第四話「未来で消えた女子」
白石澪。
たしか、この名前は――
喉の奥に小さな棘が刺さったような感覚があった。
思い出せそうで、思い出せない。
いや、正確には、思い出したくない記憶に手が触れかけている。
「おーい、悠真?」
田端が俺の顔の前で手を振った。
「白石がどうかしたのかって」
「……いや」
「いやって顔じゃないけど」
「ちょっと、名前に聞き覚えがあって」
「同じクラスなんだから、そりゃあるだろ」
もっともなことを言われた。
俺は曖昧に笑ってごまかす。
白石は教室の端で、机の中を整えていた。
姿勢は小さい。
けれど、動作は丁寧だった。
プリントの端を揃え、ノートを重ね、筆箱を机の右上に置く。几帳面な性格なのだろう。
ただ、周囲から浮いている。
目に見えて無視されている、というほどではない。
誰かが大声で悪口を言っているわけでもない。
机に落書きがあるわけでも、物が隠されているわけでもない。
けれど、そこだけ空気が薄い。
白石の周囲には、誰も座りに来ない。
近くを通る女子は、必要以上に彼女の机から距離を取る。
話しかけるべき場面でも、目線だけを外す。
三十二歳の目で見れば、分かる。
これは偶然ではない。
誰かが明確に指示しているわけではなくても、クラスの空気が「そうしろ」と命令している。
(ああ、嫌な感じだ)
俺はその空気に、覚えがあった。
学校だけではない。
会社にもある。
誰かが少しずつ輪から外されていくときの、あのぬるい沈黙。
直接的な暴力ではないから、周囲は自分を加害者だと思わない。
ただ少し距離を取る。
ただ少し笑う。
ただ少し助けない。
その「少し」が積み重なると、人は簡単に逃げ場を失う。
「白石、最近ちょっと浮いてるよな」
田端が小声で言った。
俺は顔を向ける。
「最近?」
「うん。なんか、女子のほうで色々あるっぽい」
「色々って?」
「知らね。俺、女子のそういうの分かんねえし」
田端は肩をすくめた。
悪意はない。
本当に知らないだけだ。
中学生男子なんて、そんなものだろう。
自分の近くで誰かが傷ついていても、女子同士のこと、よく分からないこと、面倒なこと、と分類してしまえば見なくて済む。
昔の俺も、たぶんそうだった。
そこで、記憶がひとつ引っかかった。
白石澪。
二年の途中で、学校に来なくなった女子。
たしか、夏休みに入る少し前だった。
最初は風邪だとか、家の事情だとか、そんな噂が流れていた。
そのうち不登校という言葉が出た。
二学期の始業式には、もう彼女の席が空いたままだった。
そして、いつの間にか転校した。
担任が朝の会で淡々と報告した記憶がある。
白石さんは家庭の事情で転校しました。
それだけ。
クラスの何人かが「ふーん」と言い、数日後には誰も話題にしなくなった。
俺もそうだった。
理由を知らなかった。
知ろうともしなかった。
ただ、そういうこともあるのだと思って、流した。
胸の奥が、じわりと重くなる。
(俺、見てたんじゃないのか)
知らなかったのではない。
見ないようにしていただけではないのか。
教室の後ろで、女子たちの笑い声が上がった。
榊原莉奈のグループだ。
明るい笑い声。
聞きようによっては、ただ楽しそうなだけに聞こえる。
だが、視線の向きが白石に寄っている。
榊原が何かを言う。
周囲の女子が口元を押さえて笑う。
そのうち一人が、ちらりと白石を見る。
白石は気づいているはずだった。
気づいているのに、何も言わない。
机の中を整理する手だけが、少しだけ遅くなった。
「なあ、田端」
「ん?」
「榊原って、白石と仲悪かったっけ」
「さあ。女子の仲いい悪いって、昨日と今日で変わんじゃん」
「まあな」
「でも、榊原はクラスで強いよな」
「強い?」
「なんつーか、あいつが笑うと周りも笑うじゃん。あいつが変な顔すると、みんなも変な空気になる」
田端は何気なく言ったのだろう。
だが、それはかなり的確だった。
榊原は腕力があるわけではない。
成績で圧倒しているわけでもない。
ただ、空気を握っている。
中学の教室では、それが一番強い。
「佐伯ー、次移動だぞ」
森下が前の席から声をかけてきた。
「移動?」
「理科室。お前、今日ほんと大丈夫か?」
「大丈夫。人生二周目みたいな気分なだけ」
「意味分かんねえ」
森下は笑いながら立ち上がった。
田端も席を立つ。
「ほら行くぞ。置いてくぞ」
「分かった」
俺は教科書を持って立ち上がる。
そのとき、白石も席を立った。
理科の教科書を胸元に抱えている。
榊原のグループの横を通る瞬間、誰かが小さく咳払いをした。
わざとらしい咳だった。
続いて、女子の一人が言う。
「あ、ごめん。通ると思わなくて」
白石の足が止まる。
通路は空いている。
邪魔などしていない。
それでも白石は、小さく頭を下げた。
「ごめん」
「ううん、別に」
榊原が笑う。
やわらかい声だった。
けれど、その目は笑っていなかった。
周りの女子がまた笑った。
大人目線で見れば、くだらない。
本当に、どうしようもなくくだらない。
通路を通る。
咳払いをする。
軽く謝らせる。
それだけ。
けれど、十四歳の教室では、そういう小さなことが刃物になる。
白石は何も言わずに教室を出た。
