第五話「原因はくだらない。傷はくだらなくない」
紙の下に書かれていた名前は、森下直人だった。
前の席の男子。
サッカー部で、声が大きくて、悪気なく人をいじるタイプ。
今日だけでも何度か話している。
その名前を見た瞬間、俺の中で嫌な予感が形になった。
(嘘告白か)
中学生の悪ふざけとしては、ありふれている。
好きでもない相手を呼び出す。
告白っぽい空気を作る。
相手が真に受けたところで、周囲が笑う。
最低だ。
最低なのに、当事者たちはたぶんこう言う。
冗談だった。
そんなつもりじゃなかった。
みんなやっていた。
空気でそうなった。
大人になってからも、似た言い訳は山ほど聞いた。
言葉だけ少しきれいになるだけで、中身は変わらない。
白石は紙を見つめたまま、しばらく動かなかった。
それから、ゆっくりと紙を折り直す。
鞄にしまうのではなく、手の中に握った。
行くつもりなのか。
胸の奥がざわついた。
今すぐ声をかけることはできる。
それは罠だ。
行かないほうがいい。
そう言えば、少なくとも今日の体育館裏は回避できるかもしれない。
だが、それで終わるだろうか。
紙は捨てられる。
榊原たちは「何のこと?」で逃げる。
森下は「知らねえ」と言うかもしれない。
白石は、自分が変に疑われたせいで余計に目立つ。
そして、別の形でまた仕掛けられる。
俺は歯を噛んだ。
大人の知恵なんて言うと聞こえはいい。
だが実際は、すぐ助けたい衝動を押し殺して、相手の逃げ道を先に潰すということでもある。
それは、思っていたよりずっと気分が悪かった。
「悠真、帰んねえの?」
田端が鞄を肩にかけて声をかけてきた。
俺は教室の後ろをちらりと見る。
榊原のグループは、まだ教室に残っていた。
そのうち二人がガラケーを手にしている。
メールでも打っているように見えるが、視線は白石のほうへ向いていた。
「田端、ちょっと付き合ってくれ」
「どこに?」
「体育館のほう」
「部活? お前、今日どうしたんだよ。人生に続いて運動に目覚めたの?」
「目覚めてない。ちょっと確認したいことがある」
「何を」
「説明すると長い」
「じゃあ嫌だ」
即答だった。
俺は田端の肩を軽くつかむ。
「購買でジュース一本」
「行こう」
安い。
だが助かる。
田端を巻き込むことに迷いはあった。
ただ、完全に一人で動くのは危ない。
俺だけが見た、俺だけが聞いた、では弱い。
第三者の目がいる。
田端には悪いが、目撃者になってもらう。
もちろん、危ない位置には置かない。
白石は教室を出た。
少し遅れて、榊原たちも動き出す。
わざとらしく別方向へ行くふりをしながら、廊下の角で曲がる。
分かりやすい。
いや、当時の俺なら気づかなかったかもしれない。
今の俺だから見えるだけだ。
廊下を歩きながら、俺は自分のガラケーを開いた。
機能一覧を探る。
カメラ。
メール。
赤外線。
ボイスメモ。
あった。
録音時間は長くない。
音質も良くないだろう。
だが、ないよりはましだ。
録音開始。
画面を閉じ、ポケットに入れる。
「何してんの?」
田端がのぞき込もうとした。
「虫の声を録ろうと思って」
「今?」
「風流だろ」
「お前、今日ずっと怖いんだけど」
田端は本気で引いた顔をしていた。
悪い。
だが、今はこれでいい。
体育館裏は、校舎から少し離れた場所にある。
体育館とフェンスの間に細い通路があり、部活の道具置き場と古い倉庫が並んでいる。
放課後は人通りが少ない。
呼び出し場所としては、あまりにも分かりやすかった。
俺と田端は、少し手前の曲がり角で足を止めた。
「なあ、ほんと何?」
田端が声を潜める。
「静かに。ちょっとだけ見ててくれ」
「誰を」
「白石」
「は?」
「変な意味じゃない」
「変な意味じゃないやつは、先にそれ言わないんだよ」
田端の言うことは正しい。
だが、俺は今説明できるだけの言葉を持っていなかった。
白石が来た。
手には鞄。
顔は硬い。
周囲を見回してから、体育館裏の通路に入っていく。
彼女は、たぶん半信半疑なのだろう。
