第五十四話「歌い終わったあと、言葉が少し足りない」
ステージに出ると、体育館の広さが急に感じられた。
さっきまで舞台袖の暗さに目が慣れていたせいか、照明が少しまぶしい。前の方には審査員席らしい机があり、その奥に学年の生徒たちが並んで座っている。
思ったより人がいる。
——いや、最初から分かっていたはずだ。分かっていたのに、実際に前へ立つと数が増えたように見える。
田端が前の列で、やけに背筋を伸ばしていた。
緊張すると姿勢だけよくなるタイプらしい。普段からそうしてくれ。
杉浦はその横で、両手を体の脇に下ろしている。小野は女子側の列で前を向き、久住は白石の隣に立っていた。
白石は、客席の方を見ていなかった。
少し斜め下、たぶん指揮をする先生のあたりを見ている。
制服の脇でそろえた指先はまだ落ち着かないが、足はちゃんと舞台の上にあった。
それだけ見て、俺は自分の位置についた。
人の心配をしている場合ではない。俺も普通に間違える可能性がある。
三十二歳の知識があっても、合唱の入りを一拍間違えたら終わりだ。
人生無双、相変わらず守備範囲が狭い。
ピアノの音が鳴った。
体育館のざわつきがすっと引いて、かわりに足元の床が少し硬く感じる。
最初の入りが近づく。
田端、頼むぞ。
わりと本気でそう念じた。
男子の声が出た。
少しだけ遅れた気もする。
ただ、止まるほどではない。
田端の声も混ざっている。妙に大きいが、ぎりぎり許される範囲だ。たぶん。
次に女子の声が重なった。
小野の声が聞こえる。
久住の低めの声が、下を支えるみたいに入ってくる。
その横に、白石の声があった。
最初は少し細かった。
すぐ切れてしまいそうで、俺は一瞬だけそちらを見そうになった。
見たらたぶん、自分の入りを落とす。
なので、前を見る。
先生の手を見る。
口を動かす。
白石の声が、一度だけ揺れた。
久住がほんの少し白石の方へ顔を向けたのが、端の視界に入る。
小野も気づいたのか、声を少し前に出した。
白石は止まらなかった。
次のところで、ちゃんと戻ってきた。
歌いながら、妙なことを思った。
俺が戻る前の未来で、白石はこの舞台に立っていたのだろうか。
考えても分からない。
分からないくせに、今ここで舞台に立っている白石の姿だけは、やけにはっきり見えた。
喉の奥が少し変になった。
歌っている最中に余計なことを考えるな。
俺は先生の指揮に目を戻し、田端が変なところで飛び出さないことを祈った。
最後の音が伸びる。
体育館の天井に、みんなの声が少し残った気がした。
ピアノが止まる。
一拍遅れて、拍手が来た。
田端がほっとした顔をした。
あからさますぎる。
杉浦が横から小さく何か言い、田端が口を結ぶ。
まだ舞台の上だ。偉い。口を閉じられるだけ偉い。
礼をして、列のまま舞台を降りる。
階段を降りたところで、白石が小さく息を吐いた。
久住が隣で言う。
「白石さん、途中、戻れたね」
「うん。少し、危なかった……」
「でも戻った」
「……ありがとう」
舞台袖の机から歌詞カードを受け取ると、白石はそれを胸の前で持ち直した。
小野が横から顔を出す。
「澪、ちゃんと聞こえたよ」
「本当?」
「本当。私、隣じゃないけど分かった」
白石の口元がゆるむ。
照れているのか、ほっとしているのか、たぶん両方だ。
その後の時間は、少し長かった。
他のクラスの歌を聞き、椅子に座り直し、田端が小声で感想を言いかけて杉浦に止められる。
小野は何度か杉浦の方を見ていた。
杉浦は気づいていないふりをしているが、耳だけ少し赤い。
お前ら、合唱祭中に何をやっている。
いや、俺も白石の声ばかり探していたので、人のことは言えない。
結果発表は、思ったよりあっさり来た。
最優秀賞は別のクラスだった。
うちのクラスは、優秀賞だった。
最優秀は逃したが、田端の入りを考えれば十分すぎる気もする。田端には言わないでおく。
