第四十一話「佐伯くんだけじゃないよ」
白石は、机の上のノートの端を握り直した。
紙が少し曲がる。
その指先は、見ていて分かるくらい力が入っていた。
俺は曲がった提出物のプリントを持ったまま、まだ動けずにいた。
榊原に何か言うなら今だ。
白石の前に出るなら、たぶんここしかない。
けれど、白石は俺を見なかった。
小野の方をちらっと見て、それから田端と杉浦の方へ視線を動かした。
逃げ道を探しているようにも見えたし、そこに誰がいるのか確かめているようにも見えた。
白石は一度だけ、浅く息を吸った。
「佐伯くんだけじゃないよ」
声は大きくなかった。
でも、近くにいた連中にはちゃんと届いた。
榊原の笑みが、ほんの少しだけ止まる。
「小野さんも、田端くんもいるから」
田端が変な声を出した。
「お、おう?」
「田端、そこで挙動不審になるなよ」
「急に名前出たらなるだろ」
杉浦が肘で田端をつつく。
そのやり取りで、張っていたものが少しだけゆるんだ。
小野が白石の横で、短く笑う。
「そうだよ。澪、私の読書感想文も見てくれる予定だし」
「まだ、見られるところまで書いてないけど」
「そこは今から頑張るから」
白石は少しだけ目元をゆるめた。
さっきまでノートの端を握っていた指が、ほんの少しほどける。
その時、杉浦が片手を上げた。
「え、俺は?」
白石は一瞬きょとんとしたあと、少し笑った。
怖さはまだ残っている。
それでも、ちゃんと笑った。
「もちろん、杉浦くんも」
「よかった。俺だけ読書感想文の相談から外されたのかと思った」
「お前、まず本読み終わったのか?」
「そこから刺すなよ、田端」
周りの何人かが笑った。
大きな笑いじゃない。
それでも、榊原が作ろうとした嫌な隙間に、田端と杉浦のしょうもない会話が入り込んだ。
こういうのは、狙ってできるものじゃない。
本人たちはたぶん何も考えていない。
それが助かる時もある。
榊原は小野、田端、杉浦を順に見た。
最後に、また白石を見る。
その顔は笑っていたが、さっきより少し薄い。
「へえ。みんなで仲良いんだ」
明るい声だった。
ただ、語尾に小さな引っかかりがある。
白石はノートの端から手を離さず、でも今度は下を向かなかった。
「うん」
一言だけだった。
それでも、さっきの「夏休みだから」より少しだけ前に出ていた。
俺はようやく、持っていたプリントの端を指で伸ばした。
皺が残っている。
父さんに見せる書類じゃなくてよかった。
こんな時に何を考えているんだ、俺は。
榊原の隣にいた女子が、少し居心地悪そうに鞄を持ち直した。
教室の騒がしさは戻りきっていない。
けれど、さっきみたいに白石だけが見られている感じでもなくなった。
小野が、わざとらしく自分のノートを開いた。
「じゃ、澪。私、本当に見てもらっていい?」
「うん」
「田端くんと杉浦くんも、あとで並んでね」
「行列制?」
「白石先生、人気すぎるだろ」
「先生じゃないよ」
白石が困った顔で言う。
その声は、まだ少し硬い。
でも、小野が隣にいて、田端と杉浦が変なことを言っている。
俺が前に出なくても、白石の周りに人がいる。
榊原はつまらなさそうに小さく息を吐いた。
すぐに笑顔へ戻す。
こういう切り替えだけは本当にうまい。
「別に、変な意味で言ったわけじゃないけど」
出た。
前にも聞いた種類の言葉だ。
便利な逃げ道。
言った側だけが安全な場所へ戻れるやつ。
俺は一歩だけ近づいた。
だが、口は開かなかった。
白石がまだ立っている。
小野も横にいる。
田端と杉浦も、何となく空気を読んで黙っている。
何となく、というところが少し怪しいが。
そのタイミングで、高村先生が教室の前から戻ってきた。
先生は提出物の箱を両手で抱え、こちらを見た。
「そこ、廊下側に広がらない。提出物出した人から帰りの支度して」
普通の注意だった。
普通の注意が、今はありがたい。
榊原はすぐに先生の方へ顔を向けた。
「はーい」
声だけ聞けば、何もなかったみたいだ。
榊原は隣の女子と何か話しながら、自分の席の方へ戻っていく。
最後に一度だけ、こちらを見た。
俺と目が合った。
俺は何も言わなかった。
言ったらたぶん、また面倒になる。
面倒になること自体は別にいい。
ただ、今は白石が自分で出した言葉のあとだ。
