第四十七話「白石の声は、思ったより通る」
パート分けから数日後、放課後に短い合唱練習が入った。
短い、と高村先生は言った。
ただ、中学生の放課後に「短い」を足しても、帰れる時間が遅くなる事実は変わらない。部活組は時計を気にしているし、帰宅部らしき男子は鞄を肩にかけたまま動きが鈍い。
田端は当然のように文句を言った。
「放課後って、放課後じゃん」
「……何を言ってるんだ?」
「いや、放課後まで学校にいるのは分かる。でも放課後に歌うって、なんか違くない?」
「合唱祭の練習だからな。しょうがないだろ」
「正論しか返ってこない」
田端が机に突っ伏しかけたところで、杉浦が楽譜の角で田端の肩をつついた。
「部活あるやつもいるんだから、さっさとやるぞ」
「杉浦、今日ちゃんとしてるな」
「俺はいつもちゃんとしてる」
「それはどうかな」
小野が隣で笑った。
杉浦は一瞬だけ小野の方を見て、それから何でもない顔で楽譜を開く。いや、その何でもない顔が若干下手だ。
俺は見なかったことにした。
教室の前方では、高村先生が黒板にパートごとの立ち位置を書いていた。
音楽の先生は別のクラスの練習を見ているらしく、今日は担任が見回る形らしい。ピアノは使えないので、最初は音楽の時間に録った音をラジカセで流して確認することになった。
ラジカセか。
久しぶりに見ると、妙に懐かしい。ボタンを押すときの重さまで思い出す。スマホひとつで何でも流せる時代を知っている身としては、これはこれで味がある。まあ、戻しすぎるとテープが絡むから怖いが。
「はい、男子はこっち。女子はソプラノが窓側、アルトが廊下側ね。今日は通して歌うより、音を確認する時間にします」
高村先生がそう言うと、教室の机が少しずつ動いた。
脚が床をこする音がして、誰かが「うわ、重い」と言う。合唱の練習というより、軽い模様替えだ。
白石はアルト側へ移動した。
隣には久住がいる。少し離れて、小野がソプラノ側から白石に手を振った。
「澪、あとで一緒に帰ろ」
「うん」
白石は小さく頷いた。
その返事を聞くだけで、前より声が教室に混ざっている気がする。
たぶん気のせいではない。少し前なら、同じ返事でももっと飲み込むような声だった。
男子パートの練習は、予想通りぐだぐだだった。
田端は最初の音から自信満々にずれた。
「田端、そこ違う」
「え、俺?」
「今のは完全に田端」
「俺だけ名指しはひどくない?」
杉浦が笑いをこらえながら肩を震わせている。
「笑うなよ、杉浦」
「いや、別の曲が始まったかと思った」
「そんなに?」
「結構」
俺も笑いそうになったが、必死に楽譜へ目を落とした。
人のことは言えない。俺の歌も、うまいとは言えない。社会人になってからカラオケに連れて行かれて、上司の十八番を手拍子で乗り切った記憶しかない。歌そのものの経験値は、田端に少し毛が生えた程度かもしれない。……いや、さすがにそれは言いすぎか。
ラジカセから音が流れ、高村先生が手拍子で拍を取る。
男子が何とか音を合わせようとしている横で、女子側も別々に確認していた。
ソプラノは人数が多いぶん声が出る。
アルトはまだ少し薄い。久住の声が支えていて、その横で白石が楽譜を見つめている。
最初は、白石の声はほとんど聞こえなかった。
口は動いている。声も出しているはずだ。ただ、周りに遠慮しているのか、楽譜の中へ声をしまっているみたいだった。
俺は男子側で歌いながら、また余計な心配をしていた。
自分の音も怪しいのに何をしているのか。三十二歳のくせに器用じゃない。
「白石さん」
アルト側で、久住が少し首を傾げた。
練習の音が止まる。
白石は楽譜から顔を上げた。
「今の音、合ってると思う。もう少し出しても大丈夫」
久住の言い方は、やっぱり淡々としていた。
褒めるというより、確認した事実をそのまま置いた感じだ。けれど、その方が白石には受け取りやすいのかもしれない。
「でも、私、つられてない?」
「つられてない。むしろ、合ってる」
「……そう、かな」
「うん。小さいから分かりにくいだけ」
白石は少し困った顔をした。
小野がソプラノ側から身を乗り出す。
「澪、今のところ合ってたよ」
「小野さんも、聞こえた?」
「うん。だから、もうちょっと聞きたい」
その言い方が、まあ小野らしい。
ぐいぐい押すわけではないのに、ちゃんと背中を押している。
白石は楽譜の端を親指で押さえ直した。少しだけ息を吸うのが見えた。
高村先生がラジカセのボタンを押す。
また、同じところから音が流れた。
アルト側が歌い出す。
今度は、白石の声が聞こえた。
声量は控えめで、久住の声ほどまっすぐ前に出る感じとも違う。
それでも、音の隙間からすっと出てきた。細いけれど、変に震えていない。教室の後ろにいる俺のところまで届いた。
