって夜更かしするな」
「はい」
「宿題も進めろよ」
「正月から現実に戻さないでよ」
「戻すために言ってるんだ」
父さんは短く笑って部屋を出ていった。
俺は支出表の端に、自由に使える額として五千円と書く。
五千円と書いた瞬間、未来を変えるには笑えるほど少ないのに、友達と初詣へ行くには十分すぎる額だと思った。
財布の中身に合わせて、やれることも急に中学生サイズになる。
そう考えたところで、机の上のガラケーが震えた。
田端からだった。
『初詣いこうぜ』
本文はそれだけ。
句読点もない。正月から相変わらずだ。
『誰と』
そう返すと、すぐに返信が来た。
『みんな』
雑。
あまりにも雑。
この「みんな」がどこまでを指しているのか、本人もたぶん考えていない。
俺は少し迷ってから、小野にもメールした。
田端が初詣に行こうと言っているが、誰まで声をかけるつもりなのか分からない、と正直に書く。
数分後、小野から返事が来た。
『田端くんらしいね。澪と久住さんにも聞いてみる』
さすが小野。
話が早い。
続けて杉浦からも田端経由で連絡が来た。午前中は親戚の家、午後なら行けるらしい。
久住は「人が多すぎなければ」と返したそうだ。
白石からの返事は、少し遅れて届いた。
『私も行けそうです。時間が決まったら教えてください』
丁寧だった。
正月でも白石のメールは白石だった。
俺は返信欄を開いた。
『分かった。決まったら連絡する』
打ってから、少し固い気がした。
かといって、『おう』だけでは雑すぎる。田端相手ならそれでいいが、白石相手に正月から雑な返信をする勇気はない。
少し考えて、最後に一文を足した。
『あけましておめでとう。今年もよろしく』
送信してから、俺は携帯を机に伏せた。
さっき家族に三つ指をついて言った挨拶より、こっちの方が妙に照れる。
何なんだ、これは。
数分後、携帯がまた震えた。
画面を開くと、白石からだった。
『あけましておめでとう。今年もよろしくね』
語尾の「ね」を見て、俺は少しだけ手を止めた。
それから、支出表の端に置いた五千円の文字を見る。
今年最初の予定は、どうやら初詣になりそうだった。




