第三十九話「白石澪は、説明の穴を見つける」
図書館の閲覧席に着くと、白石はもうノートを開いていた。
今日は数学のワークらしい。
ページの端に、三角形の図がいくつも並んでいる。合同条件とか証明とか、その辺りだろう。
大人になってから一度も使わなかった単語のくせに、見た瞬間だけ嫌な汗が出る。
社会人は毎日もっと面倒なものを相手にしていたはずなのに、中学数学には中学数学の嫌さがある。
白石は俺に気づくと、シャーペンを置いた。
「おはよう、佐伯くん」
「おはよう」
「今日は、会社のノート?」
「ああ。この前、父さんに見せる相談メモを見てもらっただろ」
「うん。お父さんに話すって言ってたやつ」
「その続き。父さんに、会社を調べるなら手で書けって言われた」
「それで、会社のノート?」
「そう」
白石は一度ノートに目を落としてから、少しだけ背筋を伸ばした。
この前、相談メモを見せた時もそうだった。
自分の宿題を見ている時より、俺の変な相談に付き合う時の方が、白石は妙に真剣な顔をする。
ありがたい。
ありがたいのだが、見てもらう前提でノートを持ってきている自分に気づくと、少しだけ落ち着かない。
俺は席に座りながら、鞄から大学ノートを出した。
「田端たちは?」
「田端くんは午前中に家の用事があるって。小野さんは少し遅れて来るみたい。杉浦くんは、今日は歯医者さん」
「歯医者」
「うん。昨日、ちょっと嫌そうな顔してた」
「まあ、歯医者は嫌だろ」
それを聞いて、白石が小さく笑った。
いつもの控えめな笑い方だ。
夏祭りの帰り道を思い出しそうになって、俺は慌ててノートを開く。
今それを思い出すと、たぶん話が進まない。
ページの端には、昨日折った跡が残っていた。
俺はそこを開いて、白石の方へ向ける。
「父さんに、白石にも見てもらえって言われた」
「私に?」
「うん。白石に見てもらうと、俺の説明が少しまともになるらしい」
「そ、そうなの?」
「父さん評価では」
白石は困ったように眉を下げたあと、少し嬉しそうに口元を緩めた。
こういう顔をされると、こちらも変なことを言った気になる。
いや、実際に少し変な言い方だったかもしれない。
「でも、株のことは分からないよ?」
「そこは俺も怪しい。見てほしいのは、説明として変じゃないかってところ」
「説明なら……たぶん」
白石は自分のワークを横にずらし、俺のノートを両手で受け取った。
その動きが妙に丁寧で、こっちの背筋まで伸びる。
そして、ページを読み始めた瞬間、白石の顔つきが変わった。
さっきまで少し照れていたのに、目線がすっと紙の上に落ちる。
眉間に軽く力が入って、ペン先が行と行の間を追っていく。
可愛いとか、照れているとか、そういう空気がすっと引っ込んで、代わりに「ちゃんと読んでいる人」の顔になる。
……これ、けっこうずるいな。
俺はそう思い、麦茶のペットボトルを開けるふりをした。
飲みたかったわけじゃない。
何かしていないと、白石の横顔を普通に見てしまいそうだった。
白石はしばらく黙ってページをめくった。
村田製作所、TDK、ソニー、東京エレクトロン、ガンホー、ミクシィ、任天堂。
自分で書いた会社名が、白石の目の前に並んでいる。
急に、宿題の作文を先生に読まれている気分になった。
「字、汚いところあるだろ」
「読めるよ」
「本当に?」
「うん。佐伯くんの字、急いでるところは分かりやすい」
「それ、褒めてる?」
「えっと……読める、という意味で」
白石は真面目に答えた。
悪気がない分、少し刺さる。
まあ、急いで書いたところは本当に汚い。
白石は赤ペンを持ったまま、俺を見た。
「書いてもいい?」
「お願いします」
「じゃあ、少しだけ」
白石はページの上の方に、小さく丸をつけた。
「ここは分かりやすいと思う。iPhone4を見て、スマートフォンが広がるかもしれないって考えたところ」
「そこは、あるものから考えたって言えるからな」
「うん。こっちは資料があるから分かりやすい。記事を見て、こう思った、って言えるから」
白石の赤ペンが、次に少し下へ移動する。
ゲーム会社の名前が並んでいるあたりだ。
「でも、こっちは少し急に見えるかも」
