第三話「まずは学園生活で無双してみる」
校門をくぐった瞬間、妙な圧が胸に落ちてきた。
懐かしい。
懐かしいのに、逃げ出したい。
校舎は記憶より少し小さかった。
いや、違う。俺が大人になってから見ていた世界が大きかっただけだ。
三十二歳の感覚で見れば古びた公立中学の校舎でも、十四歳の身体で見上げると、それなりに威圧感がある。
昇降口には、同じ制服の生徒たちが吸い込まれていく。
靴箱の前で騒ぐ男子。
鏡のない窓ガラスで前髪を直す女子。
廊下の奥から聞こえる笑い声。
まだスマホを持っている生徒はほとんどいない。手にしているのはガラケーか、部活のバッグか、購買で買ったらしい紙パックのジュースだった。
(本当に戻ってきたんだな)
何度確認しても、現実感は薄れない。
むしろ、学校に近づくほど濃くなっていく。
下駄箱の場所は、身体が覚えていた。
二年三組。
佐伯悠真。
そこに、俺の名前が貼られている。
靴を履き替えたところで、背中を軽く叩かれた。
「おっす、悠真」
振り向くと、丸い目をした男子が立っていた。
田端和也。
中学時代の友人、だったはずだ。
親友というほどではない。けれど、休み時間にくだらない話をしたり、ゲームを貸し借りしたり、テスト前だけ一緒に焦ったりした相手だ。
大人になってからは、ほとんど連絡を取っていない。
同窓会で一度だけ顔を合わせた気もするが、何を話したかは覚えていなかった。
「お、おう」
「何その反応。寝ぼけてんの?」
「まあ、ちょっと」
「また夜更かし? 昨日モンハンやってた?」
モンハン。
懐かしすぎる単語に、危うく笑いそうになった。
「いや、昨日はやってない」
「マジで? 珍し。じゃあ何してたんだよ」
残業してコンビニ弁当を食べて寝落ちしていた、とは言えない。
「……人生について考えてた」
「朝から重っ」
田端が引いた顔をする。
俺は思わず笑った。
この反応。
この距離感。
中学生らしい雑さ。
何もかもが、ひどく懐かしい。
「まあいいや。早く行こうぜ。高村、朝から小テストやるって言ってたし」
「小テスト?」
「え、忘れたの? 漢字だよ漢字。昨日範囲言ってただろ」
知らない。
いや、知らないというより、覚えているはずがない。
三十二歳の俺にとって、昨日は会社帰りに唐揚げ弁当を食べた夜だった。漢字の小テスト範囲など、宇宙の果てより遠い。
(いきなり詰んだか?)
そう思いかけて、すぐに考え直す。
漢字。
中学二年の漢字。
さすがに全部満点とは言わない。
だが、三十二歳まで日本語で仕事をしてきた男である。
企画書もメールも謝罪文も、嫌というほど書いてきた。
中学範囲の漢字なら、まあ、何とかなるのではないか。
「大丈夫だろ、たぶん」
「出た。勉強できるやつの余裕」
「いや、俺そんなキャラだったか?」
「普通よりはできるじゃん。むかつく程度に」
田端はけらけら笑いながら階段を上がっていく。
俺もその後に続いた。
二年三組の教室は、二階の廊下の真ん中あたりにあった。
扉の前で、一瞬だけ足が止まる。
ここに入れば、俺は完全に中学生の生活へ戻る。
未来の知識があるとか、人生をやり直せるとか、そんな大げさな言葉はひとまず横に置いて、目の前のクラスメイトたちと同じ空気を吸うことになる。
覚悟を決めて、教室に入った。
ざわめき。
椅子を引く音。
誰かの笑い声。
黒板に書かれた日直の名前。
全部が、記憶の底から浮かび上がってくる。
俺の席は窓際から二列目、後ろから三番目。
微妙にいい席だった。
授業中に外を見すぎるとバレるが、教師の視線からは少し外れる。中学生の頃の俺は、この席を気に入っていた気がする。
席に鞄を置くと、周囲の顔が目に入った。
前の席の男子。
名前は、たしか森下直人。
サッカー部で、声が大きく、悪気なく人をいじるタイプ。
廊下側の後方には、女子の集団。
中心にいるのは榊原莉奈だった。
明るい茶色がかった髪を、校則に引っかからないぎりぎりのところで整えている。笑い方も、姿勢も、周りを見る目も、中学生にしては妙にうまい。
いや、中学生だからこそうまいのかもしれない。
