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三十代社畜の俺、中二に戻って人生無双を始める 〜なお宝くじの番号は覚えていない〜  作者: らいお


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閑話「白石澪は、曲がったノートの角を伸ばす」

 家に帰って、制服をハンガーにかけたあとも、指先に少しだけ力が残っていた。


 何かを握っていたあとの、変な感じ。

 手を開いても、まだ紙の角がそこにあるみたいだった。


 お母さんに「登校日どうだった?」と聞かれて、私は「普通だった」と答えた。

 嘘をついたつもりはなかった。

 提出物を出して、先生の話を聞いて、友達と少し話して帰ってきた。

 夏休みの登校日としては、たぶん普通だ。

 でも、部屋に戻って鞄を開けた瞬間、その普通が少しだけ崩れた。


 ノートの角が、曲がっていた。


 教室で、榊原さんに声をかけられた時に握ったところだ。

 家まで持って帰る間に少し戻ったけれど、端はまだ頼りなく浮いている。

 私は机の前に座り、指でそこを押さえた。


 榊原さんの声を思い出す。


『佐伯くんがいると安心だもんね』


 その言葉を聞いた時、胸の奥がぎゅっと縮んだ。

 怒られたわけじゃない。

 責める言葉でもない。

 むしろ、笑いながら言われた。


 なのに、私はすぐに返事ができなかった。

 佐伯くんに助けてもらっていることを、悪いことみたいに言われた気がした。

 自分ではそう思っていないのに、急に周りから見られているような気がして、喉が詰まった。


 前の私なら、たぶん下を向いていた。

 違うよ、とも言えない。

 そうだよ、とも言えない。

 笑ってごまかして、あとで一人になってから泣く。

 そんなふうにしていたと思う。


 でも今日は、小野さんが横に立ってくれた。


 小野さんは、何か特別なことを言ったわけじゃない。

 でも、隣に立って、普通の声で榊原さんに「久しぶり」と何気ない感じで言ってくれた。

 その声で、少し息がしやすくなった。


 田端くんは、急に名前を出されたせいで変な声を出した。

 あの時は必死だったのに、思い出すと少し笑っちゃう。

 杉浦くんも「え、俺は?」なんて言っていた。

 本当に、あの場でそれを言えるのはすごいと思う。

 本人はたぶん、深く考えていない。

 けれど、その深く考えていない感じに助けられた。


 私は、ノートの角をもう一度指で伸ばした。

 紙はまっすぐになりそうで、少しだけ戻ってくる。


 佐伯くんのことも思い出した。


 あの時、佐伯くんは何か言おうとしていたと思う。

 少し離れたところで、提出物のプリントを握っていた。

 顔はいつも通りに見えたけれど、手元のプリントが曲がっていた。

 私のノートと同じだと思って、あとになってから少しおかしくなった。


 佐伯くんは、すぐに助けてくれる人だ。

 あの日も、私が消えそうになっていた時、ちゃんと気づいてくれた。

 図書館でも、参考書を買いに行った時も、夏祭りの帰り道でも、私が言葉にする前に、少しだけ待ってくれる。


 今日も、待ってくれた。


 見捨てられたとは思わなかった。

 たぶん、私が言えると思ってくれた。

 そう思うと、怖かったこととは別のところが、少しだけ温かくなった。


 私は机の上に携帯を置いた。

 小野さんにメールを送ろうとして、少し迷う。

 何を書けばいいのか分からない時、最初の一文字が重くなる。


 結局、短く打った。


『今日はありがとう。横にいてくれて、助かった』


 送信してから、すぐに携帯を伏せた。

 返事を待っている自分が恥ずかしかったからだ。

 でも、伏せた携帯が震えると、すぐに手に取ってしまった。


『澪、かっこよかったよ。杉浦くんの「俺は?」は笑った』


 画面を見て、私は声を出さずに笑った。

 かっこよかった、なんて言われると困る。

 怖かったし、手も少し震えていた。

 でも、小野さんがそう言ってくれるなら、今日の私を少しだけ信じてもいい気がした。


 私は少し考えてから、返事を打った。


『私も、あとで少し笑ったかも』


 それを送ると、胸の中に残っていた緊張が少しだけほどけた。

 小野さんがいる。

 田端くんも、杉浦くんもいる。

 佐伯くんだけじゃない、と言えた。


 言えたのに。


 携帯を閉じても、落ち着かなかった。


 私はもう一度、携帯を開いた。

 今度は佐伯くん宛ての新規メールを出す。


 指が止まった。


『今日はありがとう』