「急?」
「スマートフォンが広がるかもしれない、までは分かるんだけど、そこからゲーム会社が伸びる、まで行くと、途中が抜けている気がする」
白石は言葉を選ぶように、少しだけペンを止めた。
「この理由だと、佐伯くんがそう思ってるだけに見える」
正確に痛いところへ来た。
俺は思わず、頬の内側を軽く噛む。
そう思っているだけ、ではある。
未来で見たからそう思っている。
でも、そのまま言えないから、今の資料で埋める必要がある。
「やっぱり、そこ薄いか」
「うん。ごめんね」
「いや、そういう所を見てほしかった」
白石はほっとしたように頷き、それからまたノートへ視線を戻した。
「ゲームのところを書くなら、スマートフォンでゲームをする人が増えるかもしれない理由が先にいると思う」
「たとえば?」
「えっと……携帯に入れて遊べるとか、ゲーム機を持っていなくてもできるとか」
「なるほど」
「あと、今の携帯ゲームと何が違うのかも、少し書いた方がいいかも。お父さん、そこを聞きそう」
聞きそうだ。
というか、絶対に聞く。
父さんはそういうところを流してくれない。
俺はシャーペンで余白に書き足した。
スマホでゲームをする理由。
今の携帯ゲームとの違い。
父さんに聞かれそうなこと。
書いている途中で、白石がそっと首を傾げた。
「あと、変なこと言っていい?」
「いい」
「会社がすごいことと、株を買っていいことって、同じじゃないよね?」
今日一番きついのが来た。
俺はシャーペンを止めた。
白石は少し慌てたように手を振る。
「ごめん、本当に詳しくないのに」
「いや、今のは大事」
「大事?」
「父さんに言われたら、たぶん返事に詰まるやつ」
白石は少しだけ目を丸くした。
自分の言葉がそこまで刺さったとは思っていなかったのだろう。
実際、俺は未来の結果を知っているせいで、その途中をかなり雑に飛ばしていた。
会社が時代に合っている。
だから株価も上がる。
そう言いたくなる。
だが、現実にはその間に、利益だの競争だの期待だの株価の織り込みだの、面倒くさいものが山ほど挟まる。
中学生に説明するには重いし、父さんに説明するには軽すぎる。
俺は軽く頭をかいた。
「面倒だな、株」
「うん……大変そう」
「白石までしみじみ言うな」
「だって、ノートだけでも難しそうだから」
白石はそこで少し笑った。
さっきまでの真剣な顔がゆるんで、急に年相応の表情に戻る。
その差に、また少し調子が狂う。
白石は赤ペンを置かず、もう一度ページの上へ戻った。
「お父さんに見せるなら、先に危ないことを書いた方がいいと思う」
「先に?」
「うん。良さそうな会社を並べる前に、これは外れるかもしれないって書いておく方が、安心すると思う」
「先に危ないところか」
「スマートフォンがそんなに広がらないかもしれない、とか。会社が良くても株価が上がるとは限らない、とか。他の会社が強いかもしれない、とか」
白石は一つ言うたびに、指でノートの余白を軽く押さえた。
声は控えめなのに、指摘はかなりしっかりしている。
投資の知識というより、誰かに見せる文章としての穴を見ているのだろう。
俺は赤ペンを受け取り、ページの上に大きめに書いた。
『この考えが外れる場合を先に書く』
白石はその文字を見て、少しだけ頷いた。
「それなら、お父さんも最初から怒らないと思う」
「怒られる前提なんだな」
「怒るというか……心配すると思う」
「まあ、そうだな」
父さんは怒るより先に心配する。
それが面倒で、ありがたい。
中学生の息子が株の話をするのだから、心配されない方がおかしい。
俺が次の行を書こうとした時、白石が少し身を乗り出した。
赤ペンの先が、俺の書いた「スマートフォンが普及するかもしれない」の一文を示す。
肩が少し近い。
近い、と思った瞬間に、こっちの集中力が一段落ちる。
「ここ、言い方を少し変えた方がいいかも」
「どんな感じ?」
「普及する、って書くと強いから……広がる可能性がある、とか」
「ああ」
「あと、最初に『買いたい会社』じゃなくて、『調べたい会社』って書いた方が安心かも」
「それは確かに」
