表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
三十代社畜の俺、中二に戻って人生無双を始める 〜なお宝くじの番号は覚えていない〜  作者: らいお


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
59/60

第五十三話「舞台袖で、声を探す」

 合唱祭当日の体育館は、いつもの体育館と少し違って見えた。

 床のワックスの匂いに、パイプ椅子の金属っぽい音と、どこかのクラスが小声で音を確認している声が混ざっている。ステージの幕はいつもより重そうで、天井の照明までよそ行きの顔をしていた。


 中学生の頃の俺は、こういう行事をたぶん面倒くさがっていた。

 歌って、並んで、結果を聞いて、帰る。

 それくらいのものだったと思う。

 だが今は違う……などときれいに言いたいわけではない。ただ、朝から田端がうるさいせいで、妙に落ち着かない。


「なあ、俺たち何番目だっけ」

「さっき聞いただろ」

「聞いたけど、緊張で飛んだ」

「まだ歌ってもないのに飛ぶな」


 杉浦が小声で突っ込む。

 田端は歌詞カードを両手で持ち、何度も折り目を直していた。落ち着きがないにもほどがある。


「俺、最初の入りだけ気をつければいいんだよな?」

「そこだけじゃない」

「え、他にも?」

「むしろ全体」

「杉浦、今そういうこと言う?」


 田端が本気で傷ついた顔をする。

 その顔を見て、近くにいた男子が小さく笑った。

 緊張して固まるよりはいい。いや、田端本人は本気で緊張しているのかもしれないが、うるさいのであまり同情できない。


 女子の列の方を見ると、小野が歌詞カードを胸の前で持ったまま、少し落ち着かない様子で立っていた。

 その隣で、杉浦を見る。

 いや、見ていないふりをして、たぶん見ている。

 杉浦はいつもより静かだった。田端の横にいるのに、あまり余計なことを言わない。


「杉浦、緊張してる?」


 田端が聞いた。

 直球すぎる。


「してない」

「してる顔だぞ」

「お前がうるさいから黙ってるだけ」

「俺のせい?」

「だいたい」


 小野が口元を押さえた。

 笑いそうになったらしい。

 杉浦はそれに気づいたのか、少しだけ視線を逸らした。

 この二人も、面倒くさい方向に順調で何よりだ。いや、順調と言っていいのか分からないが。


 白石はその少し後ろにいた。

 久住が隣に立って、歌詞カードの端を指で軽く押さえている。


「白石さん、最初のここ、入る前に一回息を吸えば大丈夫」

「うん」

「声、小さくしすぎると逆に苦しくなるから」

「……分かった」


 白石の返事は少し硬い。

 でも、目は歌詞カードから逃げていなかった。

 ここまで来て逃げ出すような顔ではない。

 それが分かって、俺は少しだけ息を吐いた。


 高村先生が列の横を歩いてきた。


「みんな、移動するわよ。静かにね」


 静かに、という言葉は田端に向けられている気がした。

 本人も分かったのか、口をきゅっと結ぶ。

 ただ、三秒後には俺の横で小声を出した。


「悠真、俺、ちゃんと歌えてたらあとで教えて」

「本番前に評価を予約するな」

「不安なんだよ」

「最初の入りだけは覚えろ」

「またそれ」


 列が動き出した。

 体育館の横を通り、ステージ脇の細い通路へ向かう。

 前のクラスの歌が、壁越しに少しこもって聞こえてきた。

 歌詞は分からない。聞こえるのは、声が重なって揺れる感じだけだ。

 体育館の中のざわつきが、幕の裏では少し遠くなる。

 その遠さが、かえって緊張を引っ張ってくる。


 舞台袖は記憶より狭かった。

 暗幕の匂い、木の床の少し湿った感じ、先生たちの小声。

 足元に置かれたコードをまたぐ時、田端がつまずきかけて、杉浦に腕をつかまれた。


「おい」

「今のなし」

「本番前に転ぶなよ」

「転んでない」


 小声でも田端は田端だった。

 近くの女子がくすっと笑う。

 その笑いで、列の硬さが少しだけ抜ける。


 榊原は女子の別の列にいた。

 髪を指で軽く整えながら、こちらをちらりと見る。

 白石と久住の方を見たのか、俺の方を見たのかは分からない。

 榊原はすぐに前を向いた。

 何かを言う場面ではない。さすがに今ここで棘を刺すほど雑ではないらしい。

 ただ、視線だけで十分面倒な時もある。


 白石の手元を見ると、歌詞カードの端が少し曲がっていた。

 ぎゅっと握っているわけではない。

 指先で何度も同じところをなぞっている。


「白石」


