第四十六話「パート分けは、わりと揉める」
合唱祭なんてまだ先だろ、という田端の予想は、あっさり外れた。
その週の音楽の時間、俺たちは音楽室へ移動することになった。九月に入ったとはいえ、廊下はまだ暑い。窓の外では体育のクラスがグラウンドを走っていて、見ているだけで汗が出そうだった。
田端は音楽ファイルを片手に、すでにだるそうな顔をしている。
「合唱祭、十一月だよな?」
「そうだな」
「じゃあ、今やる必要ある?」
「あるから呼ばれてるんだろ」
「正論やめてくれ。暑い日に正論はきつい」
杉浦が後ろから田端の背中を軽く押した。
「田端、音楽室で寝るなよ」
「寝ねえよ」
「前にリコーダー持ったまま寝かけてただろ」
「あれは目を閉じて音を感じてただけ」
「先生に怒られてたけど」
小野が横からさらっと刺す。
田端は言い返そうとして、言葉を飲み込んだ。飲み込めるだけ成長している。提出物は怪しいが、口げんかの引き際だけは覚えたらしい。
音楽室に入ると、ピアノの蓋が開いていた。
木の椅子が並んでいて、黒板には大きく「合唱祭」と書かれている。その下に「大地讃頌」と「パート確認」の文字。
逃げ道がない。
会社員時代の会議室で、ホワイトボードに「本日の議題」と書かれていた時の嫌な感じを少し思い出した。いや、音楽の時間まで仕事に変換するな。脳が疲れている。
「今日は、合唱曲の確認とパート分けをします」
音楽の先生が手を叩くと、ざわついていた音楽室が少し落ち着いた。
「希望は聞きます。でも、希望だけでは決めません。声の高さと人数のバランスで判断します」
その時点で、男子の一部が分かりやすく顔をしかめた。
歌うのが恥ずかしいやつもいれば、面倒だと思っているやつもいる。ふざけたいだけのやつも混ざっていて、だいたい分かる。俺も中身が十四歳だけなら、たぶん三番目に混ざっていた。
「男子は後でまとめて確認します。女子はソプラノとアルトに分かれてください」
先生がそう言った途端、女子側が一気にざわついた。
ソプラノがいい、アルトは難しそう、どっちでもいいけど一人は嫌だ。
声があちこちから重なって、音楽室の椅子がぎしぎし鳴る。
白石は、小野の隣でファイルを胸元に抱えていた。
何か言い出す様子はない。目線は黒板と足元の間を行ったり来たりしている。人前で声を出すのが得意ではないと言っていたから、パート分けだけでも少しきついのだろう。
俺は男子側の椅子に座りながら、ついそちらを見てしまった。
見るな、俺。心配なのは分かるが、男子パートの列にいるやつが女子側を気にしすぎると普通に変だ。
「佐伯、どうした?」
田端が俺の顔を覗き込んできた。
「何でもない」
「今、白石さんの方見てた?」
「見てない」
「嘘だろ。目が完全にそっち行ってた」
「お前はそういう時だけよく見てるな」
田端はなぜか得意そうに胸を張った。
「俺、観察力あるから」
「自由研究の日付には気づかなかったのに?」
「その話、しばらく禁止でお願いします」
杉浦が笑いをこらえて、楽譜で口元を隠す。
この男子側のゆるさは嫌いじゃない。だが、今は女子側の方が少し揉めていた。
「ソプラノ、多くない?」
「でも、アルトって低いんでしょ?」
「低いっていうか、つられそう」
「誰かアルト行ってよ」
榊原はその輪の少し外側で、特に何も言わずに立っていた。
笑っているわけでも、手を上げるわけでもない。ただ、周りのやり取りを眺めている。こういう時、何も言わない方が目立つこともある。
まあ、今は黙っているならいい。
口を出されるよりは、ずっとましだ。
その時、窓際にいた久住がファイルを閉じた。
声は大きくない。けれど、妙に通る。
「アルト、もう少しいた方がいいと思う」
女子たちの声が、そこで一度止まった。
久住は別に仕切り役みたいな顔をしていない。面倒な話を片づける時の、淡々とした声だった。
「久住さん、アルトでしょ?」
「うん。私はアルトでいい。でも、この人数だとたぶん薄くなる」
「薄くなる?」
「ソプラノに負けると思う」
言い方があっさりしている。
きついわけではない。ただ、変に遠回しでもない。
俺は少し感心した。中学生でこれができるのは、地味に強い。会社だと、こういう人が議事録の最後に「で、誰がやるんですか」と言って全員を黙らせる。助かるけど、胃が痛くなるタイプだ。
先生が手を叩いた。
「じゃあ、何人か声を確認しましょう。無理に決めるわけではないので、順番に」
