第四十話「夏休みの登校日、榊原莉奈はまだ見ている」
夏休みの途中で着る制服は、妙に他人行儀だった。
朝から暑い。
シャツの背中がすぐ肌に貼りついて、学校へ向かうだけで少し嫌になる。
休みの日ならまだ寝ている時間に、鞄を背負って通学路を歩いている。これだけで、夏休みを一日損した気分になるから中学生は忙しい。
校門のあたりには、同じような顔をした生徒が集まっていた。
日焼けしたやつ、髪を少し切ったやつ、部活帰りみたいに真っ黒なやつ。やたら元気な声で「宿題終わった?」と聞いている女子もいる。
その質問は夏の挨拶としてはだいぶ攻撃的だと思う。
教室に入ると、扇風機が首を振りながら回っていた。
風はあるが、生ぬるく涼しくはない。
黒板には、チョークで登校日と大きく書かれている。横には提出物の一覧があり、雑に書かれた高村先生の字が少し斜めになっていた。
「佐伯! 宿題どこまで終わった?」
席に着く前に、田端が振り返った。
声が大きい。暑いのに元気だな、こいつ。
「半分以上」
「裏切り者!」
「何でだよ」
「夏休みの宿題は、終盤に泣きながらやる仲間だろ」
「そんな契約を結んだ覚えはない」
「杉浦! 佐伯がちゃんと宿題やってる!」
「え、まじで」
杉浦までこちらを見た。
どういう扱いだ。図書館で一緒にやってたからある程度進捗は把握されてるものだと思っていたが、どうやら違うらしい。
でもたしかに前の俺なら、そこそこ後回しにしていた気はする。だが今回は父さんの目がある。パソコン没収の条件を背負った夏休みで、宿題を燃やす度胸はない。
「お前らは?」
「俺は美術が残ってる」
「俺は読書感想文と理科」
「多いな」
「言うな。分かってる」
田端は机に突っ伏した。
机の上には、折れたプリントと、角が丸くなったワークがある。
夏休みらしい荒れ方だった。
教室はどこか浮ついていた。
久しぶりの制服、久しぶりの席、久しぶりの担任。
全員がまだ休み明け本番じゃないと分かっているから、いつもの教室より少し声が軽い。
プールに行った話、親戚の家に泊まった話、部活の試合の話。携帯で撮った写真を見せ合っているやつもいる。画面は小さいし画質も荒いが、その場では十分に盛り上がっていた。
俺は鞄を机の横にかけ、提出物のプリントを出した。
その時、廊下側の入り口から小野の声が聞こえた。
「澪、こっちこっち」
白石が小野と一緒に教室へ入ってきた。
制服姿を見るのは久しぶり、というほどでもないはずだが、夏祭りの浴衣や図書館の私服を見たあとだと少しだけ印象が違う。
白いシャツに、きちんと結ばれたリボン。
髪はいつもより少し高い位置で留めてある。
目が合った。
「おはよう、佐伯くん」
「おはよう」
返事は普通にできた。
たぶん普通だった。
横で田端がにやにやしていないか確認したが、田端は自分のワークの残りページを数えて絶望していた。助かる。
白石は小野と並んで席へ向かった。
途中で杉浦が「あ、白石さん」と声をかける。
「読書感想文、最初の書き方ってさ、この前小野さんに教えてたやつ、俺も聞いていい?」
「うん。あとでなら」
「助かる。俺、最初の一文から止まってる」
「最初から全部書こうとすると大変だから、先に何を書きたいかだけメモするといいと思う」
「それがもう先生なんだよな」
杉浦が笑うと、小野も「でしょ?」と得意そうに頷いた。
白石は少し困った顔をしながらも、ちゃんとその場に立っていた。
前なら、こういう時は一歩引いて、誰かの背中に隠れるみたいにしていたはずだ。
少なくとも、俺の記憶の中の白石はそうだった。
今の白石は、小野の隣で、自分のノートを胸に抱えながら、少し照れている。
それだけのことなのに、俺はペンケースのファスナーを無駄に開け閉めした。
見すぎると気持ち悪い。
中身三十二歳のくせに、何をそわそわしているんだか。
高村先生が教室に入ってきたのは、その少しあとだった。
先生も暑そうだった。
腕まくりをして、出席簿で自分をあおいでいる。
「はい、席に着いて。久しぶりだからって、いつまでもしゃべらない」
言い方はいつも通りだが、声は少し柔らかい。
高村先生も、夏休み中の登校日くらいは多少ゆるくなるらしい。
ホームルームは短かった。
提出物の確認、二学期初日の予定、部活の連絡、生活リズムを戻しておくこと。
先生はそれらを一通り話したあと、黒板の一覧に丸をつけた。
「今日出すものは、前の箱へ。まだの人は、二学期の始業式までに必ず出すこと。必ずです」
その「必ず」で、田端が小さく肩を跳ねさせた。
分かりやすい。
休み時間になると、教室はいっそう騒がしくなった。
提出物を前の箱へ入れる人の流れができ、机の間が少し詰まる。
誰かの鞄が椅子に引っかかり、プリントが床へ落ちた。
小野がそれを拾い、白石が一緒に角を揃える。
「ありがとう、白石さん」
「ううん」
「澪、こっちもお願い。読書感想文のメモ」
