第四十四話「二学期の朝、空欄は鞄の中にある」
夏休み最後の夜、俺は机の上に宿題を並べていた。
複数教科のワークにプリント、一言日記、読書感想文、自由研究のまとめ。
こうして見ると、よく終わったなと思う。
前の人生で同じ量を渡されたら、たぶん締切前に胃が痛くなっていた。
いや、三十二歳の俺はもっと面倒な資料を抱えていたはずだ。
それなのに、中学生の宿題には中学生の嫌さがある。
ガラケーが震えた。
田端からだった。
『終わった?』
短い。
そして不穏だ。
『終わった』
そう返すと、すぐに次が来た。
『裏切り者』
このやり取り、前にも似たようなことをした気がする。
俺は少し笑って、ガラケーを閉じかけた。
すると、今度は別のメールが来る。
白石だった。
『明日から二学期だね。よろしくお願いします』
丁寧だ。
少し丁寧すぎる気もする。
でも、白石らしいと言えば白石らしい。
俺は返信欄を開いた。
『こちらこそ。宿題、忘れるなよ』
打ってから、少し考える。
父さんみたいだ。
いや、これはさすがに父さんすぎる。
俺は一度消して、短くした。
『こちらこそ。また明日』
送信する。
これでいいのかどうかは分からない。
この手の文章は、会社のメールより難しい。
会社のメールなら「お世話になっております」でだいたい始められるのに、中学生同士のメールにはそれがない。
少しして、白石から返事が来た。
『うん。また明日』
画面を見て、俺は机の上のノートへ視線を戻した。
会社ノートには、スマートフォン、電子部品、半導体、ゲーム会社、ネットサービスの名前が並んでいる。
どのページにも、危ないところと分からないことを書いた。
父さんに見せた時の言葉も残っている。
買うのはまだ。
でも、調べるのは続ける。
防災メモには、水、懐中電灯、電池、ラジオ、連絡先、避難場所。
冷蔵庫に貼る紙は、母さんが夕飯のあとで書いていた。
それも一歩前進だ。
ただ、防災メモの端には、まだ消せない一文がある。
『まだ足りない気がする』
役に立つ言葉じゃない。
父さんに説明できる言葉でもない。
でも、消す気にはなれなかった。
俺は会社ノートと防災メモを閉じ、鞄に入れた。
明日、学校へ持っていく必要は本当はない。
だが、机の上に置いたままにするのも落ち着かなかった。
鞄が少し重くなる。
まあ、二学期初日の鞄なんて、だいたい重い。
◇ ◇ ◇
二学期初日の朝は、夏休みの朝より少し騒がしかった。
母さんは台所で弁当の準備をしている。
父さんは新聞を畳みながら、俺の鞄を見た。
「重そうだな」
「宿題とノート」
「会社のノートも持っていくのか」
「一応」
「学校で広げすぎるなよ」
「分かってる」
「それと、二学期も成績を落とすな」
「分かってる」
分かってる、ばかり言っている。
父さん相手だと、どうしてもこうなる。
反抗期らしい反抗をするより、条件を守った方が得だと知っている十四歳は少し嫌だ。
玄関で靴を履いていると、母さんが弁当を渡してきた。
「いってらっしゃい。白石さんにもよろしくね」
「何で白石が出てくるんだよ」
「ノート見てもらったんでしょ」
「それとこれは別」
「はいはい」
母さんは楽しそうだった。
朝からやめてほしい。
俺は弁当を鞄に入れ、逃げるように家を出た。
外はまだ暑い。
九月に入ったのに、夏が学校の門までついてくるみたいだった。
制服のシャツが、歩いているだけで背中に張りつく。
通学路には、同じように重そうな鞄を持った生徒がいた。
久しぶりの制服。
久しぶりの朝のチャイム。
夏休みの間に少し日焼けした顔が、あちこちで眠そうに揺れている。
教室に入ると、すでに田端がいた。
机の上に宿題を積み、何かを数えている。
「佐伯! 自由研究、出すやつって今日でいいよな?」
「今日だろ」
「よかった。昨日、カブトムシの写真日記を仕上げた」
「本当に仕上げたのか」
「写真は貼った」
「文章は?」
「ちょっとある」
「不安すぎる」
田端は胸を張った。
張るところを間違えている。
