第五十一話「榊原莉奈は、輪の外から声をかける」
焼き芋の翌日、教室にはまだその話が残っていた。
焼き芋そのものはとっくに腹の中だが、田端の中ではまだ終わっていないらしい。朝のホームルーム前から、机に鞄を置くなり「昨日の焼き芋、もう一個いけたよな」と言い出した。
「朝から焼き芋の話か」
「うまかっただろ」
「うまかったけど、朝一番の話題ではない」
「じゃあ二番目ならいい?」
「順番の問題じゃない」
杉浦が呆れた声を出す。
小野は自分の席で教科書を机に入れながら、少し笑っていた。
「田端くん、昨日ずっと熱いって言ってたのに」
「熱いとうまいは両立するから」
「それは分かるけど」
白石も小さく頷いた。
昨日の焼き芋の話になると、白石の表情が少し柔らかくなる。
小野と久住に挟まれて、包みを両手で持って笑っていた顔を思い出して、俺は慌てて自分の机の中を確認するふりをした。
朝から何を思い出しているんだ、俺は。
久住は窓際の席で楽譜を開いていた。
昨日の延長でアルトの確認でもしているのかと思ったら、端の方に小さく印をつけている。
合唱祭が近づくにつれて、久住の周りには女子が少しずつ来るようになっていた。賑やかに集まるというより、音が分からない子が聞きに来て、久住が短く答える。
そのくらいのやり取りなのに、久住の席の周りだけ少し落ち着いて見える。
「白石さん」
久住が顔を上げた。
「昨日のところ、昼休みに確認していい?」
「うん。私も少し確認しておきたいな」
「じゃあ、小野さんも」
「私も? 助かる。昨日、帰ってから見たらまた分からなくなってた」
小野が素直に手を上げる。
白石が少し笑う。
そのやり取りに、田端が横から乗ってきた。
「俺も?」
「田端くんは男子パートだから」
「久住さん、ズバッと言うね」
「混ざると余計分からなくなると思う」
「……否定できない」
杉浦が「否定しろよ」と突っ込む。
朝の教室は、いつも通り騒がしい。
いつも通り、という言葉を使えることが少し不思議だった。
その騒がしさの中に、別の声が混ざった。
「最近、ずいぶん賑やかだね」
明るい声だった。
ただ、その明るさに少しだけ引っかかりがある。
俺は顔を上げた。
榊原莉奈が、廊下側の通路に立っていた。
隣には、いつも一緒にいる女子が一人。もう一人は少し後ろで、別の子と話しているふりをしている。
榊原は笑っていた。
普通に見れば、クラスメイトへ何気なく声をかけただけだ。
それが一番面倒くさい。
「昨日も、校舎裏で楽しそうだったし」
榊原の視線は白石に向いている。
白石の手が、机の上の楽譜の端を押さえた。
指先に少し力が入る。
「うん。落ち葉掃除を手伝ってたから」
白石はそう答えた。
声は出ている。
ただ、少しだけ硬い。
俺は口を開きかけて、やめた。
今、俺が前に出るとたぶん早い。
早いが、白石の言葉を途中で奪うことにもなる。
面倒だ。こういう判断は本当に面倒だ。
会社の会議なら「一旦持ち帰ります」で逃げられるが、教室ではそうもいかない。
榊原は白石の答えを聞いて、目を細めた。
「ふうん。落ち葉掃除で、あんなに仲良くなるんだ」
声だけ聞けば、責めている感じは薄い。
先生に聞かれても「そういう意味じゃない」と言えるやつだ。
けれど、言葉の端に何かを引っかけてくる。
小野が白石の隣に立った。
「あと焼き芋ね」
小野の声は軽かった。
わざと軽くしているのが分かる。
「先生と校務員さんが用意してくれてたんだよ。手伝った人で分けてもらったの」
「へえ。そうなんだ」
榊原は小野を見たあと、少し離れた久住へ視線を移した。
「久住さんまでそっちなんだ」
その言い方で、教室の音が少しだけ遠くなる。
久住は楽譜から顔を上げた。
表情は変わらない。
怒るでもなく、笑うでもなく、ただ榊原を見ている。
「合唱祭の練習で一緒なだけだよ」
久住は普通に言った。
普通すぎて、榊原の言葉が少し滑ったみたいに見えた。
「昨日は落ち葉掃除も一緒だったけど」
「うん。先生に捕まった」
久住がさらっと続ける。
