第四十二話「防災用品を買う理由がうまく言えない」
登校日の翌日、俺は机の上にノートを広げていた。
会社を調べるページの横に、別のページがある。
前に母さんへ聞いたままになっていた、家庭の備えのメモだ。
『水』
『懐中電灯』
『電池』
『ラジオ』
『連絡先』
『避難場所』
書き出してから、嫌な感じがした。
単語だけが並んでいる。
こういう書き方は、見返した時に自分でも何を考えていたのか分からなくなる。
俺は一度線を引いて、横に書き直した。
『家にあるものを確認する』
『足りないものを買う』
『家族で連絡する場所を決める』
これなら、少しは自由研究っぽい。
いや、自由研究というより家庭科かもしれない。
中学生の夏休みに、家庭の備えを確認する。
地味だが、父さんと母さんに説明するには悪くない。
問題は、俺がなぜそこまで気にしているのか、自分でもうまく言えないことだった。
何か大きなことを忘れている。
その感覚はまだ残っている。
でも、はっきりした映像が出てこない。この焦燥感は一体何なのか。
ニュースで何度も見たはずなのに、指先に引っかからない。
「……またこれか」
俺はシャーペンを置き、頭をかいた。
宝くじの番号と違って、知らなかったわけじゃない。
たぶん知っていた。
前の人生で、知っていたはずだ。
それなのに今は、古いテレビの砂嵐みたいに肝心なところだけが見えない。
考え込んでも出てこないものは、いったん脇へ置く。
社会人時代に学んだ、あまり格好よくない知恵である。
悩んでも進まない仕事は、とりあえず見える作業に分ける。
今見える作業は、玄関の棚を開けることだった。
◇ ◇ ◇
玄関の棚には、母さんの言った通り懐中電灯があった。
銀色の古いやつだ。
少し重い。
電源を入れてみると、明かりはついたが、かなり弱かった。
「……暗いな」
昼間の玄関でこれなら、夜はたぶん心細い。
中を開けると、電池は入っていた。
いつ替えたのか分からない。
俺は電池を取り出して、メモに書き足した。
『懐中電灯はある。電池が弱い』
次に台所へ行き、母さんに聞く。
「買い置きの水って、どこ?」
「下の戸棚に少しあると思うけど」
母さんは洗い物の手を止めて、俺の方を見た。
「この前も聞いてたわね」
「自由研究のメモにする」
「家庭の備え?」
「うん。たぶん」
「たぶんって何よ」
「まだ決めきれてない」
母さんは少し笑った。
俺は戸棚を開ける。
奥の方に、二リットルのペットボトルが二本あった。
あとは麦茶のパックと、もらいものの乾麺。
非常用というより、たまたま残っているだけだ。
「水、少ないな」
「そうね。普段は水道で足りると思っちゃうから」
「電池も買った方がいいかも。懐中電灯、暗かった」
「あら、本当?」
「あと、ラジオってある?」
「お父さんの古いのが押し入れにあったかも。使えるかは分からないけど」
使えるか分からないものが多い。
たぶん、どこの家もこんなものなのだろう。
普段は困らない。
困る時になってから、困る。
母さんは手を拭きながら、少し考えた。
「うち、ちゃんとしてないわね」
「まあ、そんなもんじゃない?」
「でも、見直すのはいいかも。お父さんにも言ってみましょう」
思ったより前向きだった。
投資の話と違って、警戒されない。
防災は儲け話じゃないからだろう。
怪しい中学生感が薄い。
夕方、父さんが帰ってきてから、俺はノートを見せた。
会社ノートの時より、だいぶ緊張しなかった。
内容が水と電池だからだ。
これで怒られたら、もうどうしようもない。
父さんはノートを読んで、すぐに頷いた。
「こういうのは悪くない」
「本当?」
「家の備えを確認するのは大事だ。自由研究にもなるだろ」
「母さん、水少ないって」
「水は買っておくか。電池も見よう」
母さんが横から口を挟む。
「ラジオも古いのがあるかもしれないの。あと、連絡先とか避難場所も書いた方がいいわよね」
「そうだな。冷蔵庫に貼っておくか」
話が早い。
父さんも母さんも、投資よりずっと自然に乗ってくる。
同じ未来の準備でも、親から見える顔が違うだけでこうも変わるのか。
勉強になる。
いや、感心してる場合でもないか。
「買い物、今日行く?」
母さんが聞いた。
父さんは時計を見た。
「近くのスーパーなら、夕飯前に行ける」
「俺も行く」
「重いぞ」
「持つ」
「なら来い」
