閑話「白石澪は、曲がったノートの角を伸ばす」
家に帰って、制服をハンガーにかけたあとも、指先に少しだけ力が残っていた。
何かを握っていたあとの、変な感じ。
手を開いても、まだ紙の角がそこにあるみたいだった。
お母さんに「登校日どうだった?」と聞かれて、私は「普通だった」と答えた。
嘘をついたつもりはなかった。
提出物を出して、先生の話を聞いて、友達と少し話して帰ってきた。
夏休みの登校日としては、たぶん普通だ。
でも、部屋に戻って鞄を開けた瞬間、その普通が少しだけ崩れた。
ノートの角が、曲がっていた。
教室で、榊原さんに声をかけられた時に握ったところだ。
家まで持って帰る間に少し戻ったけれど、端はまだ頼りなく浮いている。
私は机の前に座り、指でそこを押さえた。
榊原さんの声を思い出す。
『佐伯くんがいると安心だもんね』
その言葉を聞いた時、胸の奥がぎゅっと縮んだ。
怒られたわけじゃない。
責める言葉でもない。
むしろ、笑いながら言われた。
なのに、私はすぐに返事ができなかった。
佐伯くんに助けてもらっていることを、悪いことみたいに言われた気がした。
自分ではそう思っていないのに、急に周りから見られているような気がして、喉が詰まった。
前の私なら、たぶん下を向いていた。
違うよ、とも言えない。
そうだよ、とも言えない。
笑ってごまかして、あとで一人になってから泣く。
そんなふうにしていたと思う。
でも今日は、小野さんが横に立ってくれた。
小野さんは、何か特別なことを言ったわけじゃない。
でも、隣に立って、普通の声で榊原さんに「久しぶり」と何気ない感じで言ってくれた。
その声で、少し息がしやすくなった。
田端くんは、急に名前を出されたせいで変な声を出した。
あの時は必死だったのに、思い出すと少し笑っちゃう。
杉浦くんも「え、俺は?」なんて言っていた。
本当に、あの場でそれを言えるのはすごいと思う。
本人はたぶん、深く考えていない。
けれど、その深く考えていない感じに助けられた。
私は、ノートの角をもう一度指で伸ばした。
紙はまっすぐになりそうで、少しだけ戻ってくる。
佐伯くんのことも思い出した。
あの時、佐伯くんは何か言おうとしていたと思う。
少し離れたところで、提出物のプリントを握っていた。
顔はいつも通りに見えたけれど、手元のプリントが曲がっていた。
私のノートと同じだと思って、あとになってから少しおかしくなった。
佐伯くんは、すぐに助けてくれる人だ。
あの日も、私が消えそうになっていた時、ちゃんと気づいてくれた。
図書館でも、参考書を買いに行った時も、夏祭りの帰り道でも、私が言葉にする前に、少しだけ待ってくれる。
今日も、待ってくれた。
見捨てられたとは思わなかった。
たぶん、私が言えると思ってくれた。
そう思うと、怖かったこととは別のところが、少しだけ温かくなった。
私は机の上に携帯を置いた。
小野さんにメールを送ろうとして、少し迷う。
何を書けばいいのか分からない時、最初の一文字が重くなる。
結局、短く打った。
『今日はありがとう。横にいてくれて、助かった』
送信してから、すぐに携帯を伏せた。
返事を待っている自分が恥ずかしかったからだ。
でも、伏せた携帯が震えると、すぐに手に取ってしまった。
『澪、かっこよかったよ。杉浦くんの「俺は?」は笑った』
画面を見て、私は声を出さずに笑った。
かっこよかった、なんて言われると困る。
怖かったし、手も少し震えていた。
でも、小野さんがそう言ってくれるなら、今日の私を少しだけ信じてもいい気がした。
私は少し考えてから、返事を打った。
『私も、あとで少し笑ったかも』
それを送ると、胸の中に残っていた緊張が少しだけほどけた。
小野さんがいる。
田端くんも、杉浦くんもいる。
佐伯くんだけじゃない、と言えた。
言えたのに。
携帯を閉じても、落ち着かなかった。
私はもう一度、携帯を開いた。
今度は佐伯くん宛ての新規メールを出す。
指が止まった。
『今日はありがとう』
そう打って、しばらく画面を見た。
間違ってはいない。
佐伯くんには、今日もありがとうと思っている。
