第五十三話「舞台袖で、声を探す」
合唱祭当日の体育館は、いつもの体育館と少し違って見えた。
床のワックスの匂いに、パイプ椅子の金属っぽい音と、どこかのクラスが小声で音を確認している声が混ざっている。ステージの幕はいつもより重そうで、天井の照明までよそ行きの顔をしていた。
中学生の頃の俺は、こういう行事をたぶん面倒くさがっていた。
歌って、並んで、結果を聞いて、帰る。
それくらいのものだったと思う。
だが今は違う……などときれいに言いたいわけではない。ただ、朝から田端がうるさいせいで、妙に落ち着かない。
「なあ、俺たち何番目だっけ」
「さっき聞いただろ」
「聞いたけど、緊張で飛んだ」
「まだ歌ってもないのに飛ぶな」
杉浦が小声で突っ込む。
田端は歌詞カードを両手で持ち、何度も折り目を直していた。落ち着きがないにもほどがある。
「俺、最初の入りだけ気をつければいいんだよな?」
「そこだけじゃない」
「え、他にも?」
「むしろ全体」
「杉浦、今そういうこと言う?」
田端が本気で傷ついた顔をする。
その顔を見て、近くにいた男子が小さく笑った。
緊張して固まるよりはいい。いや、田端本人は本気で緊張しているのかもしれないが、うるさいのであまり同情できない。
女子の列の方を見ると、小野が歌詞カードを胸の前で持ったまま、少し落ち着かない様子で立っていた。
その隣で、杉浦を見る。
いや、見ていないふりをして、たぶん見ている。
杉浦はいつもより静かだった。田端の横にいるのに、あまり余計なことを言わない。
「杉浦、緊張してる?」
田端が聞いた。
直球すぎる。
「してない」
「してる顔だぞ」
「お前がうるさいから黙ってるだけ」
「俺のせい?」
「だいたい」
小野が口元を押さえた。
笑いそうになったらしい。
杉浦はそれに気づいたのか、少しだけ視線を逸らした。
この二人も、面倒くさい方向に順調で何よりだ。いや、順調と言っていいのか分からないが。
白石はその少し後ろにいた。
久住が隣に立って、歌詞カードの端を指で軽く押さえている。
「白石さん、最初のここ、入る前に一回息を吸えば大丈夫」
「うん」
「声、小さくしすぎると逆に苦しくなるから」
「……分かった」
白石の返事は少し硬い。
でも、目は歌詞カードから逃げていなかった。
ここまで来て逃げ出すような顔ではない。
それが分かって、俺は少しだけ息を吐いた。
高村先生が列の横を歩いてきた。
「みんな、移動するわよ。静かにね」
静かに、という言葉は田端に向けられている気がした。
本人も分かったのか、口をきゅっと結ぶ。
ただ、三秒後には俺の横で小声を出した。
「悠真、俺、ちゃんと歌えてたらあとで教えて」
「本番前に評価を予約するな」
「不安なんだよ」
「最初の入りだけは覚えろ」
「またそれ」
列が動き出した。
体育館の横を通り、ステージ脇の細い通路へ向かう。
前のクラスの歌が、壁越しに少しこもって聞こえてきた。
歌詞は分からない。聞こえるのは、声が重なって揺れる感じだけだ。
体育館の中のざわつきが、幕の裏では少し遠くなる。
その遠さが、かえって緊張を引っ張ってくる。
舞台袖は記憶より狭かった。
暗幕の匂い、木の床の少し湿った感じ、先生たちの小声。
足元に置かれたコードをまたぐ時、田端がつまずきかけて、杉浦に腕をつかまれた。
「おい」
「今のなし」
「本番前に転ぶなよ」
「転んでない」
小声でも田端は田端だった。
近くの女子がくすっと笑う。
その笑いで、列の硬さが少しだけ抜ける。
榊原は女子の別の列にいた。
髪を指で軽く整えながら、こちらをちらりと見る。
白石と久住の方を見たのか、俺の方を見たのかは分からない。
榊原はすぐに前を向いた。
何かを言う場面ではない。さすがに今ここで棘を刺すほど雑ではないらしい。
ただ、視線だけで十分面倒な時もある。
白石の手元を見ると、歌詞カードの端が少し曲がっていた。
ぎゅっと握っているわけではない。
指先で何度も同じところをなぞっている。
「白石」
俺が声をかけると、白石は少し驚いたように顔を上げた。
「大丈夫か」