 俺が声をかけると、白石は少し驚いたように顔を上げた。


「大丈夫か」

「……たぶん」


 たぶん。

 正直でいい返事だった。

 俺が同じ立場でも、たぶんくらいしか言えない。


「たぶんなら十分じゃないか」

「そうかな」

「本番前に絶対大丈夫とか言えるやつは、だいたい田端くらいだ」


 白石が少しだけ目を丸くする。

 その田端は前の方で、口を結んだまま妙に真剣な顔をしていた。

 いや、今だけ見ると普通に緊張している。


「田端くんも、緊張してるみたい」

「じゃあ絶対大丈夫って言えるやつはいないな」

「ふふ」


 白石が小さく笑った。

 声は本当に小さい。

 でも、さっきより肩の力は抜けたように見えた。


 久住がこちらを見て、少しだけ頷いた。

 助かった、という意味なのか、余計なこと言わなかったね、という意味なのかは分からない。

 後者だったら少し腹が立つ。——いや、たぶん両方だ。


 前のクラスの歌が終わった。

 拍手が体育館の中で広がる。

 袖にいる俺たちの列が、少しだけ前へ詰まった。

 田端が口を開きかけ、杉浦に肘で止められる。


「今は黙れ」

「まだ何も言ってない」

「言いそうだった」


 小野がそれを見て、また少し笑った。

 けれど、その手も歌詞カードを強く持っている。

 みんな緊張している。

 田端だけが特別うるさいだけで。


 司会の声が聞こえた。

 前のクラス名と曲名が終わり、次の準備に入る案内が流れる。

 ステージへ続く階段の前で、高村先生が振り返った。


「落ち着いて。練習通りで大丈夫」


 先生らしい言葉だった。

 練習通り、と言えるほど練習できたかは怪しい。田端の入りは昨日も少し危なかった。

 でも、先生がそう言うなら、そういう顔をしておくしかない。

 大人になってからも、根拠が少し怪しい「大丈夫です」は何度も聞いた。あれに比べれば、今の先生の声はだいぶ優しい。


 白石が、隣で小さく息を吸った。


「声、出るかな」


 それは誰に向けた言葉か分からなかった。

 久住かもしれない。

 小野かもしれない。

 たまたま近くにいた俺かもしれない。


 俺は少し迷ってから、口を開いた。


「出なかったら、田端の声が代わりに出る」


 白石が一瞬、ぽかんとした。


「……それは、ちょっと困るかも」

「だろ。だから出した方がいい」

「ふふっ……うん」


 白石は笑った。

 さっきより、ちゃんと笑った。


「出してみる」


 その言い方が、やけに静かだった。

 俺は何か気の利いたことを返そうとして、やめた。

 気の利いたことなんて、たぶんいらない。

 下手に言うと、俺の方が変に緊張する。


 久住が白石の歌詞カードを軽く指で叩いた。


「私も横にいるから」

「うん。ありがとう」

「小野さんもいるし」

「うん」


 小野が少し身を乗り出した。


「澪、大丈夫。昨日の昼休み、ちゃんと出てたから!」

「うん」


 白石は頷いた。

 何度もではなく、一度だけ。


 高村先生が、舞台袖の端に置かれた机を指した。


「歌詞カードはここに置いて。舞台には持っていかないでね」


 全員が順番に歌詞カードを重ねていく。

 田端は最後まで一箇所を確認してから置き、杉浦に「今さら見ても変わらないだろ」と小声で言われていた。

 白石も自分のカードを机に置いた。指先が一瞬だけ端に残ったが、久住が先に手を離すのを見て、白石も両手を下ろした。


 舞台の向こうで、司会が俺たちのクラス名を呼んだ。

 先生が手で合図する。

 列が動いた。


 田端が前で小さく「よし」と言った。

 杉浦が「声でかい」と囁く。

 小野が笑いをこらえ、久住が前を向く。


 白石は制服の脇で両手をそろえた。

 榊原の視線がどこかにあった気がしたが、白石はそちらを見なかった。


 ステージへ続く階段を、一段上がる。

 白石がその隣で、同じように足を出した。

 体育館の光が、幕の隙間からこぼれている。

 俺は自分の足元を見て、それから前を向いた。


 さあ、歌うか。

 田端が最初で盛大に間違えませんように、とわりと本気で祈りながら。


「面白かった」「続きが読みたい!」と思っていただけましたら、ぜひブックマーク・評価・感想などで応援していただけると嬉しいです。


▼登場人物まとめ

https://syosetu.com/userblogmanage/view/blogkey/3652582/

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