小野が「そうそう」と頷いた。
「元気が余ってるなら手伝って、って言われたんだよね」
「俺は帰るところだったんだけどな」
田端が割り込んだ。
頼むから余計なことを言うな、と思ったが、田端は榊原の方ではなく焼き芋の話をしたいだけの顔をしていた。
「でも焼き芋うまかった」
教室の空気が少しだけずれる。
榊原が作ろうとしていた細い糸に、田端が焼き芋をぶら下げた感じだ。
雑だ。
でも効いた。
「田端くん、そこ?」
小野が笑う。
「大事だろ。昨日の主役、焼き芋だぞ」
「掃除じゃないのかよ」
杉浦が突っ込む。
田端は胸を張った。
「掃除は焼き芋への道」
「先生に聞こえたら怒られるぞ」
「今のなし」
白石が、ほんの少し笑った。
表情の端はまだ硬い。
それでも、白石は下を向かなかった。
榊原は笑顔を崩さなかった。
ただ、目元の明るさが少し薄くなる。
田端のせいで話がずれたのが面白くないのか、久住が乗らなかったのが面白くないのか。
たぶん両方だ。
「楽しそうでいいね」
榊原はそう言った。
軽い声で、形だけなら何も悪いことを言っていない。
けれど、白石の肩が少しだけ固くなる。
俺は机の横で、指を握ったり開いたりした。
ここで言うべきか。
言わないべきか。
頭の中で何度も同じところを回る。
見守る練習なんて、言うほど簡単じゃない。むしろ毎回、胃に悪い。
白石は小野を見た。
小野はすぐ隣にいる。
久住も、少し離れたところで白石の方を見ている。
田端は空気を読めていない顔で焼き芋を思い出している。
杉浦は田端の横で、少しだけ姿勢を正していた。
白石は小さく息を吸った。
「うん」
小さい声だったが、ちゃんと届いた。
「最近、楽しいよ」
榊原の笑顔が、ほんの少し止まった。
すぐに戻る。
その戻し方はうまい。
見ていて嫌になるくらい、うまい。
「……そっか」
榊原は笑った。
「なら、よかったね」
言葉だけなら、祝いの言葉にも聞こえる。
けれど、言った本人の目は少しも嬉しそうではなかった。
白石は楽譜の端から手を離した。
指先はまだ少し落ち着かないように見えたが、さっきみたいに強く握ってはいない。
「うん」
もう一度、白石は頷いた。
榊原は久住へ視線を移した。
「久住さん、合唱、頑張ってね」
「うん。榊原さんも」
久住の返事は短かった。
榊原はそれ以上何も言わず、隣の女子へ顔を向ける。
「行こ」
そう言って、自分の席の方へ戻っていった。
笑ったまま。
けれど、背中は少しだけ硬く見えた。
榊原が離れると、田端が小さく息を吐いた。
「……焼き芋の話、まずかった?」
今そこか。
俺は思わず田端を見た。
杉浦が肩をすくめる。
「いや、田端にしては助かった」
「俺、助かったの?」
「たぶん」
「たぶんか」
小野がふっと笑った。
白石も、少し遅れて笑う。
久住は楽譜を閉じながら、田端に言った。
「田端くん、変な方向に強いね」
「久住さん、それ褒めてる?」
「今回は少し」
「やった」
田端が妙に嬉しそうにする。
その反応で、教室のこわばりがまた少しほどけた。
俺は白石の方を見た。
白石は楽譜の端を指で整えている。
その手元は、まだ少し丁寧すぎた。
でも、顔を上げると、白石は俺に小さく頷いた。
大丈夫、と言ったわけじゃない。
俺は机の下で、曲がってもいないプリントの端を意味もなくそろえた。
ホームルーム開始のチャイムが鳴った。
高村先生が教室に入ってくる。
榊原はもう自分の席に座り、何事もなかったように隣の女子と話していた。
白石は楽譜を机の中にしまい、小野がその横で教科書を開く。
久住は窓際で、前を向いている。
教室はまた、いつもの朝に戻っていった。
さっきの引っかかりは机の端に少し残っている。
それでも、チャイムのあとのざわめきに紛れていった。
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▼登場人物まとめ
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