そこへ俺の言葉をかぶせるのは、何か違う気がした。
榊原が離れると、田端がやっと息を吐いた。
「……何だったんだ、今の」
「田端くん、声大きい」
「ごめん」
白石が言うと、田端は素直に小さくなる。
小野がその様子を見て、少し笑った。
「田端くん、名前出た時すごい顔してた」
「そりゃするだろ。急に戦力扱いされたんだぞ」
「戦力って」
「白石さんの宿題相談防衛隊みたいな」
「名前が長い」
杉浦の雑なツッコミで、白石がまた少し笑った。
笑ったあとで、すぐにノートの角を指で直す。
曲がったページを丁寧に戻しているその手は、まだ少し落ち着かないように見えた。
俺はそれを見て、言葉を飲み込んだ。
よく言ったな、とか。
怖かっただろ、とか。
今ここで言うと、周りの目もあるし、白石が困る。
大人の判断というより、単に今の俺にうまい言い方が見つからなかっただけだ。
高村先生がもう一度「帰る準備」と言ったので、教室はようやく動き出した。
鞄を閉める音、椅子を引く音、廊下へ出る足音。
登校日の浮ついたざわめきが戻ってくる。
さっきまでの嫌な感じは完全には消えていないが、教室全部を覆うほどではなかった。
◇ ◇ ◇
帰りの昇降口は、外の光でやけに明るかった。
靴箱の前に人がたまり、誰かが部活へ行くとか、コンビニでアイスを買うとか話している。
夏休みの登校日は時間的には短い。だが、短いくせに、妙に疲れる。
田端と杉浦は、帰りに文房具屋へ寄るらしい。
読書感想文の原稿用紙が足りないとか言っていたが、そもそもまだ書き始めていないのでは、という疑問は飲み込んでおいた。
小野は白石と少し話したあと、家の用事があると言って先に帰った。
昇降口の端で、俺と白石だけが少し遅れた。
白石は靴を履き替え、上履きを袋にしまっている。
その動きがいつもより丁寧すぎる。
こういう時、人間はどうでもいい動作を妙にきっちりやる。
前の人生で、上司に詰められたあと自分の机を無駄に片づけたことを思い出した。
中学生の昇降口で思い出すことじゃない。
「白石」
声をかけると、白石は少しだけ肩を揺らしてから顔を上げた。
「うん」
「助け舟、出さなくてよかった?」
聞いてから、言い方が硬かったかもしれないと思った。
でも、ほかにちょうどいい言葉が出てこなかった。
白石は上履き袋の紐を指に巻きつけ、少し考えた。
「うん。大丈夫」
「本当に?」
「少し怖かったけど」
そこは、ちゃんと言った。
白石は無理に平気な顔を作らなかった。
それが少しだけ安心した。
「でも、自分で言いたかった」
「そっか」
「小野さんが横にいてくれたから、言えたと思う。田端くんと杉浦くんも、変なこと言ってくれたし」
「あいつらの変なところが役に立つ日が来るとはな」
「佐伯くん、ひどい」
「褒めてる」
「たぶん褒めてない」
白石が小さく笑った。
昇降口の外から、蝉の声がしている。
校庭の向こうでは、部活の掛け声が暑さに混ざっていた。
白石は少し歩き出してから、ぽつりと言った。
「佐伯くんだけじゃないって、ちゃんと言えてよかった」
俺は返事に少し迷った。
良かった、とすぐ言うのは簡単だ。
でも、白石の声にはまだ怖さが残っていた。
勝ったとか、強くなったとか、そういう話にすると雑になる。
「うん」
結局、それだけ言った。
気の利いた言葉は出てこない。
こういう時に三十二歳の経験値が役に立たないの、どうにかならないだろうか。
白石は俺の方を見て、少しだけ首を傾げた。
「佐伯くん?」
「いや。俺も、すぐ前に出ない練習をしないとなって思っただけ」
「練習?」
「見守るの、わりと難しい」
白石は一瞬だけ目を丸くしたあと、下を向いて笑った。
「じゃあ、私も言う練習する」
「無理はするなよ」
「うん。でも、少しずつ」
その言い方が、やけに白石らしかった。
大きく変わるわけじゃない。
急に平気になるわけでもない。
それでも、少しずつ。
「面白かった」「続きが読みたい!」と思っていただけましたら、ぜひブックマーク・評価・感想などで応援していただけると嬉しいです。
▼登場人物まとめ
https://syosetu.com/userblogmanage/view/blogkey/3652582/




