第五十二話「合唱祭前、クラスが少しまとまる」
十一月に入ると、合唱祭という言葉が教室の中で急に重くなった。
ついこの前までは「まだ先じゃん」と言っていた田端でさえ、朝の予定表を見ながら変な顔をしている。
「なあ、合唱祭って来週?」
「前からそう言ってただろ」
「……来週って、来週だぞ」
「そうだな」
杉浦が呆れたように返す。
田端は予定表をひっくり返して、裏に何か書いていないか確かめていた。書いてあるわけがない。
会社員だった頃なら、一週間前なんてほぼ直前だ。資料はできているか、関係者の確認は済んでいるか、当日の動線はどうするか。思い出しただけで肩が重くなる。
中学生の合唱祭でそこまで考える必要はない。ないはずなのに、教室を見渡すと、まあまあ危ない感じがした。
男子の半分はまだ他人事みたいな顔をしているし、女子も女子で、ソプラノとアルトの間で細かい不満が残っている。部活組は放課後になるとすぐ散る。
これを一週間でどうにかするのか。
先生って大変だな、と今さら思った。昔の俺、たぶん何も考えずに帰っていた。申し訳ない。
昼休みの終わり、高村先生が教卓に立った。
「今日から、本番前までは放課後に短く練習を入れます。部活や委員会がある人もいると思うけど、出られる日はなるべく出てね」
教室のあちこちから、面倒くさそうな声が漏れる。
先生は慣れた顔で、それを聞き流した。
「あと、全部先生が見て回るのは無理なので、パートごとに確認できる人は協力してください」
久住が、窓際の席で小さくため息をついた。
諦めたような、覚悟したような顔だ。
たぶん、逃げられないと分かったのだろう。
「久住さん、アルト見られる?」
「……はい。できる範囲なら」
久住は短く答えた。
先生が少し安心した顔になる。
「白石さん、歌詞カードの注意書き、前にまとめてくれてたわよね。あれ、黒板に書いてもらっていい?」
「は、はい」
白石が驚いたように背筋を伸ばす。
小野がすぐ隣で「澪、私も手伝う」と小さく言った。
その声が自然で、白石の肩が少しだけ下がる。
放課後の教室は、いつもよりざわついていた。
部活へ行きたい男子、教室に残る女子、どこに立てばいいか分からない奴。全員が少しずつ邪魔な位置にいる。
俺は机を後ろへ寄せながら、前の人生で会議室の椅子を並べていた自分を思い出した。
中学生に戻っても、結局こういうことをしている。
人生無双とは何だったのか。机が重い。
「佐伯、そっち持つ」
杉浦が反対側を持ち上げた。
部活があるらしいが、今日は少しだけ残れるらしい。
「悪い」
「いいけど、田端どこ行った?」
「たぶん、何もしてない」
その田端は、黒板の前で男子を集めようとしていた。
「男子ー、こっち集合! 低い方の声出すやつ!」
「低い方って何だよ」
「俺もよく分からん!」
分からないのに声だけはでかい。
けれど、その声につられて男子が何人か前へ出てきた。腹立たしいことに、役に立っている。
久住は女子のアルト側に立ち、歌詞カードを片手に音を確認していた。
声を張るタイプではないのに、不思議と周りが聞く。
「そこ、上がりすぎると別の音になる。もう一回」
「久住さん、ここ?」
「うん。そこから」
言い方は淡々としている。
でも、突き放す感じはない。分からない子が聞きに行っても、久住は面倒そうな顔をしなかった。
黒板の右側では、白石がチョークを持っていた。
小野が歌詞カードを見ながら、横から順番を確認している。
「澪、ここも書く?」
「うん。男子と女子で入るところが違うから、分けた方がいいかも」
「じゃあ、こっちは私が書くね」
白石は小さく頷いて、黒板に丁寧な字を書いた。
歌詞そのものではなく、入る位置、伸ばすところ、先生に注意されたところ。必要なことだけが並んでいく。
少なくとも俺の記憶では、こういう作業をしている白石に声をかける生徒は少なかった。
今は、歌詞カードを持った女子が普通に横へ来る。
「白石さん、ここってどっち見るの?」
別の女子が、歌詞カードを持って白石の横に来る。
白石は一瞬だけ目を上げて、それから黒板の端を指した。
「ここ。アルトは久住さんが言ってたところから入ると思う」
「あ、そっか。ありがとう」
「うん」
それだけの会話だった。
白石は少しだけ戸惑っていたが、すぐ次の字を書き始める。
俺は机を押しながら、その横顔を見てしまった。
見すぎるな。机を運べ。
「佐伯くん」
白石がこちらを向いた。
妙にタイミングが悪い。いや、俺が見ていたせいだ。
「男子の方、ここ、最初だけ入りが遅れてるって先生が言ってたから、田端くんたちに伝えてもらえる?」
「分かった」
「ごめんね、お願いして」
「いや、黒板の字、助かる」
白石は少しだけ目を伏せた。