「……たぶん」
たぶん。
正直でいい返事だった。
俺が同じ立場でも、たぶんくらいしか言えない。
「たぶんなら十分じゃないか」
「そうかな」
「本番前に絶対大丈夫とか言えるやつは、だいたい田端くらいだ」
白石が少しだけ目を丸くする。
その田端は前の方で、口を結んだまま妙に真剣な顔をしていた。
いや、今だけ見ると普通に緊張している。
「田端くんも、緊張してるみたい」
「じゃあ絶対大丈夫って言えるやつはいないな」
「ふふ」
白石が小さく笑った。
声は本当に小さい。
でも、さっきより肩の力は抜けたように見えた。
久住がこちらを見て、少しだけ頷いた。
助かった、という意味なのか、余計なこと言わなかったね、という意味なのかは分からない。
後者だったら少し腹が立つ。——いや、たぶん両方だ。
前のクラスの歌が終わった。
拍手が体育館の中で広がる。
袖にいる俺たちの列が、少しだけ前へ詰まった。
田端が口を開きかけ、杉浦に肘で止められる。
「今は黙れ」
「まだ何も言ってない」
「言いそうだった」
小野がそれを見て、また少し笑った。
けれど、その手も歌詞カードを強く持っている。
みんな緊張している。
田端だけが特別うるさいだけで。
司会の声が聞こえた。
前のクラス名と曲名が終わり、次の準備に入る案内が流れる。
ステージへ続く階段の前で、高村先生が振り返った。
「落ち着いて。練習通りで大丈夫」
先生らしい言葉だった。
練習通り、と言えるほど練習できたかは怪しい。田端の入りは昨日も少し危なかった。
でも、先生がそう言うなら、そういう顔をしておくしかない。
大人になってからも、根拠が少し怪しい「大丈夫です」は何度も聞いた。あれに比べれば、今の先生の声はだいぶ優しい。
白石が、隣で小さく息を吸った。
「声、出るかな」
それは誰に向けた言葉か分からなかった。
久住かもしれない。
小野かもしれない。
たまたま近くにいた俺かもしれない。
俺は少し迷ってから、口を開いた。
「出なかったら、田端の声が代わりに出る」
白石が一瞬、ぽかんとした。
「……それは、ちょっと困るかも」
「だろ。だから出した方がいい」
「ふふっ……うん」
白石は笑った。
さっきより、ちゃんと笑った。
「出してみる」
その言い方が、やけに静かだった。
俺は何か気の利いたことを返そうとして、やめた。
気の利いたことなんて、たぶんいらない。
下手に言うと、俺の方が変に緊張する。
久住が白石の歌詞カードを軽く指で叩いた。
「私も横にいるから」
「うん。ありがとう」
「小野さんもいるし」
「うん」
小野が少し身を乗り出した。
「澪、大丈夫。昨日の昼休み、ちゃんと出てたから!」
「うん」
白石は頷いた。
何度もではなく、一度だけ。
高村先生が、舞台袖の端に置かれた机を指した。
「歌詞カードはここに置いて。舞台には持っていかないでね」
全員が順番に歌詞カードを重ねていく。
田端は最後まで一箇所を確認してから置き、杉浦に「今さら見ても変わらないだろ」と小声で言われていた。
白石も自分のカードを机に置いた。指先が一瞬だけ端に残ったが、久住が先に手を離すのを見て、白石も両手を下ろした。
舞台の向こうで、司会が俺たちのクラス名を呼んだ。
先生が手で合図する。
列が動いた。
田端が前で小さく「よし」と言った。
杉浦が「声でかい」と囁く。
小野が笑いをこらえ、久住が前を向く。
白石は制服の脇で両手をそろえた。
榊原の視線がどこかにあった気がしたが、白石はそちらを見なかった。
ステージへ続く階段を、一段上がる。
白石がその隣で、同じように足を出した。
体育館の光が、幕の隙間からこぼれている。
俺は自分の足元を見て、それから前を向いた。
さあ、歌うか。
田端が最初で盛大に間違えませんように、とわりと本気で祈りながら。
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▼登場人物まとめ
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