第四十八話「小野と杉浦が、少し変だ」
昼休みの教室は、弁当の匂いがまだ少し残っていた。
机を戻しきれていない列があって、誰かの椅子が斜めになっている。窓際では男子が消しゴムを指で弾いて遊んでいて、廊下側では女子が次の授業のノートを広げていた。
その真ん中あたりで、田端が合唱の楽譜を広げている。
珍しい。
いや、珍しいどころではない。田端が昼休みに自分から楽譜を開くなんて、明日の天気が少し心配になる。
「田端、どうした。熱でもあるのか」
「ひどくない? 俺だって合唱祭に向けて練習くらいするし」
「昨日まで『十一月なんて先』って言ってただろ」
「未来の俺は改心した」
「未来が近すぎる」
田端は不満そうに楽譜をめくった。
めくったはいいが、どこを見ているのか分かっていない顔をしている。
たぶん練習しようと思ったのは本当だ。だが、思っただけで何とかなるほど合唱の楽譜は親切ではない。中学生当時の俺も、楽譜に書いてある記号の半分くらいは気分で読んでいた気がする。
白石は小野と並んで、アルトの確認をしていた。
その少し横に、久住もいる。
久住は自分の席から楽譜を持ってきて、自然に輪の端に立っていた。無理に混ざる感じはない。けれど、そこにいても誰も変に思わないくらいには、もう合唱練習で顔を合わせている。
こういう入り方はうまい。
いや、本人はうまく入ろうとしているわけではないのかもしれない。ただ、必要なところに立っているだけなのだろう。
「澪、昨日印つけたところ、ここで合ってる?」
「うん。そこ。久住さんが言ってくれたところ」
「あ、ここか。私も少し怪しいんだよね」
小野がそう言って、自分の楽譜を白石の方へ寄せる。
白石は小さく頷きながら、シャーペンで薄く丸をつけた。
その動きが前よりずっと自然で、俺は少しだけ目を細めた。
前なら、誰かの楽譜へ書き込む時にも「いいのかな」と迷っていたと思う。今も遠慮はある。けれど、頼まれたことをちゃんと返せるようになってきた。
まあ、見守りすぎると気持ち悪いので、俺は自分の楽譜へ目を戻した。
「佐伯」
杉浦が隣から楽譜を覗き込んできた。
「ここって、男子はどこから入るんだっけ」
「たぶん、この段のここ」
「たぶんかよ」
「俺に音楽で確定情報を求めるな」
「それもそうか」
杉浦は苦笑して、楽譜を見直す。
そこへ小野が振り返った。
「杉浦くん、そこは男子だけじゃなくて、女子の声を聞いてから入るところだと思うよ」
「え、そうなの?」
「うん。ここ、少し空いてるでしょ?」
小野が自分の楽譜を机に置いて、指で位置を示した。
杉浦は少し身を乗り出す。
小野の指先が楽譜の上をすっと動く。音符の名前を細かく言うわけではない。けれど、どこを見ればいいのかは分かる説明だった。
「あ、ほんとだ。俺、歌詞だけ見てた」
「歌詞だけ見てると、入りが遅れちゃうよ」
「助かった。小野さん、分かりやすいな」
杉浦が、妙に素直にそう言った。
妙に、というのは失礼かもしれない。
でも、普段の杉浦ならもう少し軽く流す。「サンキュ」くらいで終わらせるか、田端に「お前も聞いとけ」と話を逸らす。
今の「助かった」は、ちゃんと小野に向いていた。
小野の手が少し止まった。
「……うん。分かったならよかった」
返事も、いつもより少し小さい。
俺は楽譜を見ているふりをした。
ん?
