閑話「白石澪は、隣の声を聞きすぎる」
放課後の教室は、いつもより少し落ち着かなかった。
机を動かす音や、楽譜をめくる音が重なっている。
私はアルトの列で、ファイルを胸の前で持ち直した。
「澪、あとで一緒に帰ろ」
「うん」
小野さんがソプラノ側から手を振ってくれた。
それだけで、少し息がしやすくなる。
小野さんはいつも、何でもないことみたいに声をかけてくれる。だから私も、普通に返事をしていい気がする。
隣には久住さんがいた。
前の音楽の時間に、私がアルトへ入った時、久住さんは少し横へずれて「こっちで大丈夫?」と聞いてくれた。
その声が、今日も近くにある。
優しすぎるわけでも、遠すぎるわけでもない。必要な時だけ、ちゃんと届く声。
私は楽譜を開いた。
もらったばかりの紙は、指で押さえていないと閉じようとする。
黒板の前では高村先生が立ち位置を確認していた。
男子は教室の後ろ寄りに集まっている。田端くんの声が、すぐ分かった。
「放課後って、放課後じゃん」
何を言っているのかはよく分からなかったけれど、佐伯くんが何か返して、田端くんがまた少し大きな声を出した。
そのやり取りに、教室の何人かが笑う。
私も少しだけ笑った。
佐伯くんの声は、田端くんほど大きくない。
でも、聞こうと思うと聞こえてしまう。
聞こうと思っている時点で、たぶん私は少しおかしい。
そう思って、楽譜へ目を落とした。
練習が始まると、男子の方からすぐに少しずれた音が聞こえた。
田端くんだった。
杉浦くんが笑いをこらえているのが見える。小野さんも口元を押さえていた。
「田端、そこ違う」
「え、俺?」
「今のは完全に田端」
「俺だけ名指しはひどくない?」
男子の方は賑やかだった。
私は楽譜を見ながら、少し羨ましいと思った。
間違えても、笑って、言い返して、また戻れる。
そういうことが普通にできるのは、簡単そうで、私にはまだ少し難しい。
アルトの音が流れた。
久住さんが隣で歌う。
低めで、落ち着いた声だった。
大きく出しているわけではないのに、ちゃんと周りを支えている。
私はその声に合わせようとして、口を開いた。
声は出た。
でも、自分でも小さいと思った。
喉の奥で、音が戻ってしまう感じがする。
前よりは平気になったと思っていた。
教室で小野さんと話せるようになったし、田端くんや杉浦くんとも前より普通に話せる。
でも、みんなの前で声を出すとなると、胸のあたりが少し固くなる。
横から久住さんが、少し首を傾げた。
「白石さん」
名前を呼ばれて、私は楽譜から顔を上げた。
「今の音、合ってると思う。もう少し出しても大丈夫」
最初、何を言われたのか分からなかった。
怒られたわけではない。
直されたわけでもない。
合っている、と言われた。
「でも、私、つられてない?」
「つられてない。むしろ、合ってる」
「……そう、かな」
「うん。小さいから分かりにくいだけ」
久住さんは、当たり前みたいに言った。
それが少し不思議だった。
褒めようとしている感じではなく、本当にそう聞こえたから言っただけ、という顔をしている。
だから、私は返事に困った。
困ったけれど、嫌ではなかった。
「澪、今のところ合ってたよ」
小野さんもソプラノ側からそう言ってくれた。
「小野さんも、聞こえた?」
「うん。だから、もうちょっと聞きたい」
もうちょっと聞きたい。
その言い方が、くすぐったかった。
私は楽譜の端を押さえ直して、少しだけ息を吸った。
もう一度、同じところから音が流れた。
久住さんの声を隣で聞きながら、私はさっきより少しだけ声を前に出した。
大きな声ではない。
でも、さっきよりは楽譜の中に戻らなかった。
その時、男子の方で少し音がずれた。
田端くんかなと思って見たら、杉浦くんが佐伯くんに何か小さく言っていた。
佐伯くんが少し気まずそうに楽譜を見直している。
もしかして、と思ってしまった。
私の声が聞こえたのだろうか。
そんなわけない、とすぐに思った。
教室は広くないけれど、男子も歌っていたし、ラジカセの音も鳴っていた。
それなのに、佐伯くんが少しだけこっちを見た気がして、私は楽譜に目を戻した。
見間違いかもしれない。でも、そうじゃなかったらどうしたらいいのか分からない。
練習は何度か止まりながら続いた。
田端くんは時々違うところへ行って、杉浦くんが隣で戻していた。
小野さんはそのたびに笑いそうになって、でも途中から、杉浦くんの方を少し気にしているように見えた。
「杉浦くん、そこ、こっちの段だと思う」
小野さんが楽譜を指で示す。
杉浦くんは「あ、ほんとだ」と言って、いつもより素直に頷いた。
「助かった」
「うん」
小野さんの返事が、少しだけ小さかった。
私は自分の楽譜を見ているふりをした。
あまり見てはいけない気がした。
でも、気づいてしまう。
小野さんが杉浦くんに説明する時、少しだけ声が柔らかい。
杉浦くんも、田端くんに返す時とは違う顔をする。
私も、あんなふうに見えているのだろうか。
佐伯くんと話している時、小野さんや久住さんから見たら、すぐに分かるのだろうか。
考えた瞬間、顔のあたりが熱くなった。
私は楽譜を少し高く持った。
練習が終わる頃には、教室の中の音が少し減っていた。