「うん」
その小さい返事が、教室のざわつきの中で妙に残った。
俺は咳払いをして、男子の方へ向かった。
何を照れているんだ。業務連絡だぞ。業務じゃないけど。
「田端、最初の入り、遅れてるらしい」
「俺?」
「男子」
「男子代表みたいに言うなよ」
「今、声だけ代表だろ」
田端は少し嬉しそうにした。
「じゃあ、俺が言うわ。男子ー、最初遅いって!」
「お前が一番遅いんだよ」
杉浦の突っ込みで、男子側から笑いが起きる。
その笑いのあとで、何人かが歌詞カードを見直した。
まだ全然そろっていない。田端はすでに次のところで怪しい顔をしている。
それでも、さっきよりは前を見ている奴が増えていた。
教室の後ろの方で、榊原が友達と話していた。
練習に参加していないわけではない。歌詞カードも持っているし、声も出している。
ただ、中心にいる感じではなかった。
久住のところには音を聞きに行く子がいる。白石の黒板には確認に来る子がいる。小野は女子側の欠席や委員会の子を拾っている。杉浦は部活組の男子に「十分だけ残れ」と声をかけていた。
榊原が入る場所が、前より少しだけ狭くなっている。
「なんか、白石さん、忙しそうだね」
榊原の声が聞こえた。
笑っている。近くの女子に言っただけの声量だったが、俺の耳には入った。
「先生に頼まれてたしね」
その女子が普通に返す。
榊原は「そうだね」と言って、歌詞カードに目を落とした。
そこで言い合いになるようなことはなかった。
ただ、榊原の指がカードの端を少し折った。
俺はそこへ行かなかった。
行っても、たぶん何もできない。むしろ余計な火をつける。
面倒だが、今は練習を進めた方がいい。
何度か通して歌ううちに、教室の音は少しずつまとまってきた。
田端は相変わらず一箇所だけ変なところで大きい。
杉浦はそこを肘でつつく。
小野が笑いをこらえ、久住が「田端くん、そこだけ目立つ」と真顔で言う。
「目立つの駄目?」
「そこは駄目」
「厳しい」
田端がしょんぼりしたふりをして、男子がまた笑う。
笑ったあとで、もう一度歌う。
その繰り返しだった。
白石は黒板の端に立って、歌詞カードを見ながら声を出していた。
以前より少しだけ、声が前に出ている。
久住がそれに気づいたのか、何も言わずに小さく頷いた。
小野は隣で嬉しそうにしている。
俺は男子側で歌いながら、白石の声を探しかけて、慌てて自分の歌詞カードへ目を戻した。
探すな。
いや、聞こえるものは仕方ない。
そういう言い訳をする三十二歳、かなり駄目だと思う。
「佐伯くん」
練習が一度止まったところで、久住が俺を呼んだ。
「男子、最後のところだけ声が沈んでる。田端くんだけ上に飛んでるけど」
「俺だけ飛んでる?」
「飛んでる」
「かっこいい?」
「違う」
田端が肩を落とし、周りが笑う。
俺は久住から言われたところを男子に伝えた。
誰かが気づいて、誰かが伝えて、誰かが笑わせて、またやる。
こういうのを「まとまってきた」と言うのかもしれない。言うと急に先生の反省文みたいで嫌だが。
教室の机はまだ後ろで斜めになっているし、田端はまた同じところを間違えた。
それでも、高村先生は黒板の横で、少しだけ満足そうに腕を組んでいた。
「はい、今日はここまで」
先生の声で、教室の力が一気に抜けた。
部活組が鞄を取りに走り、女子が黒板の字を写し、田端が「喉かわいた」と言う。
「本番まで、あと一週間ね」
高村先生が何気なく言った。
さっきまで笑っていた教室が、少しだけ静かになる。
あと一週間、か。
田端が予定表を見直した時と同じ顔を、何人かがしていた。
「来週か」
杉浦が小さく言う。
小野が黒板消しを持ったまま、白石を見る。
白石はチョークの粉がついた指先を見て、それから歌詞カードを胸の前で持ち直した。
「もう少し、練習したいね」
白石がそう言った。
声は小さかったが、近くにいた小野と久住には届いたらしい。
「うん」
「明日、昼休みに見る?」
「私も行く」
三人の声が重なる。
俺は机を戻しながら、それを聞いていた。
田端が横で「昼休みも?」と絶望した顔をしている。
「田端、お前はまず最初の入りな」
「まだ言う?」
「本番まで言う」
田端が変な顔をして、杉浦が笑う。
教室の外はもう少し暗くなっていた。
窓に映った黒板には、白石の字がまだ少し残っている。
俺は机を元の位置に戻しながら、明日の昼休みもたぶん騒がしくなるな、と思った。
まあ、静かすぎるよりはいいか。
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▼登場人物まとめ
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