大人になってから見れば、クラス内の序列なんて小さな世界の話だ。
だが、その小さな世界にいる当人たちにとっては、ほとんど世界そのものだった。
誰が中心か。
誰の冗談なら笑っていいか。
誰をいじっても許されるか。
誰の発言には空気がついてくるか。
三十二歳の目で見ると、その流れが気持ち悪いくらい見えた。
(うわ、職場と変わらないな)
年齢が違うだけで、やっていることはあまり変わらない。
派閥。
空気。
根回し。
責任の押しつけ。
中学生の教室にも、社会の縮図みたいなものはちゃんとある。
「佐伯、何突っ立ってんだよ」
森下が振り向いた。
「いや、ちょっと懐かしくて」
「は? 昨日も来てただろ」
「そうだった」
「お前、今日マジで変だぞ」
もっともな指摘だった。
俺は席に座り、机の中を確認する。
教科書。
ノート。
雑に突っ込まれたプリント。
よく分からない折れた鉛筆。
整理されていない。
中学生の俺、思ったよりだらしない。
そこへ、チャイムが鳴った。
教室のざわめきが少しだけ落ちる。
前の扉から入ってきたのは、若い女性教師だった。
高村由香。
担任だ。
当時は「若くて少し頼りない先生」という印象だったが、今見ると本当に若い。二十代半ばくらいだろうか。社会人として見れば、まだ新人に毛が生えたような年齢だ。
「はい、朝の会始めます。日直、号令」
日直の声に合わせて、全員がだらっと立つ。
「起立」
「礼」
「おはようございます」
声が揃っているようで、揃っていない。
懐かしい気だるさだった。
朝の会は淡々と進んだ。
提出物の確認。
今日の予定。
部活の連絡。
そして最後に、高村先生がプリントの束を持ち上げた。
「じゃあ、予告していた通り、漢字の小テストをします。机の上は筆記用具だけにして」
教室のあちこちから、低いうめき声が上がる。
「やべ、全然見てねえ」
田端が後ろから小声で言った。
「俺もだ」
「お前がそれ言うと腹立つんだけど」
「本当に見てない」
「はいはい」
田端は信じていない顔をした。
プリントが回ってくる。
俺は名前を書き、問題を見た。
読み。
書き取り。
熟語。
拍子抜けした。難しくない。
いや、十四歳の俺にとっては、それなりに勉強しておかないと厳しかったのかもしれない。だが三十二歳の俺からすると、ほとんど日常で使う漢字ばかりだった。
社会人になってからというもの、俺は毎日のようにメールを書いてきた。
上司に角が立たない表現。
取引先に失礼のない言い回し。
謝罪なのに非を認めすぎない文章。
そういう面倒な日本語と比べれば、中学の漢字テストはかなり優しい。
俺は迷わず解いていった。
十分もかからなかった。
見直しを終えて顔を上げると、周囲の生徒たちはまだ必死に鉛筆を動かしている。
田端は頭を抱えていた。
森下は明らかに隣の答案を覗こうとして、高村先生に睨まれている。
(なるほど)
これは、たしかに有利だ。
未来の株価や宝くじ番号は分からない。
だが、三十二歳まで生きた経験そのものは、消えていない。
たとえば漢字。
たとえば文章。
たとえば人前で焦らないこと。
派手なチートではない。
けれど、積み重なればかなり強い。
「そこまで。後ろから集めて」
答案が回収される。
高村先生はざっと枚数を確認し、その場で何枚か目を通した。
そして俺の答案で手を止める。
「佐伯くん、早かったわね」
「たまたまです」
「たまたまで全部埋まるなら、なかなかいいことです」
先生が少しだけ笑った。
クラスの何人かがこちらを見る。
目立った。
まずい、と思うほどではない。
だが、少し空気が動いたのは分かった。
「佐伯、余裕ぶってんじゃん」
森下が前から振り向いて言う。
「余裕はない。朝から状況についていくので精いっぱいだ」
「何の状況だよ」
「人生」
「だから重いって」
田端が後ろで吹き出した。
数人がつられて笑う。
悪くない。
少なくとも、変に黙り込んで不審がられるよりはいい。
三十二歳の俺は、中学生のノリに完全には戻れない。なら、少し変なやつとして受け流されるくらいがちょうどいい。
小テストの後は、通常の国語の授業が始まった。
