第四十三話「父さんに見せるノート」
夏休みの残りが、いよいよ目に見えて減ってきた。
図書館のいつもの席に着くと、田端が机に突っ伏していた。
杉浦はその横で、原稿用紙を前に固まっている。
小野は小野で、妙に青い顔をしていた。
夏休み終盤の図書館には、独特の気配がある。
涼しいはずなのに、机の上だけ暑苦しい。
どの机にも、ワークや原稿用紙や資料のコピーが積まれていた。
「佐伯、自由研究って何を書けば終わるんだ」
「何を調べたかによるだろ」
「そこから分からん」
「それは自由研究以前の問題だな」
「見捨てるなよ」
田端は顔だけこちらへ向けた。
目が死んでいる。
夏休みの宿題にここまで魂を削られる中学生、懐かしいというより普通に嫌だ。
杉浦は原稿用紙を指で叩いた。
「俺、読書感想文の本は読んだ」
「おお」
「でも感想が『面白かった』から先に進まない」
「小学生か」
「読んだだけ偉いだろ」
偉いの基準が低い。
でも、終盤の夏休みではその低さが命を救うこともある。
小野は二人のやり取りを聞きながら、手帳みたいな小さいノートを開いていた。
その顔色が本当に悪い。
「小野さんは? 読書感想文、終わったんじゃなかった?」
白石が心配そうに聞く。
小野はゆっくり顔を上げた。
「終わったよ。感想文は終わったよ」
「じゃあ何でそんな顔してるんだよ」
「一言日記」
田端が起き上がった。
「……まさか」
「ほとんど書いてなかった」
「勇者だ」
「褒めてないよね、それ」
小野は机に額をつけた。
白石が慌ててノートを覗き込む。
「毎日分?」
「……ううん。夏休みの最初の方は書いてある。途中から、明日まとめて書こう、って思って」
「それ、だいたい書かなくなるやつだ」
「佐伯くん、今それ言わないで」
小野が恨めしそうにこちらを見る。
悪い。
ただ、あまりにも社会人時代の作業日報と同じ匂いがした。
明日まとめて書こう、はだいたい積み上がって死ぬ。
白石は少し考えてから、小野のノートを指で押さえた。
「覚えてる日だけ先に埋めよう。プールの日とか、図書館に来た日とか」
「澪、天才」
「天才じゃないよ。思い出せるところから書くだけ」
「それで助かる」
小野が拝むみたいに手を合わせた。
白石は困った顔をしたが、少しだけ笑っている。
その笑い方を見て、俺は自分の机へ視線を戻した。
俺の宿題は、ほぼ終わっている。
父さんの目とパソコン没収の恐怖があれば、中学生の宿題はかなり進む。
残っているのは、自由研究としてまとめる防災のページと、父さんに見せる会社ノートの整理だった。
机の上には、会社ノート、防災メモ、自由研究用の紙、新聞の切り抜き、図書館で借りた経済の本が並んでいる。
自分で広げておいて何だが、かなり散らかっている。
白石が小野の一言日記を少し見たあと、俺の机を見て小さく目を丸くした。
「佐伯くん、机の上が忙しい」
「俺もそう思う」
「これも、分けようね」
「やっぱり?」
「うん。防災は自由研究。会社のことは、お父さんに見せるノート。目的が違うから」
白石はそう言って、俺のノートを二冊、少し離して置いた。
その動きが自然で、俺は思わず手を止める。
最近の白石は、こういう時に迷いが少なくなった。
いや、迷っているのかもしれないが、ちゃんと手が動く。
「防災の方は、家に何があったか、何を買ったか、次に何を確認するか、でまとめると見やすいと思う」
「自由研究っぽいな」
「うん。写真とか絵があればもっといいけど、無理なら表でもいいと思う」
「表か」
「佐伯くん、表、好きそう」
「否定しづらい」
会社員時代、何でも表計算ソフトで作る人間はいた。
俺もその一人だったかもしれない。
中学生に戻ってまで表に逃げるのは少し嫌だが、分かりやすいのは確かだ。
俺は防災用の紙に、家にあったものと買ったものを書き分けた。
水、懐中電灯、電池、ラジオ、連絡先、避難場所。
今度は単語だけで終わらせず、確認した日と状態も書く。
これなら、自由研究としてもどうにかなる。
「会社の方は?」
白石が聞いた。
声が少しだけ小さくなった気がした。
気のせいかもしれない。
俺は会社ノートを開く。
「新聞と本で少し見た。スマートフォンが広がるなら、電子部品とか半導体とか、ゲームとか、その辺が関係しそうって話」
「お父さんに見せるなら、会社名をたくさん並べるより、どうして調べたのかを先に書いた方がいいかも」
「そこは前にも言われたな」
「あと、危ないところと、分からないこと」
「白石チェック、厳しい」
「厳しくないよ」
白石は少し慌てたように首を振った。
その様子が少し可愛くて、俺は視線をノートへ戻す。
今、見るところを間違えると話が進まない。
ノートには、電子部品の会社、半導体に関係しそうな会社、ゲーム会社の名前がある。
スマホゲームは未来の俺から見ると大きい。
だが、今の資料だけを見るとまだ弱い。
ヒット作の時期も曖昧だ。
ゲーム会社は派手で分かりやすいが、父さんに説明するなら、部品や半導体の方が通りやすい気がする。
「ここ、『調べたい会社』に直してあるね」
白石がページの見出しを指した。
「前に言われたからな。さすがに直した」
「うん。これなら安心だと思う」
「父さん向けだな」
「うん。佐伯くんのお父さん、そこを見ると思う」
父さんと何度も話したわけでもないのに、白石は父さんの反応をだいぶ読めるようになっている。