俺はその背中を見ながら、胸の中の重さが少しずつ形を持っていくのを感じていた。
これは、始まっている。
まだ派手な事件にはなっていない。
誰かに言えば「気にしすぎ」と返される程度のことかもしれない。
でも、未来で白石が学校から消えるなら。
その原因は、たぶん今この教室にある。
理科の授業は、ほとんど頭に入らなかった。
教師が黒板に実験の手順を書き、班ごとに器具を配る。
田端が隣で「これ何だっけ」と小声で聞いてくる。
森下が薬品名を読み間違えて、班の男子が笑う。
その間も、俺の視線は何度も白石へ向いた。
白石は真面目にノートを取っている。
教師の説明を聞き、実験の結果を丁寧に書く。
班の女子に話しかけられれば、小さく返事もする。
表面上は、何も問題がない。
だから厄介だった。
白石本人が「大丈夫」と言えば、それで終わってしまう。
周囲も「別にいじめじゃない」と言える。
教師も「様子を見ましょう」で済ませられる。
そうやって、少しずつ逃げ場がなくなっていく。
◇ ◇ ◇
昼休み。
教室に戻ると、クラスの空気は一気に緩んだ。
机を寄せて弁当を食べるグループ。
購買へ走る男子。
廊下で他クラスの友人を呼ぶ女子。
俺は鞄から弁当を出す。
母が持たせてくれたものだった。
包みを開けると、卵焼きと唐揚げが入っている。
朝食に続いて、昼も手作り。
三十二歳の俺なら、それだけで泣ける。
「悠真、こっちで食おうぜ」
田端が机を寄せてきた。
森下も弁当を持って寄ってくる。
「今日の唐揚げうまそうじゃん。一個くれ」
「嫌だ」
「即答かよ」
「数十年ぶりの母さんの唐揚げなんだ」
「何言ってんだお前」
森下が怪訝な顔をする。
田端はもう慣れてきたのか、笑って流した。
俺は唐揚げを守りながら、教室の端を見る。
白石は一人で弁当を食べていた。
机は寄せていない。
誰かを待っている様子もない。
弁当箱を小さく開き、背中を丸めて、静かに箸を動かしている。
近くに女子のグループがある。
けれど、その輪に白石の席は入っていない。
かといって、完全に遠ざけられているようにも見えない。
絶妙な距離。
入ろうと思えば入れるように見える。
だが実際に入ろうとすれば、空気で拒まれる。
そういう距離だった。
「白石って、いつも一人で食ってたっけ」
俺が聞くと、田端は卵焼きを口に入れたまま首をかしげた。
「最近はそんな感じじゃね?」
「前は?」
「前は……えーと、榊原たちと食ってたこともあった気がする」
「何かあったのか」
「だから知らねえって。女子のあれだろ」
女子のあれ。
便利な言葉だ。
分からないことを、分からないままにしておける。
昔の俺も、その言葉で済ませたのかもしれない。
榊原のグループが笑う。
その中の一人が、白石のほうを見て何かを囁いた。
白石の箸が一瞬止まる。
それから、何も聞こえなかったようにまた弁当へ視線を落とした。
胸の奥がざわつく。
助けるべきか。
声をかけるべきか。
だが、今ここで俺が白石に近づけばどうなる。
クラスの男子が、いきなり孤立気味の女子に話しかける。
それだけで、変な噂の種になる。
下手をすれば、白石はもっと目立つ。
もっと標的になる。
大人の俺は、それくらいは分かる。
正義感だけで突っ込むのは、たぶん一番危ない。
(まずは、何が起きてるのか見ないと駄目だ)
俺は唐揚げを噛みながら、榊原たちの動きを観察した。
昼休みが終わり、午後の授業も何とか乗り切った。
英語は思ったより読めた。
発音は壊滅的だったが、文法は昔より理解できる。
社会はかなり楽だった。未来を知っているからというより、大人になってからニュースで何度も見た言葉が多い。
学校生活での無双。
できる。
少なくとも、勉強と空気読みでは、かなり有利だ。
だが、その自信とは別に、白石のことが頭から離れなかった。
放課後。
帰りの会が終わると、教室は一気に騒がしくなった。
部活へ向かう生徒。
友人と寄り道の相談をする生徒。
机に突っ伏してだらける生徒。
俺は鞄をまとめながら、白石の様子を見ていた。
白石は静かに教科書をしまっている。
周囲とは目を合わせない。
早く帰りたいのだろうか。それとも、誰かと鉢合わせたくないのだろうか。
そのとき、榊原のグループの一人が、白石の机の近くを通った。
手には、小さく折られた紙。
ほんの一瞬だった。
女子は周囲を見ながら、白石の机の中へ紙を滑り込ませた。
それから何食わぬ顔で、友人たちのところへ戻る。
俺は動けなかった。
見間違いかもしれない。
ただの連絡メモかもしれない。
そう思おうとした。
けれど、榊原がこちらに背を向けたまま、口元だけで笑ったのが見えた。
白石はまだ気づいていない。
教室のざわめきの中で、俺は自分の心臓の音を聞いていた。
(あれだ)
未来で学校から消えた女子。
その始まりが、今、目の前にある。
白石が席を立つ。
鞄を肩にかける。
その前に、机の中へ手を入れた。
折られた紙を見つける。
白石の指が、わずかに止まった。
俺は少し離れた位置から、その紙の端だけを見た。
開かれた紙。
丸い文字。
短い文。
そこには、こう書かれていた。
「放課後、体育館裏に来て」
そしてその下には、男子の名前が添えられていた。