へえ、と口に出しそうになって、慌てて閉じた。
何だその感想。おっさんか。いや、おっさんなんだけど。
「佐伯、今ずれた」
杉浦に小声で言われた。
「悪い」
「珍しいな」
「ちょっと楽譜を見失った」
「楽譜じゃなくて別の方見てたからだろ」
こいつも地味に鋭い。
田端の観察力は当てにならないが、杉浦のこれは面倒な方だ。
「男子、そこもう一回」
高村先生の声が飛んできた。
俺は咳払いをして、楽譜に目を戻した。中学生の合唱練習で女子の声に気を取られて音を外す三十二歳。かなりみっともない。
その後の練習は、少しだけ形になった。
田端は相変わらずたまに妙なところへ行くが、杉浦が隣で小さく音を示すと戻ってくる。俺も今度はちゃんと楽譜を見るようにした。いや、見るようにしただけで、時々アルト側が気になったのは否定しない。
白石は、最初より声が出ていた。
途中で久住が「そこ、いいと思う」と短く言うたびに、白石の肩の力が少し抜ける。小野も何度か嬉しそうに笑っていた。
練習が終わる頃には、教室の窓から入る風が少し涼しくなっていた。
机を元の位置に戻し、楽譜をファイルにしまう。田端は「喉乾いた」と言いながら、まだ大して歌っていないだろと突っ込まれていた。
「田端くん、今日一番目立ってたね」
小野が言う。
「え、そう?」
「うん。違う意味で」
「違う意味って何?」
「田端、聞かない方がいい」
杉浦が真顔で止める。
田端は不満そうだったが、そこへ高村先生が「部活の人は急いで」と声をかけ、部活組はばたばたと動き出した。
俺も鞄を取ろうとしたところで、白石が近づいてきた。
楽譜の入ったファイルを両手で持っている。久住と小野は少し後ろで話していた。
「佐伯くん」
「おう」
白石は一度、楽譜の角へ視線を落とした。
こういう時、急かさない方がいい。
そう分かっているのに、俺の方が妙に落ち着かない。さっきの声がまだ耳に残っているせいだ。何だそれ。中学生か。中学生だった。
「変じゃ、なかった?」
白石が小さく聞いた。
褒めろ。今すぐ褒めろ。
頭の中のまともな俺がそう言っている。だが、ここで変に気取った言葉を選ぶと、たぶん俺は気持ち悪い。三十二歳の語彙力で中学生女子を褒めようとすると、やけに説教くさくなる危険がある。俺はそういう事故を起こす自信がある。
「普通に良かった」
結局、出てきたのはそれだった。
白石は一瞬だけ目を丸くして、それから小さく笑った。
「普通に、って」
「いや、悪い意味じゃなくて。ちゃんと聞こえたし、音も合ってたと思う」
「佐伯くんも、聞こえた?」
「聞こえた。だから俺がちょっとずれた」
言ってから、余計なことまで言ったと気づいた。
白石はまた目を丸くする。
「私のせい?」
「違う。俺が勝手に気を取られただけ」
これも余計だった。
白石の指が、ファイルの角をきゅっと押さえた。耳のあたりが少し赤く見える。見間違いかもしれない。見間違いにしておいた方が俺の精神衛生にはいい。
「……そっか」
白石はそう言って、視線を少しだけ横へ逃がした。
何か言わなきゃいけない気がしたが、ここで追加すると大抵悪化する。仕事でも恋愛でも、言葉を重ねて失敗するやつは多い。俺もその手の失敗は、まあ、ないとは言わない。
「白石さん」
久住が後ろから声をかけた。
「帰り、小野さんと一緒?」
「うん」
「じゃあ、途中まで一緒に行っていい?」
「うん。もちろん」
白石の返事は、さっきより少しだけはっきりしていた。
久住は「助かる」と短く言って、鞄を持つ。
小野が嬉しそうに二人の間へ入った。
「じゃあ、三人で帰ろ。澪、さっきのところ、私もっと聞きたい」
「え、帰りながら歌うの……?」
「確かに、それは恥ずかしいか」
小野の言葉に、白石は困ったように笑った。
その笑い方が、少しだけ照れている。
俺は鞄を肩にかけながら、変に口元が緩みそうになるのを我慢した。
田端が見たら絶対に余計なことを言う。杉浦もたぶん言う。つまり誰にも見られてはいけない。
「悠真、帰るぞー」
案の定、田端が教室の入口で手を振っていた。
俺は白石に軽く頷いてから、田端の方へ歩く。
振り返ると、白石は歌詞カードを鞄に入れるところだった。
カードの端を少しだけ整えて、それから口元をゆるめる。
俺は見なかったふりをして、田端に「プリント忘れるなよ」と言った。
田端は「今日は忘れてない」と胸を張り、その手に持っていた楽譜を教室の机に置いたままだった。
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▼登場人物まとめ
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