閑話「小野美咲は、杉浦くんの声が気になる」
杉浦くんの声は、思っていたより低かった。
合唱祭の練習は何度もしていたし、普段から同じ教室にいる。話したことだって、一度や二度ではない。
それなのに本番で男子の声が重なった時、私はなぜか杉浦くんの声を探してしまった。
田端くんの声が大きかったから、その隣を探せば分かりやすかっただけだと思う。
……たぶん。
優秀賞が決まり、教室へ戻ってからも、少しだけ耳に残っていた。
田端くんが大きな声で喜んで、杉浦くんがいつものように横から突っ込む。
さっきまで舞台で歌っていた時と同じ声なのに、教室で聞くといつもの杉浦くんに戻っている。
「まあ、田端にしては最初よかったんじゃないか」
「褒めてる?」
「たぶん」
「たぶん多いな、今日」
私は笑ってしまった。
すると、杉浦くんがこちらを見た。
目が合ったのはほんの一瞬だったのに、なぜか私の方が先に逸らせなかった。
「小野さんも、あの……音取りとか、助かった」
急に自分の名前が出て、返事が遅れた。
「え」
「昼休みとか、女子の方もまとめてただろ」
「あ、うん。杉浦くんも、男子に声かけてたし」
「まあ、部活組は放っておくと帰るから」
「そういうところ、ちゃんとしてるよね」
そこまで言ってから、私は少し後悔した。
もっと普通に返せばよかった。
ありがとう、とか。
杉浦くんも上手だった、とか。
わざわざ「ちゃんとしてる」なんて、普段はそう見ていなかったみたいではないか。
杉浦くんも返事に困っていた。
耳が少し赤く見えたのは、体育館から戻ってきたばかりだからだと思う。
たぶん、私の頬が熱いのも同じ理由だ。
「俺もちゃんとしてた?」
田端くんが横から入ってきた。
こういう時だけは本当に助かる。本人には絶対に言わないけど。
「田端くんは、声が大きかった」
「それ褒めてる?」
「今回は、少し」
杉浦くんが吹き出した。
その笑い声を聞いて、私はまた少し落ち着かなくなった。
声なんて、今まで気にしたことはなかったはずなのに。
帰りの会が終わると、杉浦くんはすぐに鞄を持った。
今日も部活があるらしい。合唱祭の日くらい休みでもよさそうなのに、グラウンドでは普通に練習するそうだ。
「杉浦くん、もう行くの?」
気づいたら、私から聞いていた。
「うん。遅れたら走らされる」
「大変だね」
「合唱よりは慣れてるから」
杉浦くんは肩に鞄をかけ直した。
「小野さんも、お疲れ」
「う、うん。杉浦くんも」
もう少し何か言おうとした時には、杉浦くんは田端くんに呼ばれて教室の外へ出ていた。
低くて聞き取りやすい声だった、なんて、本人に言わなくてよかった。
そんなことを言ったら、私がずっと聞いていたみたいになる。
私は黒板の横に残っていた合唱祭の日程表を外し、高村先生の机へ置いた。
澪は自分の席で、歌詞カードを鞄の奥へしまっている。
大事そうに扱っているのが分かったので、私は何も言わなかった。
教室を出ると、少し先に澪と佐伯くんがいた。
二人とも歩いているのに、どちらも相手へ何か言いたそうな顔をしている。
そのまま昇降口まで黙って行くのかと思ったら、澪が小さく佐伯くんを呼んだ。
「佐伯くん」
「ん?」
「舞台袖で、ありがとう」
「俺、田端の話しかしてないぞ」
「うん。でも、少し笑えたから」
佐伯くんは困ったように頭をかいた。
「なら、まあ、田端に感謝だな」
「佐伯くんにも、だよ」
「……そうか」
澪が笑う。
佐伯くんは前を向いたまま、少しだけ歩く速さを落とした。
二人の間に特別近い感じはない。肩が触れているわけでも、手をつないでいるわけでもない。
でも、夏休み前より会話の間が自然になっていた。
澪には、あとで聞いてみたい。
舞台袖で何を言われたのか。佐伯くんの「良かった」が、どのくらい嬉しかったのか。
少しくらいからかっても、今の澪なら困りながら笑ってくれそうだ。
そこまで考えて、杉浦くんの声が頭に戻ってきた。
『小野さんも、お疲れ』
別に、普通の挨拶だ。
それを何度も思い出している私が、澪をからかっていいのだろうか。
かなり怪しい。
「小野さんも忙しいね」
隣から声がして、私は肩を揺らした。
久住さんが、いつの間にか私の横を歩いていた。
「何が?」
「白石さんと佐伯くんを見たり、杉浦くんを見たり」
「杉浦くんは見てない」
「そう」
「その返事、絶対信じてないでしょ」
「半分くらいは信じてる」
「半分しかないじゃん」
久住さんは少しだけ笑った。
合唱の時と同じで、声を大きくしないのによく届く。
「音取り、助かったって言われてたね」
「聞いてたの?」
「近くにいたから」
「それだけだから。合唱祭の話」
「うん」
「本当に、それだけ」
「二回言うと少し怪しい」
言わなければよかった。
久住さんは、言葉が少ないくせに変なところだけよく見ている。
前を歩いていた澪が、私たちの声に気づいて振り返った。
「小野さん、久住さん。どうしたの?」
「何でもないよ」
「小野さんが忙しいみたい」
「久住さん!」
思わず声が大きくなった。
佐伯くんまで振り返る。
澪は不思議そうにしていたが、久住さんの顔と私の顔を交互に見て、少しだけ笑った。
たぶん、何かを察したわけではない。
そう思いたい。
私たちは四人で昇降口まで歩いた。
佐伯くんと澪の間に私が入り、久住さんがその横に並ぶ。
さっきまでの二人の空気は消えてしまったけれど、澪は嫌そうではなかった。
靴を履き替えている途中、久住さんがまた小さく言った。
「小野さん、顔赤いよ」
「体育館、暑かったから」
「もう外、寒いけど」
「今から冷やすの」
自分でも苦しい言い訳だと思った。
久住さんは追いかけてこなかった。その代わり、また短く笑っていた。
◇ ◇ ◇
家に帰ってから、鞄の中身を机へ出した。
筆箱、教科書、歌詞カード。それから、合唱祭の進行や集合時間が書かれたプリント。
もう終わった行事の紙だから、捨てても困らない。
私はプリントを古紙の束に重ねた。
そのまま宿題を始めようとして、手が止まる。
歌う順番の横には、男子が遅れやすいところと、杉浦くんたちに伝えた注意が、自分の字で小さく残っていた。
その字を見たら、また教室で言われた言葉を思い出した。
『音取りとか、助かった』
私は古紙の束からプリントを抜いた。
捨てない理由なら、いくらでも作れる。
次の音楽の授業で何か確認するかもしれない。先生に聞かれるかもしれない。記念に取っておく人だっているかもしれない。
どれも少し苦しい。
でも、今日すぐ捨てなくても別に困らない。
私はプリントを半分に折り、机の一番上の引き出しへ入れた。
閉める時、紙の端が少し引っかかったので、もう一度開けて奥へ押し込む。
今度はきれいに閉まった。
私は何もなかった顔で宿題のノートを開いた。
最初の問題を読む前に、杉浦くんの声がまた一度だけ戻ってきた。
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▼登場人物まとめ
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