俺は頷いて、赤ペンで線を引いた。
白石は俺の手元をじっと見ている。
真面目な顔で。
さっきまで距離の近さにこっちが勝手に困っていたことなど、たぶん気づいていない。
いや、気づいていない方が助かる。
気づかれたら俺が困る。
そこへ、背後から明るい声がした。
「おー、やってるね」
振り返ると、小野が鞄を肩にかけたまま立っていた。
手には図書館の貸出カードと、薄い文庫本がある。
どうやら先に本を借りてきたらしい。
「小野さん、おはよう」
「おはよ。澪、何してるの?」
「佐伯くんのノートを見てるだけだよ」
「だけ、って顔じゃないよ。先生みたいだった」
「先生じゃないよ」
「でも今の澪、ちょっと先生だった」
白石の頬が分かりやすく赤くなった。
赤ペンを持っているせいで、余計にそれっぽい。
「小野さん、からかわないで」
「からかってないって。いい意味」
「いい意味でも恥ずかしいよ」
小野は楽しそうに笑い、俺のノートを少しだけ覗き込んだ。
「会社のやつ?」
「そう」
「佐伯くん、本当に中学生?」
「中学生だよ」
「趣味が渋いんだよね」
「それは自分でも思う」
小野はくすっと笑って、少し離れた席に鞄を置いた。
「じゃ、私は宿題やる。澪先生、あとで私の読書感想文も見て」
「先生じゃないってば」
白石は小さな声で抗議したが、小野は聞こえないふりをして文庫本を開いた。
友達同士の雑なやり取りだ。
白石がそういう会話をしているのを見ると、少し安心する。
同時に、俺のノートを見ている時の顔を、俺だけが少し先に見たような気もして、変に落ち着かない。
白石は赤ペンを両手で持ち直し、俺の方へそっと返した。
「ごめんね、いろいろ言って」
「いや、かなり助かった」
「本当?」
「本当。このまま父さんに見せてたら、たぶん新聞を読まされてた」
「新聞?」
「世の中そんなに甘くない、みたいな話を記事付きでされる」
白石は想像したのか、口元を手で押さえて笑った。
「佐伯くんのお父さん、ちゃんとしてるね」
「ちゃんとしてる。だから面倒でもある」
「でも、心配してくれてるんだと思う」
「うん。それは分かってる」
分かっているから、余計に適当なことはできない。
父さんを説得するには、未来で見たから、なんて言えない。
今ここにある材料で、今の俺が考えた形にしないといけない。
俺は白石が丸をつけたところを見た。
iPhone4の資料。
スマートフォンが広がる可能性。
部品や半導体。
ゲームは後ろへ回す。
危ないところを先に書く。
これなら、昨日より少しは人に見せられる。
少なくとも、未来の記憶を汚い字で並べただけのページよりはましだ。
白石はノートの端を指で押さえながら、静かに言った。
「これなら、お父さんも少し聞きやすいと思う」
「じゃあ、清書するか」
「うん。あ、でも宿題も」
「分かってる。宿題もやる」
「なら、大丈夫」
白石はそこで、少しだけ得意そうな顔をした。
さっきまで先生みたいと言われて照れていたのに、今度はちゃんとこちらを見てくる。
こういうところが、最近少し強くなったと思う。
本人に言うと照れそうなので、言わないが。
俺は赤ペンで余白に書き込んだ。
父さんに見せる前に、危ないところから書く。
資料があるものと、予想が混ざっているものを分ける。
ゲーム会社は、後ろのページに回す。
書いている途中で、小野が向こうの席から小さく声をかけてきた。
「澪、やっぱり先生っぽい」
「小野さん」
「はいはい、宿題します」
白石が困った顔で俺を見る。
俺は笑いをこらえながら、ノートにもう一つ赤い丸をつけた。
清書のページが増えた。
夏休みの宿題も残っている。
父さんに見せる前に、もう一回くらい白石チェックも入りそうだ。
俺は赤ペンを置き、少しだけ息を吐いた。
中学生に戻ってまで、レビュー対応をすることになるとは思わなかった。
「面白かった」「続きが読みたい!」と思っていただけましたら、ぜひブックマーク・評価・感想などで応援していただけると嬉しいです。
▼登場人物まとめ
https://syosetu.com/userblogmanage/view/blogkey/3652582/