でも、足りない。
私は一度消して、もう少し打った。
『待ってくれて、ありがとう』
そこまで書いて、顔が熱くなった。
重い気がする。
佐伯くんはきっと、そんなつもりじゃないと言う。
それに、待ってくれて、なんて送ったら、私がずっと佐伯くんのことを見ていたみたいだ。
見ていた。
そこに気づいて、私は携帯を持つ手を膝の上に落とした。
教室で、佐伯くんが前に出ようとして止まったところ。
昇降口で「助け舟、出さなくてよかった?」と聞いてくれたところ。
帰り道で「見守るの、わりと難しい」と言ったところ。
私は、思っていたよりずっと見ている。
そして、見ていることを、嫌だと思っていない。
助けてくれたから、優しいから、私を軽く扱わないから。
理由はいくつも浮かぶし、それは全部本当だ。
でも、そこで終わるなら、こんなに胸のあたりが落ち着かなくなるはずがない。
図書館で隣に座った時のこと。
参考書を買いに行った帰り、領収書を大事に持っていた佐伯くんの横顔。
夏祭りの帰り道、暗い道を一緒に歩いたこと。
会社のノートを見せられて、私の言葉を真剣に聞いてくれたこと。
一つ思い出すたびに、携帯の画面が見られなくなる。
嬉しいのに、少し苦しい。
苦しいのに、思い出すのをやめられない。
私は大きく息を吸って、メールの文を消した。
全部送るのは、今は無理だった。
少し考えてから、短く打ち直す。
『今日はありがとう。自分で言えて、よかったです』
何度も読み返した。
変じゃないと思う。
でも、送信ボタンを押すまでに、ずいぶん時間がかかった。
送ってしまうと、急に部屋が静かになったように感じる。
窓の外から聞こえる、夕方の車の音。
携帯が震えた。
『よかった。無理はするなよ。宿題も忘れるな』
最後の一文を見て、私は少し笑った。
佐伯くんらしい。
心配してくれているのに、急に宿題の話を入れてくる。
おかげで、泣きそうになる前に笑ってしまった。
私は返事を打とうとして、やめた。
何度もやり取りしたい気持ちはあった。
でも、これ以上送ると、余計なことを書いてしまいそうだった。
携帯を閉じて、机の上に置く。
それでも落ち着かなくて、私はベッドに座った。
さっき消した言葉が、胸の中に残っている。
ありがとうだけじゃ足りない。
待ってくれて嬉しかった、だけでも足りない。
佐伯くんのことを思うと、嬉しくて、恥ずかしくて、少し怖い。
私は枕を抱えた。
布団に顔を半分埋める。
「……好き、なのかな」
声に出した瞬間、顔が一気に熱くなった。
私は慌てて布団をかぶった。
言ってしまった。
誰にも聞こえていないはずなのに、部屋の中のもの全部に聞かれた気がした。
机も、ノートも、閉じた携帯も、全部こっちを見ているみたいだった。
私は布団の中で、しばらく動けなかった。
好き。
たぶん、その言葉で合っている。
まだ少し怖い。
佐伯くんに伝えたいかと聞かれたら、今は首を振ると思う。
伝えたら、今の距離が変わってしまう。
図書館で隣に座ることも、ノートを見せてもらうことも、帰り道で少し話すことも、急に違うものになってしまいそうで怖い。
だから、今はしまっておく。
どこにしまえばいいのかは、まだ分からないけれど。
しばらくしてから、私は布団から顔を出した。
部屋の空気が少しぬるい。
机に戻って、曲がったノートの角をまた指で伸ばす。
端の浮きは、まだ少し残った。
ページはちゃんと開ける。
私はシャーペンを持って、明日の予定を書き足した。
読書感想文のメモを作る。
数学の証明を一問だけ進める。
小野さんに返す本を鞄に入れる。
そこまで書いて、少し迷ったあと、端の方に小さく一行だけ足した。
『佐伯くんに、無理はしないって言う』
字が少しだけ曲がった。
私は消しゴムを手に取ったけれど、消さずにそのままノートを閉じた。
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▼登場人物まとめ
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