 そう打って、しばらく画面を見た。

 間違ってはいない。

 佐伯くんには、今日もありがとうと思っている。


 でも、足りない。


 私は一度消して、もう少し打った。


『待ってくれて、ありがとう』


 そこまで書いて、顔が熱くなった。

 重い気がする。

 佐伯くんはきっと、そんなつもりじゃないと言う。

 それに、待ってくれて、なんて送ったら、私がずっと佐伯くんのことを見ていたみたいだ。


 見ていた。


 そこに気づいて、私は携帯を持つ手を膝の上に落とした。


 教室で、佐伯くんが前に出ようとして止まったところ。

 昇降口で「助け舟、出さなくてよかった?」と聞いてくれたところ。

 帰り道で「見守るの、わりと難しい」と言ったところ。


 私は、思っていたよりずっと見ている。

 そして、見ていることを、嫌だと思っていない。


 助けてくれたから、優しいから、私を軽く扱わないから。

 理由はいくつも浮かぶし、それは全部本当だ。

 でも、そこで終わるなら、こんなに胸のあたりが落ち着かなくなるはずがない。


 図書館で隣に座った時のこと。

 参考書を買いに行った帰り、領収書を大事に持っていた佐伯くんの横顔。

 夏祭りの帰り道、暗い道を一緒に歩いたこと。

 会社のノートを見せられて、私の言葉を真剣に聞いてくれたこと。


 一つ思い出すたびに、携帯の画面が見られなくなる。

 嬉しいのに、少し苦しい。

 苦しいのに、思い出すのをやめられない。


 私は大きく息を吸って、メールの文を消した。

 全部送るのは、今は無理だった。


 少し考えてから、短く打ち直す。


『今日はありがとう。自分で言えて、よかったです』


 何度も読み返した。

 変じゃないと思う。

 でも、送信ボタンを押すまでに、ずいぶん時間がかかった。

 送ってしまうと、急に部屋が静かになったように感じる。

 窓の外から聞こえる、夕方の車の音。


 携帯が震えた。


『よかった。無理はするなよ。宿題も忘れるな』


 最後の一文を見て、私は少し笑った。

 佐伯くんらしい。

 心配してくれているのに、急に宿題の話を入れてくる。

 おかげで、泣きそうになる前に笑ってしまった。


 私は返事を打とうとして、やめた。

 何度もやり取りしたい気持ちはあった。

 でも、これ以上送ると、余計なことを書いてしまいそうだった。


 携帯を閉じて、机の上に置く。

 それでも落ち着かなくて、私はベッドに座った。


 さっき消した言葉が、胸の中に残っている。

 ありがとうだけじゃ足りない。

 待ってくれて嬉しかった、だけでも足りない。

 佐伯くんのことを思うと、嬉しくて、恥ずかしくて、少し怖い。


 私は枕を抱えた。

 布団に顔を半分埋める。


「……好き、なのかな」


 声に出した瞬間、顔が一気に熱くなった。

 私は慌てて布団をかぶった。


 言ってしまった。

 誰にも聞こえていないはずなのに、部屋の中のもの全部に聞かれた気がした。

 机も、ノートも、閉じた携帯も、全部こっちを見ているみたいだった。


 私は布団の中で、しばらく動けなかった。


 好き。

 たぶん、その言葉で合っている。

 まだ少し怖い。

 佐伯くんに伝えたいかと聞かれたら、今は首を振ると思う。

 伝えたら、今の距離が変わってしまう。

 図書館で隣に座ることも、ノートを見せてもらうことも、帰り道で少し話すことも、急に違うものになってしまいそうで怖い。


 だから、今はしまっておく。

 どこにしまえばいいのかは、まだ分からないけれど。


 しばらくしてから、私は布団から顔を出した。

 部屋の空気が少しぬるい。

 机に戻って、曲がったノートの角をまた指で伸ばす。


 端の浮きは、まだ少し残った。

 ページはちゃんと開ける。


 私はシャーペンを持って、明日の予定を書き足した。

 読書感想文のメモを作る。

 数学の証明を一問だけ進める。

 小野さんに返す本を鞄に入れる。


 そこまで書いて、少し迷ったあと、端の方に小さく一行だけ足した。


『佐伯くんに、無理はしないって言う』


 字が少しだけ曲がった。

 私は消しゴムを手に取ったけれど、消さずにそのままノートを閉じた。


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▼登場人物まとめ

https://syosetu.com/userblogmanage/view/blogkey/3652582/

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