俺の説明の駄目なところを見れば、父さんが突っ込みそうな場所も分かるのだろう。
ありがたい。
そして少し悔しい。
田端が横から覗き込んだ。
「佐伯のノート、なんか大人っぽいな」
「内容は地味だけどな」
「俺の自由研究、カブトムシの予定なんだけど」
「今から?」
「写真はある」
「なら写真日記にしろ」
「天才か」
杉浦が原稿用紙を持ち上げた。
「俺も『面白かった』から先に進む方法ない?」
「どこが面白かったかを書けばいい」
「それが分かれば苦労しない」
「じゃあ、つまらなかったところでも書け」
「感想文ってそんなのでいいのか?」
「本当にそう思ったなら、そこから書けるだろ」
杉浦は少し考え込み、小野は一言日記に「図書館に行った」と書いていた。
白石が横から「何をしたかも一言だけ足すといいよ」と言う。
小野は素直に頷いた。
夏休み終盤の図書館は、やっぱり少し騒がしい。
でも、その騒がしさが今日は悪くなかった。
会社ノートも防災メモも、俺一人で抱えていると妙に重くなる。
田端たちの宿題騒ぎに混ざっていると、少しだけ普通の夏休みに戻れる。
白石が、俺の会社ノートの端に小さく丸をつけた。
「これなら、お父さんに見せても大丈夫だと思う」
「本当に?」
「買いたい、じゃなくて、調べたい、って分かるから」
「助かる」
そう言うと、白石は一瞬だけ目を伏せた。
ほんの少し、耳が赤い気がした。
図書館の照明のせいかもしれない。
俺は余計なことを考えないように、ノートを閉じた。
◇ ◇ ◇
その夜、俺はリビングのテーブルに二冊のノートを置いた。
会社ノートと、防災の自由研究まとめ。
同じノートに混ぜると怪しくなるので、白石の言う通り分けた。
こういうところで素直に従うあたり、俺もだいぶ白石に慣れてきている。
父さんは会社ノートを先に開いた。
母さんは防災の方を覗き込んでいる。
「会社を調べるノート、か」
「買う話じゃない。まず調べるところ」
「分かってる」
父さんは数ページめくった。
電子部品、半導体、ゲーム会社、スマートフォンが広がる場合の仮説。
どれも深掘りはしていない。
代わりに、危ないところと分からないことを先に見えるようにした。
父さんの指が、そこに止まった。
「良いところより、危ないところを先に書いたんだな」
「その方が、父さんが読みやすいと思って」
「自分で思ったのか?」
嫌な聞き方をする。
いや、父さんとしては普通に聞いただけだろう。
俺は少しだけ目を逸らした。
「白石にも見てもらった」
母さんの視線がこちらへ来た。
来ると思った。
父さんは母さんより落ち着いている。
「白石さんか」
「うん」
「うあっぱり、あの子に見てもらうと説明が落ち着くな」
「……俺だけだと散らかるってこと?」
「そういう意味だ」
「言い切るなよ」
母さんが少し笑った。
俺は笑えない。
実際、今日の机の上はかなり散らかっていた。
父さんはさらに数ページ読んだ。
「スマートフォンが広がるかもしれない、という仮説は分かる。電子部品や半導体を見るのも、考え方としては悪くない」
「うん」
「ただ、株を買う話は別だ。会社が伸びそうに見えても、株価がどうなるかは分からない」
「分かってる」
「分かってる、だけだと足りない。だから、今は買わない」
「うん」
予想通りだった。
父さんがここで買う許可を出すわけがない。
出したら逆に怖い。
ただ、ノートを閉じて終わりにされなかっただけ、かなり前進だ。
父さんは条件を確認するように言った。
「宿題と成績が優先。親に隠して金を動かさない。新聞や本を読む。調べたことはノートに残して見せる」
「分かった」
「あと、分からないことを分からないまま書けるのは悪くない。分かったふりをする方が危ない」
その言葉は、少しだけ刺さった。
俺には分かったふりをしていることが多い。
未来を知っているふり。
覚えているふり。
本当は、大事なところほど抜けているかもしれないのに。
母さんが防災のページを父さんの方へ回した。
「こっちも見て。水と電池、買ったものを書いてあるの」
「連絡先と避難場所もあるな」
「冷蔵庫に貼る紙、あとで書くわね」
「それはいい。家族全員が見える場所に置こう」
父さんは防災の方には、会社ノートより素直に頷いた。
やっぱり、防災は親に通りやすい。
金を増やす話より、家族を守る話の方が説明しやすい。
当たり前だが、当たり前のことほど忘れる。
父さんは二冊のノートを閉じずに、テーブルの上に置いた。
「買うのはまだだ。でも、調べるのは続けろ」
俺は頷いた。
「分かった」
父さんは会社ノートをもう一度指で叩いた。
「それと、白石さんに見てもらったなら、礼は言っておけ」
「言ってる」
「もう一回言ってもいいだろ」
「……分かった」
母さんが何か言いたそうな顔をしたので、俺はノートを抱えて立ち上がった。
ここにいると、余計な方向へ話が行く。
自室へ戻る階段の途中で、ガラケーがポケットの中で少し重く感じた。
礼を言う。
それだけのメールなら、変じゃない。
たぶん。
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▼登場人物まとめ
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