女子が一人ずつピアノの近くへ呼ばれた。
短い音を出して、先生が高さを見ていく。別に本気で歌うわけではない。それでも、前に立つだけで緊張する子はいる。
白石の番が来た時、俺は楽譜に目を落とした。
見るな。
いや、でも心配ではある。
結局、楽譜の端からこっそり見た。情けないにもほどがある。
白石はピアノの横に立って、先生の指示に合わせて小さく声を出した。
大きな声ではない。
けれど、音は外れていなかったと思う。少なくとも、田端が体育館でやるような勢い任せの声とは違った。比べる対象が悪いか。
「白石さんは、アルトの方が合わせやすそうね。どう?」
先生に聞かれて、白石は少しだけ小野を見た。
小野はすぐに、柔らかく頷く。
「澪、無理しなくていいよ」
「うん。大丈夫」
白石の声は小さかったが、ちゃんと聞こえた。
それから白石は、アルト側へ移動した。
そこに久住がいた。
「白石さん、こっちで大丈夫?」
あまりにも普通の声だった。
気遣いすぎるわけでも、特別扱いするわけでもない。そこに来るのが当然みたいに、少し横へずれる。
白石は一瞬だけ目を丸くした。
「……うん。ありがとう」
「たぶん、最初はつられると思うから。分からなかったら言って」
「うん」
久住はそれ以上、何かを聞かなかった。
大丈夫だったかとか、怖くないかとか、そういう言葉を重ねない。
それが、白石にはかえってよかったのかもしれない。白石はファイルを持ち直して、久住の隣に立った。
俺は楽譜を見るふりをして、息を吐いた。
何もしていないのに、なぜか肩がこっている。中学生の音楽の時間で肩がこる三十二歳。嫌な才能だ。
「佐伯、顔が真面目すぎる」
杉浦が小声で言った。
「歌詞覚えようとしてるだけだ」
「まだ一回も歌ってないけど」
「先取りだ」
「大人かよ」
大人なんだよ、とは言えない。
俺は楽譜で軽く杉浦の肩を叩いた。
男子の確認は、その後に回ってきた。
田端はなぜか低い声を出そうとして、途中で変な声になった。先生に「無理に低くしなくていい」と言われ、女子側から小さな笑いが起きる。
「今のは練習だから」
田端が必死に言い訳する。
「本番だったら危なかったな」
「杉浦、他人事みたいに言うな。お前もやれ」
「俺は普通にやる」
「裏切り者」
男子側が少し騒がしくなる。
先生に注意されて、全員で楽譜を開いた。
音取りはまだほんの少しだけだった。
先生がピアノで音を出し、各パートが短く確認する。歌詞は追わず、音の流れだけをなぞる。
俺は自分のパートを追いながら、どうしても女子側が気になった。
白石は久住の隣で、楽譜の同じ場所を見ている。久住が指で小さく示すと、白石が頷く。小野は少し離れたソプラノ側から、時々白石の様子を見ていた。
榊原も見ていた。
笑ってはいない。
ただ、久住と白石が並んでいるところを、何かを測るみたいに見ている。
面倒だな、と俺は思った。
でも、今ここで俺が何かできるわけでもない。できることがない時は、無駄に動かない方がいい。社会人時代に何回か痛い目を見て覚えたことだ。いや、何回かで済んだかは怪しいが。
授業の終わりが近づくと、先生は各パートごとに歌詞カードと練習予定のプリントを確認するように言った。
椅子が動き、ファイルが開き、音楽室がまたざわつく。
田端はさっそくプリントを裏表逆に見ていた。もう一周回って器用だ。
「田端、それ逆」
「知ってた」
「嘘つけ」
杉浦が雑に突っ込む。
小野が笑いながら、杉浦に自分のプリントを見せた。
「杉浦くん、男子の練習日、こっちにも書いてあるよ」
「あ、ほんとだ。助かった」
「田端くんにも教えてあげて」
「田端はまず上下からだな」
「ひどい」
そのやり取りを聞きながら、俺は女子側を見た。
白石は歌詞カードの端を指で押さえていた。迷っているというより、どこを見ればいいか探しているような顔だった。
久住がそれに気づいて、白石のカードを軽く覗き込む。
「白石さん」
「え?」
「ここ、一緒に確認しよ」
久住が指した場所を、白石が目で追う。
小さく頷いた白石の横顔は、少しだけ緊張が抜けていた。
田端がまだプリントを逆さにしたまま「ここってどこ?」と騒いでいる。
俺はそっちに返事をしながら、もう一度だけ白石たちの方を見た。
久住は、特に笑っていなかった。
けれど白石は、ちゃんと隣に立っていた。
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