「今?」
「今見せたら、帰ってからやる気出るかもしれない」
「出るかもしれない、なんだ」
白石が少し笑った。
小野が大げさに胸を張り、田端が横から「俺もやる気だけならある」と言う。
「田端くんは、やるところからだと思う」
「白石さん、地味に厳しい」
「ご、ごめん」
「いや、正しい」
田端が両手を上げると、周りの数人が笑った。
白石もつられて笑う。
俺はその様子を見ながら、少しだけ肩の力を抜いた。
いい感じだ。
少なくとも、夏休み前よりずっといい。
白石が誰かに話しかけられて、普通に返して、軽く突っ込まれて、また笑う。
それを見て、俺がいちいち安心するのもどうかと思うが、まあ仕方ない。
前の未来で消えた相手が、今は教室の中で笑っている。
そういうものは、慣れるまで時間がかかる。
俺が提出物を箱へ入れようとした時、廊下側が少し騒がしくなった。
女子の笑い声が近づいてくる。
明るい声。
耳に残る声。
俺はプリントを持ったまま、足を止めた。
榊原莉奈が、廊下から教室を覗いていた。
髪を少し巻いている。
校則的にどうなのかは微妙だが、夏休みの登校日くらいなら見逃される範囲なのだろう。
隣には、前によく一緒にいた女子が二人。榊原はその二人に何か言って笑いながら、教室の中へ視線を滑らせた。
そして、白石のところで止まった。
俺の胃のあたりが、少し重くなる。
あいつがそこにいるだけで、教室の音が変に遠く感じる。
大げさだと自分でも思うが、体が先に反応した。
前に見たものを、体が覚えている。
榊原はすぐには近づかなかった。
入口のところで、友達と話すふりをしている。
だが視線は、何度か白石へ戻った。
白石は小野の読書感想文メモを見ていた。
気づいていないのか、気づかないふりをしているのか。
指先が、ノートの角を軽く押さえている。
俺は一歩動きかけて、止まった。
今すぐ白石の横に行くのは簡単だ。
榊原に何か言われる前に、間へ入ることもできる。
ただ、それを毎回やると、白石はいつまでも俺がいない場面で困る。
分かっている。
分かっているが、分かっているだけで足が止まるなら苦労しない。
俺は提出物のプリントを、少し強めに握っていた。
端が曲がっている。
あとで直せばいい。今はどうでもいい。
榊原が、ゆっくり教室へ入ってきた。
「白石さん」
声は明るかった。
表面だけ聞けば、ただの挨拶に近い。
周りの何人かがちらっと見る。すぐに自分の話へ戻るやつもいる。けれど、小野は顔を上げた。
白石も、顔を上げる。
「……榊原さん」
「久しぶり。最近、楽しそうだね」
その言い方が、嫌に軽かった。
楽しそうだね。
普通の言葉だ。
どこにも責める文字は入っていない。
だが、榊原の口から出ると、余計なものがくっついて聞こえる。
白石の返事が、一拍遅れた。
「うん。夏休みだから」
声は小さいが、出た。
俺は息を吐きそうになって、やめた。
まだ終わっていない。
榊原は目を細め、白石の隣にいる小野を見て、それから少し離れた俺の方へも視線を向けた。
目が合う。笑っている。
面白くない時の笑い方だ。
「へえ。佐伯くんたちと、まだ仲いいんだ」
田端が「ん?」という顔でこちらを見た。
杉浦も会話の手を止める。
さっきまで宿題だの読書感想文だので騒いでいた教室の一部だけ、音が小さくなった。
俺は口を開きかけた。
言うことはいくらでもある。
その言い方、何が言いたいんだ。
白石に絡むな。
また同じことをするなら、先生に話す。
どれも言える。
でも、どれを言っても、白石の前に俺が立つ形になる。
それが必要な時もある。
ただ、今がその時なのか、判断が一瞬遅れた。
その一瞬で、小野が動いた。
「莉奈ちゃん、久しぶり」
小野は白石の隣に立った。
声はいつも通りに近い。
でも、鞄を机の上に置く手が少し硬い。
小野だって平気なわけじゃないのだろう。
それでも、立った。
榊原は小野を見て、少しだけ笑い方を変えた。
「小野さんも一緒なんだ」
「うん。宿題見てもらってた」
「白石さん、すっかり頼られてるんだね」
白石の指が、ノートの角を強く押さえた。
ページが少し曲がる。
俺は喉の奥で、短く息を止めた。
踏み込むなら、ここだ。
そう思った時、榊原が先に続けた。
「佐伯くんがいると安心だもんね」
声は、やっぱり明るかった。
だから余計に腹が立つ。
白石は一瞬、何も言わなかった。
小野が横にいる。
田端も杉浦も、こちらを見ている。
俺は曲がったプリントを持ったまま、動けずにいた。
白石は、机の上のノートの端を握り直した。
「面白かった」「続きが読みたい!」と思っていただけましたら、ぜひブックマーク・評価・感想などで応援していただけると嬉しいです。
▼登場人物まとめ
https://syosetu.com/userblogmanage/view/blogkey/3652582/