いや、待て。
これは、あれか。
夏休みの終わりにも、似たようなことがあった気がする。
宿題の確認をしていた時、小野が現実的なことを言って、杉浦がそれに素直に従っていた。田端なら茶化すところを、杉浦は案外ちゃんと聞く。
小野も小野で、杉浦には少し説明が丁寧だった。
その時は、夏休みの宿題に追われているせいだと思っていた。いや、俺が自分の防災メモや会社ノートで手いっぱいだったせいもある。
今見ると、ちょっと違う。
「悠真、何ニヤニヤしてんの?」
田端が急に顔を覗き込んできた。
やめろ。
お前は今、気づかなくていいところに鼻を突っ込むな。
「してない」
「してたって。悪い顔してた」
「お前の楽譜、それじゃないぞ」
「えっ?」
田端は慌てて自分の楽譜を見る。
助かった。
単純なやつは、こういう時にありがたい。ありがたいが、毎回これでいいのかは分からない。
白石がこちらを見ていた。
目が合うと、白石は何も言わずに少しだけ笑った。
その笑い方で、白石も気づいているのだと分かった。
俺だけではなかったらしい。
ただ、白石は余計なことを言わない。小野と杉浦を見て、ほんの少し口元を緩めるだけだ。
「田端くん、そこはこっち」
小野が田端の楽譜を指差した。
「え、こっち?」
「うん。今見てるのは、たぶん女子のところ」
「女子パートって書いてある?」
「書いてある」
「マジか」
田端が本気で驚いている。
楽譜の左端に大きく書いてあるのに。ここまで堂々と見落とせるのは、一種の才能かもしれない。
杉浦が田端の楽譜を覗き込んで、すぐに吹き出した。
「田端、それ前のページだぞ」
「えっ、今の全部違う?」
「違う」
「俺、どこ歌ってたの?」
「どこでもない」
教室の端で、久住が短く笑った。
その笑い方は大きくないのに、妙に分かりやすかった。
「田端くん、そこだけ別の練習してる」
「久住さんまで?」
「うん。だいぶ別」
田端は机に突っ伏した。
その勢いで楽譜が少しずれる。
白石が慌てて端を押さえ、小野が「田端くん、折れる」と言った。
杉浦が田端の肩を雑に叩く。
「ほら、聞け。小野さんが教えてくれてるだろ」
「杉浦もさっき教えてもらってただろ」
「俺は一回で理解した」
「感じ悪いな」
いつもの軽口に戻った、と思った。
けれど、小野は杉浦の方をちらっと見て、少しだけ笑った。
杉浦も、それに気づいたのか気づいていないのか、楽譜の端を指で直している。
いや、気づいているな。
耳が少し赤い。
運動部で日に焼けているから分かりにくいが、たぶん赤い。
俺は妙なものを見てしまった気分で、シャーペンを回した。
人のことを言えないのは分かっている。
分かっているが、友人の恋愛未満を横で見るのは、なかなかくすぐったい。
中身が三十二歳の俺としては、「若いなあ」と遠くから眺めたい。
だが、十四歳の俺の席は、その若いものの真横にある。逃げ場がない。
「小野さん、杉浦くんには説明優しいね」
久住がさらっと言った。
本当に、さらっと。
水を飲むくらいの自然さだった。
小野の肩が小さく跳ねた。
「えっ? そう?」
「うん。田端くんへの説明より、声が柔らかい」
「そ、そんなことないと思うけど」
「あると思う」
久住、追撃が淡々としていて強い。
小野は楽譜を持ったまま、目を泳がせた。
杉浦は杉浦で、急に自分の楽譜を真剣に見始める。そこ、さっき説明されたところだろ。今さらそんなに読む箇所ではない。
白石が隣で、口元を手で隠した。
笑いをこらえている。
白石がこういう場面で笑いをこらえる側になっているのが、何となく嬉しい。前は、からかわれるかどうかに身構えることの方が多かったから。
ただ、ここで俺まで乗るとたぶんやりすぎだ。
小野と杉浦は、まだ本人たちもよく分かっていない顔をしている。
「久住、そこまでにしとけ」
俺が小声で言うと、久住は涼しい顔でこちらを見た。
「見たまま言っただけ」
「それが一番刺さることもある」
「佐伯くん、経験者みたいな言い方する」
「経験者ではない」
たぶん。
いや、俺の人生に甘酸っぱい青春経験が豊富にあったかと言われると、かなり怪しい。
余計に言い返せなくなったので、俺は楽譜に目を落とした。
「俺にも優しくして」
田端が急に手を上げた。
小野は一瞬きょとんとして、それから吹き出した。
「田端くんには、まずページを合わせるところからだよ」
「十分優しいと思うぞ」
杉浦が言う。
「どこが?」
「俺なら、もう自力で探せって言う」
「杉浦、冷たくない?」
「田端にはこれくらいでいい」
「ひどい」
田端が大げさに肩を落とす。
そのおかげで、小野の慌てた顔が少し戻った。杉浦も、やっと楽譜から顔を上げる。
田端は何も気づいていない。
本当に何も気づいていない顔だった。
俺は少しだけ笑った。
助かったような気もする。
もう少し見たかった気もする。
どっちにしろ、田端が田端でいてくれると、場が変に固くならない。
「ほら、もう一回確認しようぜ」
杉浦が楽譜を田端の前へ寄せた。
「ここから?」
「違う。そこはさっきも違うって言った」
「えー」
「田端くん、ここ」
小野がまた楽譜を指差す。
さっきより声は少し落ち着いていた。
杉浦がその横で、小野の指した場所を田端にもう一度示す。
「こっちだって」
「二人がかりで教えられると、俺がすごい駄目みたいじゃん」
「実際、今はすごい駄目だ」
「杉浦ぁ!」
田端が抗議する。
白石が笑い、久住も少しだけ口元を緩めた。
小野は、田端に突っ込みながらも、杉浦の方を一度だけ見た。
杉浦はその視線に気づいて、咳払いをした。
俺は見なかったふりをした。
見なかったふりをしながら、たぶん隣の白石も同じことをしているのだろうと思った。
昼休み終了の予鈴が鳴るまで、田端は結局、自分の入る場所を三回間違えた。
小野は三回とも教え、杉浦は三回とも横から補足した。
久住は最後に「田端くん、逆に覚えにくいところを全部見つけてる」と言った。
田端はそれを褒め言葉として受け取るか少し迷っていた。
俺は楽譜を閉じながら、白石と目が合った。
白石は何も言わず、少しだけ肩を揺らして笑う。
俺も、小さく息を吐いた。
田端の鈍さに助けられたような、惜しいような。
まあ、今日はそれでいいか。
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▼登場人物まとめ
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