森下に呼び出された理由が分からない。
でも、もし本当に何か用があるなら無視できない。
そういう真面目さが、足をここまで運ばせたのだと思う。
少し遅れて、森下が現れた。
いつもの声の大きさはない。
むしろ、落ち着かない様子で後頭部をかいている。
罰ゲームをやらされている人間の顔だった。
そのさらに奥。
倉庫の影に、榊原たちがいた。
女子が三人。
そのうち一人はガラケーを構えている。
もう一人は口元を押さえて笑っていた。
森下だけではない。
やはり、仕組まれている。
田端も気づいたらしく、横で息を呑んだ。
「おい、あれ」
「静かに」
「いや、でも」
「まだ」
まだだ。
そう言いながら、俺は自分の声が嫌になる。
まだ、とは何だ。
白石が傷つくまで待つのか。
証拠のために。
逃げ道を塞ぐために。
胸の奥で、三十二歳の俺と十四歳の身体が噛み合わない。
今すぐ飛び出したい。
けれど、今飛び出せば「何も起きていない」で終わる。
ここで終わらせるには、相手が何をしようとしていたのかを、白石本人以外の目にも見える形にしなければならない。
森下が白石の前に立った。
「あのさ」
声が小さい。
白石は両手で鞄の肩紐を握っている。
「うん」
「紙、見た?」
「……見た」
「そっか」
沈黙。
森下の視線が、ちらりと倉庫のほうへ動く。
白石はそれに気づいていない。
榊原のグループが、声を殺して笑っている。
ガラケーのレンズが、白石のほうを向いていた。
写メ。
その言葉が頭に浮かぶ。
写真を撮る。
メールで回す。
前略プロフィールや学校裏サイトに匂わせを書く。
今の中学生にとって、世界は教室だけではない。
ガラケーの小さな画面の中にも、逃げ場のない教室がある。
「で、用って……」
白石が小さく言った。
森下は唇を曲げる。
困っている。
だが、やめる勇気はない。
周囲に押されて、空気に押されて、引き返せないままここに立っている。
それでも、やっていることは加害だ。
「いや、その」
森下が言葉を詰まらせる。
倉庫の影から、女子の小さな声が飛んだ。
「言いなよ」
笑いを含んだ声。
白石の肩が震えた。
そこで彼女も気づいたのだと思う。
一対一ではない。
自分は呼び出されたのではなく、見せ物にされている。
顔から血の気が引いていくのが、離れた場所からでも分かった。
森下がようやく口を開く。
「俺さ、白石のこと――」
榊原たちの笑い声が漏れた。
もう駄目だった。
白石は真面目に聞こうとしていた。
意味が分からなくても、相手の言葉をちゃんと受け止めようとしていた。
だからこそ、その笑い声が刺さる。
大人目線で見れば、原因はくだらない。
嘘の呼び出し。
嘘の告白。
隠れて構えたガラケー。
笑いをこらえきれない女子たち。
くだらない。
本当にくだらない。
けれど、受けた傷はくだらなくない。
白石の目が揺れた。
泣く寸前ではない。
怒る寸前でもない。
ただ、表情を消そうとしている。
それが一番きつかった。
自分が傷ついたことすら、周りに見せないようにする顔。
もう十分だ。
俺はポケットの中のガラケーを握った。
録音は続いている。
田端も見ている。
倉庫の影にいる女子たちも確認した。
最低限、逃げ道を塞ぐ材料はある。
「田端」
「な、何」
「ここで見てたって、あとで言えるか」
「え」
「無理ならいい」
田端は一瞬だけ迷った。
それから、唇を結ぶ。
「……言える。今のは、さすがにない」
それで十分だった。
俺は曲がり角から出た。
砂利を踏む音が、体育館裏に響く。
森下が振り向く。
白石もこちらを見る。
倉庫の影で、ガラケーを構えていた女子が慌てて手を下げた。
俺は、できるだけ何でもない顔を作って歩いた。
怒鳴らない。
責めない。
ここで感情を爆発させれば、相手は被害者の顔をする。
白石も余計に注目される。
だから、ただ通りかかったように。
偶然、そこに来ただけのように。
俺は森下と白石の間に割って入る手前で、軽く片手を上げた。
「悪い。そこ、俺も通っていいか?」




