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三十代社畜の俺、中二に戻って人生無双を始める 〜なお宝くじの番号は覚えていない〜  作者: らいお


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第二話「宝くじの番号なんて覚えていない」

 二〇一〇年六月十四日、月曜日。

 その日付を確認した瞬間、俺の中にあった眠気は完全に吹き飛んだ。


 いや、眠気だけではない。

 昨日まで抱えていた仕事の疲れも、明日の会議の憂鬱も、返信していない会社チャットのことも、何もかもが一瞬だけ遠くなった。


 俺は中学二年に戻っている。

 三十二歳までの記憶を持ったまま。

 冷静に考えれば、正気を疑うべき状況だった。

 病院。

 脳。

 夢。

 幻覚。

 そういう単語を並べるのが、たぶん大人として正しい。


 だが鏡に映った十四歳の自分と、若い母の声と、手の中のガラケーが、そんな理屈をまとめて殴ってくる。

 これは、現実だ。

 少なくとも、俺の五感はそう判断している。


「悠真ー? 本当に大丈夫? ご飯食べられる?」


 階下から母の声がした。

 俺は反射的に返事をする。


「食べる! 今行く!」


 声が若い。

 何度聞いても若い。

 自分の返事に自分でびくっとするのは、かなり気持ち悪い体験だった。


 クローゼットを開けると、学校指定の制服が吊るされていた。

 白いシャツ。

 黒いズボン。

 紺色のネクタイ。


 懐かしい。

 そして、微妙にださい。

 いや、当時はださいなんて思っていなかった気がする。

 制服とはそういうものだと受け入れていた。

 三十二歳の目で見るから、急に布地の安っぽさやシルエットの野暮ったさが気になってしまう。


 俺は制服に袖を通しながら、頭の中で必死に状況を整理した。

 中学二年。

 二〇一〇年。

 六月。


 ここから先の未来を、俺は知っている。

 知っている、はずだった。


 階段を下りると、食卓には焼き鮭と味噌汁と白飯が並んでいた。

 朝からちゃんとした飯がある。

 それだけで、俺は少し泣きそうになった。

 三十二歳の一人暮らし男にとって、朝食とは、食べるものではなく諦めるものだった。


「何ぼうっとしてるの。座りなさい」

「あ、うん」


 椅子に座る。

 食卓の向こうには父がいた。

 新聞を広げている。まだ髪が黒い。腹も出ていない。

 記憶の中より、かなり若い。


「おはよう」

「……おはよう」


 父、佐伯健一(さえきけんいち)は新聞から目を上げ、俺をちらりと見た。


「顔色悪いな。寝不足か?」

「ちょっと変な夢見て」

「ゲームやりすぎじゃないの」


 母がすかさず言う。

 俺は曖昧に笑って味噌汁をすすった。


 うまい。

 いや、普通の味噌汁だ。

 ただの豆腐とわかめの味噌汁。

 それなのに、胃に染みる。

 会社帰りに買った冷えた弁当とは違う。誰かが自分のために作った朝飯というものは、こんなに強かったのか。


 少しだけ、胸が詰まった。

 だが、感傷に浸っている場合ではない。


 俺には考えるべきことがある。

 未来の記憶。これだ。

 もし本当に過去へ戻ったのなら、俺は他の中学生とは決定的に違う武器を持っている。


 この先、何が流行るか。

 どんな会社が伸びるか。

 どんな技術が世界を変えるか。

 大きな災害や事件が、いつ起きるか。


 全部ではない。

 むしろ曖昧なことだらけだ。


 それでも、普通の中学生よりは圧倒的に知っている。

 つまり。


(これ、人生無双できるんじゃないか?)


