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三十代社畜の俺、中二に戻って人生無双を始める 〜なお宝くじの番号は覚えていない〜  作者: らいお


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第四十五話「合唱祭は、思ったより先の話じゃない」

「はい、席に着いて。宿題はあとで集めます。まずは二学期の予定から話します」


 高村先生の声で、ざわついていた教室が少しだけ落ち着いた。

 少しだけ、だ。

 夏休み明けの中学生は、予定表一枚で黙るほど大人しくない。後ろでは田端が自由研究の表紙をまだ押さえているし、杉浦は封筒の角を指で折り直している。小野は小野で、白石に何か小声で話していた。


「澪、日記の提出って、帰りの会?」

「たぶん、今集める分とは別だと思う」

「よかった。もう一回だけ確認したい」

「うん」


 小野が白石を名前で呼ぶのも、もう教室の中ではわりと自然になっていた。

 最初に聞いた時は、俺の方が少し驚いた。白石は驚いたそぶりはなかったから、たぶん俺が気づくより前からそうだったのだろう。

 女子の距離の詰まり方は、男には分からない速度で進むことがある。

 田端あたりは、たぶん一生分からない。


「佐伯、今なんか失礼なこと考えただろ」


 前の席から田端が振り向いた。

 無駄に勘がいい時がある。


「考えてない」

「嘘だ。顔が『田端には分からない』って言ってた」

「分かってるじゃないか」

「ひどくない?」


 田端が不満そうにする。

 先生がこっちを見たので、俺は口を閉じた。田端も慌てて前を向く。

 こういうところだけは素直だ。提出物は素直じゃないのに。


 高村先生は黒板に大きく「二学期」と書き、その下に行事を並べていった。

 中間テスト、校外学習、合唱祭、期末テスト。

 白いチョークで書かれた文字を見て、教室のあちこちから小さな声が漏れる。


「テスト多くね?」

「校外学習どこ?」

「合唱祭って十一月だっけ?」


 俺は黒板の文字を眺めながら、机の中で指先を動かした。

 テスト。

 その単語だけで、前ならかなり気を張ったはずだ。

 今も油断はできないが、一学期の期末である程度はやり方が見えた。もちろん、満点無双みたいな都合のいい話ではない。地味に解いて、間違えて、直す。三十二歳の社畜が中学生の問題集を前にうんざりするだけの作業である。

 まあ、それはもういい。

 二学期に入ってまで勉強だけで話が進むのは、俺の胃にもきつい。


 俺は咳払いのふりをして、黒板へ視線を戻した。


「合唱祭は十一月後半です」


 高村先生が言うと、田端がすぐに体をゆるめた。


「なんだ、まだ先じゃん」

「田端くん、そう言っているとすぐよ」

「先生、大人ってすぐ『すぐ』って言いますよね」

「本当にすぐだから言うの」


 教室が少し笑った。

 俺は苦笑いするしかない。

 大人の「すぐ」は、本当にすぐだ。月曜の朝に始まった仕事が、気づいたら金曜の夕方になっている。いや、思い出すな。せっかく中学生の体なのに、脳内だけ残業するのは勘弁してほしい。


「曲については音楽の先生からも説明がありますが、今年は『大地讃頌』を中心に練習します。三年生は卒業式に向けて『旅立ちの日に』もありますけど、二年生も事前練習として触れることになると思います」