杉浦は後ろの席で、原稿用紙を封筒に入れようとしていた。
顔が真剣だ。
「杉浦、感想文は?」
「書いた」
「おお」
「ただ、最後のまとめが変かもしれない」
「出せるなら勝ちだ」
「その理論で行く」
夏休み明けの教室では、宿題の完成度より提出できるかどうかが重い。
このへんは大人の仕事にも似ている。
似ていてほしくはない。
小野は鞄から小さいノートを取り出して、白石に見せていた。
白石はまだ来ていない。
いや、違う。
白石の席に白石はいないが、小野は隣の女子にノートを見せているだけだった。
俺が勝手に白石を探していただけだ。
何をやっているんだ、朝から。
その時、小野がこちらに気づいた。
「佐伯くん、一言日記、埋まったよ」
「おめでとう」
「途中からほぼ図書館日記になった」
「実際、図書館にいたしな」
「澪のおかげで助かった。あと佐伯くんの『明日まとめて書こうは死ぬ』も少し効いた」
「そんな名言みたいにするな」
小野は笑った。
夏休み前より、だいぶ自然に話しかけてくる。
白石の周りにいる人間が増えている。
そのことに、俺は少し安心した。
教室の入口で、声がした。
「おはよう」
白石だった。
小野がすぐに手を振る。
「澪、おはよ。日記、出せる」
「よかった」
白石はそう言って笑った。
それから、こちらを見た。
「佐伯くん、おはよう」
「おはよう」
いつもの挨拶。
そのはずだった。
でも、白石は言ったあと、ほんの少しだけ目を逸らした。
声も、何というか、少し柔らかかった。
俺がそう感じただけかもしれない。
夏休み明けで、全員少し調子が違う。
そういうことにしておく。
「宿題、大丈夫だった?」
白石が聞いた。
「ほぼ終わってた。防災の自由研究もまとめた」
「よかった」
「白石は?」
「うん。大丈夫」
そこで会話が止まった。
止まるほどの内容でもないのに、白石が少しだけ鞄の紐を握る。
俺も、なぜか筆箱を机の中に入れ直した。
一度入れたのに。
田端が横から顔を出す。
「白石さん、俺の自由研究、見たら怒る?」
「怒らないよ?」
「じゃあ安心」
「でも、先生は分からないよね」
「そこは安心させてくれ」
白石が小さく笑った。
さっきの変な間が、それで少し薄まる。
田端はたまに役に立つ。
本人に言うと調子に乗るから言わないが。
チャイムが鳴る少し前、榊原が教室に入ってきた。
夏休み中より髪が少し整っている。
周りの女子に笑いかけながら、席へ向かう。
その途中で、白石と小野の方を見た。
ほんの一瞬だ。
話しかけてはこない。
目が合ったわけでもない。
それでも、俺はその視線に気づいた。
白石も気づいたかもしれない。
小野は少しだけ白石の方へ体を寄せた。
何も起きていないのに、教室の一角だけ少し静かになる。
榊原はそのまま自分の席へ行った。
笑顔は崩さない。
こういうところが、やっぱり面倒だ。
俺は鞄の中のノートを思い出した。
会社ノート。
防災メモ。
父さんとの条件。
埋まらない空欄。
そして、白石の居場所。
夏休みの間に少しずつ広がったものが、二学期の教室でどうなるのか。
ここからが本番なのかもしれない。
高村先生が教室に入ってきた。
出席簿を持ち、黒板の前に立つ。
「はい、席に着いて。宿題はあとで集めます。まずは二学期の予定から話します」
ざわついていた教室が、少しずつ静かになる。
椅子を引く音。
プリントをしまう音。
誰かが小さくため息をつく音。
高村先生は黒板に大きく文字を書いた。
『二学期』
その白い文字を見て、俺は鞄の重さを意識した。
宿題だけじゃない。
会社ノートも、防災メモも、まだ名前のつかない不安も、全部そこに入っている気がした。
高村先生がこちらを向く。
「では、今日から二学期が始まります」
俺は机の下で、鞄の持ち手に少しだけ指をかけた。
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▼登場人物まとめ
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