教科書を開く。
題材は説明文。
筆者の主張を読み取り、段落ごとの役割を考える、という内容だ。
これも、分かる。
分かるというより、大人になってから嫌というほどやってきた。
会議資料。
企画書。
報告書。
相手の言いたいことを読み取り、何が根拠で、どこが結論なのかを整理する。
授業中、高村先生が問いかけた。
「では、この段落で筆者が一番言いたいことは何だと思いますか」
教室が沈黙する。
誰も手を挙げない。
中学生の頃の俺も、こういうときは絶対に手を挙げなかった。
間違えるのが恥ずかしい。
目立つのが嫌だ。
正解しても、少し浮く。
その気持ちは分かる。
だが三十二歳の俺は知っている。
大人になると、会議で誰も発言しない時間のほうがよほど地獄だ。
沈黙を破る人間は、それだけで少しだけ価値がある。
俺は手を挙げた。
「佐伯くん」
「筆者は、便利さそのものを否定しているんじゃなくて、便利になることで考えなくなる危険を言いたいんだと思います。前の段落の例は、そのための前振りで」
言い終えてから、少しやりすぎたかもしれないと思った。
中学生の答えとしては、文章が整いすぎている。
高村先生は一瞬きょとんとしてから、ぱっと表情を明るくした。
「そうですね。かなりよく読めています。今の佐伯くんの意見を踏まえて、もう一度本文を見てみましょう」
教室がざわつく。
田端が後ろから小声で言った。
「お前、今日どうしたの」
「寝起きがいい」
「絶対うそだろ」
俺は苦笑しながら、教科書へ目を戻した。
手応えはあった。
少なくとも、勉強面ではかなり有利に立てる。
ただし、万能ではない。
二時間目の数学で、それはすぐに分かった。
一次関数。
黒板に書かれた式を見た瞬間、俺の脳内にうっすら霧がかかった。
(あれ、これどうやるんだっけ)
漢字や読解と違って、数学は使っていない期間が長い。
社会人になってから表計算ソフトには触っていたが、中学数学の解き方そのものはかなり抜け落ちている。
問題を見れば、何となく思い出せる。
傾き。
切片。
座標。
単語は分かる。
けれど、手が即座には動かない。
(これは復習がいるな)
俺はノートに丁寧に式を書き写した。
無双、という言葉は便利だ。
だが現実は、そこまで雑ではないらしい。
国語は強い。
社会もたぶんいける。
英語は当時よりは読めるはずだ。
数学と理科は、復習しないと危ない。
それでも、十四歳の俺よりはずっと冷静に戦える。
何が分かっていて、何が分からないのか。
それを把握できるだけで、かなり違う。
二時間目が終わる頃には、俺の中に変な自信が生まれていた。
金儲けはすぐには無理。
だが学校生活なら、やり方次第でかなり変えられる。
休み時間になり、教室の空気が一気に緩む。
男子は部活やゲームの話を始め、女子はグループごとに机を寄せる。
俺はノートを閉じながら、何となく教室を見渡した。
大人の目で見るクラスは、思っていたより情報が多い。
誰が誰の顔色を見ているか。
誰の言葉に周囲が笑うか。
誰が話題の中心にいるか。
誰が輪の外にいるか。
榊原莉奈の周囲には、自然と女子が集まっていた。
彼女は明るく笑いながら、机に肘をついている。
その横で、別の女子が何かを言い、周囲が笑う。
その笑い方に、少しだけ引っかかりを覚えた。
楽しいから笑っているというより、笑うべきだから笑っている。
そんな空気。
視線の先を追う。
教室の端。
窓際の前のほう。
一人の女子が、机の中を整理していた。
黒髪のセミロング。
派手さはないが、横顔は整っている。
背筋を小さく丸め、周囲の会話に入らないようにしている。
机の横にかかった名札が、ちらりと見えた。
白石澪。
その名前を見た瞬間、胸の奥に、妙な引っかかりが生まれた。
知っている。
この名前を、俺は知っている。
ただのクラスメイトとしてではない。
もっと嫌な形で、記憶のどこかに沈んでいる。
「白石澪……」
小さく呟く。
田端が後ろから顔を出した。
「ん? 白石がどうかした?」
俺は返事をしようとして、言葉に詰まった。
白石澪。
たしか、この名前は――