 その曲名を聞いた瞬間、教室の空気が少し変わった。

 懐かしい、と言うにはまだ早い。今の俺たちにとっては、これから歌う曲だ。

 だが、俺の中身は違う。

 体育館の匂いとか、ピアノの音とか、男子が低音でふざけて怒られる感じとか、そういう細かいものが勝手に予備替えってくる。

 歌詞をはっきり思い出しているわけじゃない。むしろ、そこは曖昧だ。

 でも、曲名だけで喉の奥に変な感覚が残る。


「大地なんとかって、難しいやつ?」


 田端が小声で聞いてきた。


「たぶん難しいだろ」

「えー」

「お前はまず歌詞カードをなくすな」

「なくさねえよ。たぶん」

「その『たぶん』が怖い」


 杉浦が横から笑った。


「田端、音楽のファイル、前に机の横に置きっぱなしだっただろ」

「あれは置いてただけ」

「忘れ物をそう言い換えちゃうんだ」


 小野が振り返って突っ込む。

 杉浦は何か言い返そうとして、少しだけ口を閉じた。

 その顔が妙に素直だったので、俺は一瞬引っかかった。


 そういえば、夏休みの間もこの二人はわりと噛み合っていた。ほんの些細なやり取りでも、杉浦が小野の言うことだけは妙にちゃんと聞く場面があった気がする。

 気のせいかもしれない。

 だが、三十二歳の俺は知っている。気のせいにして放っておくと、あとで「あの時からだったじゃん」と周りに言われるやつだ。


 面倒な芽を見つけてしまった。

 いや、別に面倒ではないか。むしろ中学生らしくて健全だ。

 俺が妙な顔をしていたのか、白石がこちらを見た。


「佐伯くん?」

「……いや、何でもない」


 白石は少し不思議そうにしてから、小野と杉浦を見た。

 そして、すぐに何か分かったような顔をした。

 やっぱり分かるのか。

 白石も最近、地味に観察力が上がっている。いや、元からあったのかもしれない。前はそれを使う余裕がなかっただけで。


 高村先生は予定表を配り始めた。

 前の席から一枚ずつ後ろへ回ってくる。

 俺のところにも、少し折れたプリントが届いた。

 十一月後半の欄に、合唱祭とある。

 その下には、期末テスト。

 楽しい予定の下にテストを置くな。いや、学校の都合は分かるが、もう少し人の心を考えてほしい。


「佐伯くん」


 白石が隣から小さく声をかけてきた。

 席は隣ではないが、プリントを回す流れで近くに立っていた。

 白石は予定表を両手で持っている。


「合唱祭、十一月なんだね」

「らしいな」

「まだ先みたいだけど、すぐかな」

「まだ先、って思ってると思ったよりもすぐだったりするな」

「佐伯くん、大人みたいなこと言う」

「よく言われる」


 しまった。

 軽く返したつもりが、白石が少し笑った。

 最近、こういう時の白石の笑い方が柔らかい。

 別に変な意味はない。たぶん。

 たぶん、と付けた時点で怪しい気もする。


「歌うの、得意か?」


 俺が聞くと、白石は予定表の端を指でなぞった。


「得意、ではないと思う。人前だと、声が小さくなるから」

「まあ、合唱なら一人じゃないし」

「うん」


 白石は頷いた。

 その頷きは、前より少しだけ頼りない。

 榊原のことがあって、教室で声を出すのはまだ簡単ではないのだろう。

 ここで「大丈夫だ」と言い切るのは簡単だ。簡単な言葉ほど、あとでこっちが困る。

 俺は予定表を見ながら、少しだけ頭をかいた。


「田端の声でかいし、最悪そっちに紛れればいい」

「田端くん、怒らないかな」

「たぶん喜ぶ」


 白石が小さく笑った。

 よし。田端、本人不在で役に立った。


「俺、何か言われてる?」


 田端が振り返る。

 お前は本当に勘がいいのか悪いのか分からない。


「田端くんの声が大きいって話」

「褒めてる?」

「半分くらい」

「半分かー」


 白石が少しだけ肩を揺らして笑う。

 小野もつられて笑った。

 杉浦は「田端は声量だけなら優勝」と雑に言い、田端が「だけって何だ」と抗議する。

 教室のいつもの騒がしさが戻る。


 その時、予定表を受け取った女子が、窓際の席で一人、歌詞プリントを丁寧に折っているのが目に入った。

 久住七海(くずみななみ)

 同じクラスの女子だ。

 派手なグループにいるわけではない。榊原の近くで笑っているタイプでもない。かといって、浮いているという感じでもない。

 一人でいても、別に困っていないように見える。

 こういうやつは強い。

 会社にもいた。昼飯を一人で食っても平気で、会議では必要なことだけさらっと言う人。そういう人は大抵、周りを見ていないようで見ている。


 久住は折ったプリントをファイルにしまい、そのまま教室を見回した。

 田端が騒ぎ、杉浦がそれを止め、小野の横で白石が笑っている。

 その白石に、久住の視線が一瞬だけ向いた。

 すぐに視線は外れた。

 ただの偶然かもしれない。

 だが、完全に見ていない感じでもなかった。


 その後、先生が宿題の提出について説明を始めた。

 合唱祭の話はそこで一度終わる。

 教室はまた、ワークの束や自由研究の袋や、原稿用紙の封筒で忙しくなった。


 俺は予定表を半分に折り、鞄に入れようとして手を止めた。

 白石が、歌詞プリントの端を指でそっと伸ばしている。

 力を入れているわけではない。

 ただ、折れないように整えているだけだ。


 十一月なんて、田端の言う通りまだ先に見える。

 でも、たぶんすぐだ。

 そして、その頃にはまた、教室の中の何かが少し変わっている。

 俺は予定表を鞄にしまい、田端の自由研究の袋からはみ出した写真を見て、思わず眉を寄せた。


「田端」

「何?」

「そのカブトムシ、写真の日付が去年になってる」

「えっ?」


 田端の声が教室の後ろまで響いた。

 白石が目を丸くし、小野が額に手を当て、杉浦が笑いをこらえる。

 久住が窓際で少しだけこちらを見た。


 合唱祭より先に、田端の自由研究が先生にどう処理されるかの方が、今はよほど差し迫った問題だった。


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― 新着の感想 ―
 田端くんカメラの初期設定しなかったのか、電池切れ後の設定をしなかったのどちらかですかね? 通常飛行ですかねー?
大人になって音楽の授業もっと真面目にやっておけばよかったなと思う。そうしたらカラオケでもっと上手く歌えたのかな、なんて。当時はなんだか小っ恥ずかしくてねぇ…。
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