「優秀賞! やったじゃん!」
教室に戻るなり、田端が声を張った。
さっきまで先生に静かにしろと言われていた反動が一気に出ている。
「最優秀じゃないぞ」
「でも賞だろ」
「それはそう」
「じゃあ喜んでいい」
田端は胸を張った。
杉浦が呆れたように笑う。
「まあ、田端にしては最初よかったんじゃないか」
「褒めてる?」
「たぶん」
「たぶん多いな、今日」
小野がくすっと笑った。
杉浦はその笑いを見て、少しだけ言葉を探す顔をした。
「小野さんも、あの……音取りとか、助かった」
「え」
「昼休みとか、女子の方もまとめてただろ」
「あ、うん。杉浦くんも、男子に声かけてたし」
「まあ、部活組は放っておくと帰るから」
「そういうところ、ちゃんとしてるよね」
言ったあとで、小野が少し固まった。
杉浦も返事に困った顔をする。
田端だけが「俺もちゃんとしてた?」と割り込んだ。
「田端くんは、声が大きかった」
「それ褒めてる?」
「今回は、少し」
小野の返しに、杉浦が吹き出した。
田端はまた「少し」と言われている。
この一連の流れを見て、久住が短く笑った。
久住が笑うと、白石も少し笑う。
六人でいる感じが、いつの間にか普通になっていた。
久住は白石の方を向いた。
「白石さん、ちゃんと聞こえたよ」
「久住さんにも?」
「うん。途中、ちょっと揺れたけど、そのあと聞こえた」
「そっか」
白石は歌詞カードの角を指で撫でた。
その指には、まだ少しだけチョークの白っぽさが残っている気がした。実際には朝に洗っているはずなので、たぶん俺の見間違いだ。
「佐伯くん」
白石がこちらを見た。
俺は返事をしようとして、少し遅れた。
「お、おう」
おう、じゃない。
何だその返事は。
白石は少し笑いそうになってから、すぐに視線を歌詞カードへ落とした。
「声、出てたかな」
「出てた」
「本当に?」
「本当に」
そこで止まった。
もっと言えることはあった気がする。
途中で揺れたけど戻ったとか、久住の横でちゃんと立っていたとか、前よりずっと声が届いていたとか。
言えばいい。
言えばいいのに、口から出たのは、結局それだけだった。
「良かった」
白石は目を伏せた。
それから、小さく頷く。
「……うん」
こういう時、気の利いた言葉がすっと出る人間になっておきたかった。
でも、田端が後ろで「賞状どこ飾るんだろ」と騒ぎ始めたので、足りないまま流れていった。
助かったのか、邪魔されたのか、少し判断に困る。
帰りの会が終わる頃には、教室の空気も少し落ち着いていた。
高村先生が「よく頑張りました」と言い、田端がまた少し胸を張る。
誰かが賞状の置き場所を聞き、先生が「職員室で預かります」と答える。
そんな普通のやり取りの中で、白石は自分の席に座っていた。
机の中にしまうのかと思った。
けれど白石は、歌詞カードを折らずに、鞄の奥へそっと入れた。
すぐ取り出すプリントの場所ではなく、くしゃっとならない場所。
それを見て、俺は鞄の口を閉じる手を少し止めた。
田端が「帰りに何か食って帰らね?」と言っている。
杉浦が「部活ある」と返し、小野が「今日くらい早く帰りなよ」と笑う。
久住は窓際で、歌詞カードを同じように鞄へしまっていた。
白石が顔を上げる。
目が合った。
何か言うかと思ったが、白石は少しだけ笑って、鞄を持った。
俺も何か言おうとして、結局やめた。
鞄の肩紐を持ち直すだけで終わる。
そのまま立ち上がったら、田端に「悠真、聞いてる?」と言われた。
聞いてない。
まったく聞いてなかった。
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▼登場人物まとめ
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