あっさり決まった。
俺はノートを閉じ、財布を持とうとしてやめた。
家の備えなら、たぶん家の金でいい。
ここで小遣いを出します、と言うとまた変に話がややこしくなる。
俺はたまに、自分で自分の首を締めに行く癖がある。
今日はやめておく。
◇ ◇ ◇
スーパーの生活用品売り場には、懐中電灯や電池が普通に置いてあった。
非常用の袋もある。
銀色の保温シートや、小さなラジオ、軍手、笛、簡易トイレ。
棚を眺めていると、頭の奥が少しだけざらついた。
こういう棚を、どこかで見た気がする。
空っぽになった棚。
水を持ってレジに並ぶ人。
テレビの画面に映る、見慣れない地名。
そこまで浮かんで、また途切れた。
「悠真?」
父さんの声で、俺は顔を上げた。
「どうした」
「いや。いろいろあるなと思って」
「全部買う必要はない。まず使うものからだ」
「うん」
父さんは懐中電灯用の電池を選び、母さんは水の箱をカートに乗せた。
二リットルのペットボトルが六本入っている箱だ。
普通に重い。
これを持って帰るだけで、防災意識が少し現実になる。
「ラジオはどうする?」
母さんが小さな携帯ラジオを手に取る。
父さんは値札を見て、少し考えた。
「家の古いのを確認してからでいい。動かなかったら買おう」
「じゃあ今日は電池と水ね」
「あと、ウェットティッシュくらいはあってもいいか」
父さんが珍しく自分から追加した。
母さんが少し驚いた顔をする。
「お父さん、こういうのちゃんと考えるのね」
「考えてなかったから、今買うんだろ」
「それもそうね」
その会話が普通すぎて、俺は少しだけ肩の力を抜いた。
防災用品を買う、というだけなら、家族の買い物だ。
俺が未来を知っているとか、何かを思い出せないとか、そういう重い話は表に出ない。
そう思おうとして、どうしても少し引っかかる。
水と電池を買ったくらいで済む話なのか。
そもそも何に備えようとしているのか。
そこが分からないまま、カートに水を入れている。
俺は箱の持ち手に手をかけた。
重さははっきりしている。
こっちは分かる。
頭の中のぼやけた何かより、ずっと分かりやすい。
◇ ◇ ◇
帰宅後、水の箱は押し入れの下段に入れることになった。
父さんが奥を少し片づけ、俺が箱を押し込む。
母さんは電池を袋から出し、玄関の懐中電灯の横に置いた。
古いラジオは押し入れの上の段から出てきた。
電源を入れると、ざざっという音だけが鳴った。
電池を替えたら、かすかに音が入る。
父さんがアンテナを伸ばすと、ようやく声らしきものが聞こえた。
「まあ、使えないことはないな」
「新しいの買う?」
「これはこれで置いておく。次に店へ行った時、安いのがあれば見よう」
父さんはそう言って、ラジオも棚へ戻した。
母さんは冷蔵庫に貼る用の紙を出してくる。
「避難場所って、学校でいいのかしら」
「たぶん。市の広報にも載ってると思う」
「じゃあ、あとで確認して書きましょう」
話はどんどん現実的になっていく。
水を買った。
懐中電灯の電池を替えた。
ラジオを確認した。
連絡先と避難場所も書く。
やっていることは間違っていない。
むしろ、前よりはずっといい。
なのに、押し入れにしまった水の箱を見ていると、まだ何か足りない気がした。
俺は自室に戻り、ノートを開いた。
今日のページに、買ったものと確認したものを書く。
『水を買った』
『電池を替えた』
『ラジオを確認した』
『連絡先と避難場所はあとで書く』
そこまで書いて、シャーペンが止まった。
ページの下に、空いた行がある。
何かを書かなければならない気がする。
でも、言葉が出てこない。
俺はしばらく考えて、結局こう書いた。
『まだ足りない気がする』
自分で読んでも、何の役にも立たない一文だった。
父さんに見せたら、首をかしげるだろう。
白石に見せたら、たぶん「何が足りないの?」と聞く。
それに答えられないのが、一番気持ち悪かった。
俺はノートを閉じずに、机の端へ置いた。
押し入れにしまった水の重さだけが、なぜかまだ手のひらに残っていた。
「面白かった」「続きが読みたい!」と思っていただけましたら、ぜひブックマーク・評価・感想などで応援していただけると嬉しいです。
▼登場人物まとめ
https://syosetu.com/userblogmanage/view/blogkey/3652582/