部活の人たちは急いで鞄を持ち、先生に声をかけられながら廊下へ出ていく。
私はファイルを閉じたあと、佐伯くんのところへ行くか少し迷った。
聞きたかった。
変じゃなかったか。
合っていたか。
久住さんや小野さんに言われたのに、佐伯くんにも聞きたいと思ってしまった。
それは少し欲張りな気がした。
でも、足は動いていた。
「佐伯くん」
「おう」
佐伯くんがこちらを見た。
いつも通りの返事なのに、今日は少しだけ落ち着かなかった。
「変じゃ、なかった?」
聞いてから、すぐに後悔しかけた。
変だったらどうするのだろう。
気を遣われたら、たぶん分かってしまう。
佐伯くんは、少しだけ困った顔をした。
その顔を見て、私はファイルの角を指で押さえた。
「普通に良かった」
普通に。
思っていたより、すごく佐伯くんらしい言葉だった。
綺麗な言葉ではない。
けれど、変に飾られていないから、すっと入ってきた。
「普通に、って」
「いや、悪い意味じゃなくて。ちゃんと聞こえたし、音も合ってたと思う」
「佐伯くんも、聞こえた?」
「聞こえた。だから俺がちょっとずれた」
聞こえた。
その言葉だけで、指に力が入った。
「私のせい?」
「違う。俺が勝手に気を取られただけ」
今度は、何も言えなかった。
佐伯くんは余計なことを言った、みたいな顔をしている。
たぶん本当に、余計なことを言ったと思っている。
でも私は、その余計な一言を、すぐにしまえなかった。
「……そっか」
それだけ返すのがやっとだった。
変な顔をしていないといい。
耳が熱い気がして、少し横を向いた。
そこへ、久住さんが声をかけてくれた。
「白石さん」
私は少しだけ助かった、と思った。
このままだと、何か変なことを言ってしまいそうだったから。
「帰り、小野さんと一緒?」
「うん」
「じゃあ、途中まで一緒に行っていい?」
「うん。もちろん」
小野さんが嬉しそうに近づいてくる。
「じゃあ、三人で帰ろ。澪、さっきのところ、私もっと聞きたい」
「え、帰りながら歌うの……?」
「確かに、それは恥ずかしいか」
小野さんが笑う。
私も笑った。
笑っている間に、さっきの熱さが少しだけ落ち着いた。
教室を出る前、私は一度だけ佐伯くんの方を見た。
田端くんに呼ばれて、佐伯くんは入口の方へ歩いている。
こちらを見たような気がして、私は慌てて歌詞カードを鞄に入れた。
端を整えるふりをした。
たぶん、整えなくてもよかった。
昇降口へ向かう途中、久住さんがぽつりと言った。
「白石さんの声、私は好きだけど」
私は靴箱の前で足を止めそうになった。
「え?」
「さっきの。無理に大きくしなくても、音がまっすぐだったから」
「そんなこと、初めて言われた」
「じゃあ、今日が初めてだね」
久住さんは本当に普通の顔でそう言った。
小野さんが隣で大きく頷く。
「私も好き。澪の声、優しい感じする」
「小野さんまで……」
「本当だよ」
褒められると、どこを見ればいいか分からない。
私は靴を出しながら、うまく返事を探した。
「ありがとう」
結局、それしか言えなかった。
でも久住さんは、それで十分みたいに「うん」と言った。
小野さんも笑っている。
帰り道は、三人で楽譜の話をした。
久住さんが、どこで息を吸うと楽かを教えてくれた。
小野さんは「私、杉浦くんに説明してたところ、自分でも少し怪しかった」と言って、少しだけ笑った。
「小野さん、杉浦くんに説明する時、分かりやすかった」
「え、そう?」
「うん。いつもより丁寧だった」
「いつも雑みたいに言わないで」
小野さんはそう言ったけれど、少し頬が赤かった。
久住さんが何か言いそうになって、やめた。
私はそれを見て、少しだけほっとした。
久住さんは何でもはっきり言う人だと思っていたけれど、言わないでおくこともできる人なのかもしれない。
◇ ◇ ◇
家に帰ってから、私は制服を着替えて、机に楽譜を出した。
鞄の中で少し曲がった歌詞カードを、そっと伸ばす。
今日、久住さんが指で示してくれたところ。
小野さんが「もっと聞きたい」と言ってくれたところ。
佐伯くんが聞こえたと言ったところ。
全部、同じあたりだった。
私はシャーペンを持った。
書き込みすぎると目立つから、ほんの小さく印をつける。
その印を見ていると、また佐伯くんの声を思い出した。
『普通に良かった』
もう少し上手な褒め方は、たぶんある。
でも私は、その普通に、が何度も頭の中で戻ってきてしまう。
困る。
宿題もあるのに。
私は歌詞カードを閉じようとして、閉じられなかった。
もう一度だけ印を見てから、机の端に置く。
携帯を開くと、小野さんからメールが来ていた。
『澪、今日よかったよ。また一緒に練習しよ』
私は少し笑って、返事を打った。
『ありがとう。帰りながら歌うのは、まだ無理です』
送信してから、歌詞カードの印を指で軽く押さえた。
消しゴムで消せるくらいの小さな印なのに、今日はたぶん消せない。
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▼登場人物まとめ
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