 味噌汁の椀を持つ手に、変な力が入った。

 落ち着け。

 まずは金だ。


 人生をやり直すなら、金は大事だ。

 綺麗事ではない。

 三十二歳まで生きた男は知っている。金で幸福は買えないかもしれないが、不幸のかなりの部分は金で避けられる。


 中学生の俺がまず考えたのは、宝くじだった。

 過去に戻った主人公といえば、宝くじ。

 ロト。

 数字選択式のくじ。

 競馬。

 競輪。

 株。

 未来を知っているなら、当てればいい。

 俺は白飯を噛みながら、必死に記憶を掘った。


(宝くじ……宝くじ……一等……番号……)


 何も出てこない。

 当然だった。

 俺は宝くじを買う習慣がなかった。

 年末ジャンボを職場の付き合いで数枚買ったことはある。だが、当選番号なんて覚えているわけがない。


 そもそも、現代にいた頃の俺は、自分が外した番号すら確認していなかった。

 財布に入れっぱなしにして、気づいたら交換期限が切れているタイプの人間だ。


(終わった)


 開始五分で、一攫千金ルートが潰れた。


 いや、待て。

 宝くじが駄目なら競馬だ。

 そう思って、俺はまた記憶を掘る。

 有名なレース。

 名馬。

 万馬券。

 大穴。


 ……何も分からない。

 競馬をやってこなかったからだ。


 会社の先輩が有馬記念で負けていた記憶はある。

 同期が「今年は荒れる」と言っていた記憶もある。

 だが、それが何年のどの馬だったかは一切分からない。


 というか、当時の俺は競馬新聞の読み方すら知らない。


(駄目だ。競馬も無理)


 では株はどうだ。

 株なら、いくつか分かる。

 未来で伸びる会社くらいなら、俺でも知っている。


 スマホ関係。

 ネット通販。

 動画配信。

 半導体。

 人工知能。

 その中でも、ひときわ強く覚えている名前があった。


 NVIDIA。

 あれは買っておけばよかった。

 本当に、買っておけばよかった。


 三十二歳の俺は、何度もそう思ったことがある。

 人工知能ブームで株価がとんでもないことになり、ニュースでもネットでも「昔から持っていた人は大金持ち」みたいな話が流れていた。


 ただし、問題がある。

 今の俺は中学生だ。


 証券口座がない。

 本人確認も無理。

 米国株の買い方も、当時の日本でどれだけ簡単だったのか分からない。

 何より、投資資金がない。

 俺の財布の中身は、たぶん数千円。

 机の引き出しに貯金箱があったとしても、数万円あれば奇跡だ。


 それで世界を変える企業の株を買う?

 無理がある。

 父に頼むという手もある。

 だが、朝から中学二年の息子が真顔で「父さん、米国の半導体企業に投資してくれ。十年以上持てば爆益だから」と言い出したらどうなるか。


 病院に連れていかれる。

 もしくは、ゲーム没収だ。

 俺は味噌汁をもう一口すすり、内心で頭を抱えた。


(じゃあ、ビットコインは?)


 そこでようやく、その単語にたどり着いた。

 ビットコイン。

 未来で、馬鹿みたいに値上がりした暗号資産。

 二〇一〇年なら、まだほとんど誰も知らないはずだ。

 初期なら、少額どころか、ほとんど無料に近い形で手に入ったという話を見たことがある。


 ピザ二枚に一万ビットコイン。

 そんな有名な話もあった。

 たしか、二〇一〇年だった。


 ……いや、待て。


 今は六月十四日。

 ピザの話は、たしか五月だった気がする。

 もう終わっている。


(いや、ピザを買いたいわけじゃないから別にいいんだけど)


 問題はそこではない。

 どうやって手に入れるかだ。

 俺はビットコインが上がることは知っている。

 だが、買い方を知らない。


 ウォレット。

 秘密鍵。

 マイニング。

 取引所。


 単語だけは覚えている。

 だが、三十二歳の俺は暗号資産に詳しい人間ではなかった。

 ニュースを見て「買っておけばよかった」と言うだけの、典型的な後出し評論家だった。


 人生をやり直しても、知識の中身まで増えるわけではない。

 その事実が、じわじわと効いてきた。


「悠真」


 父に呼ばれて、俺は顔を上げた。


「箸、止まってるぞ」

「あ、うん。食べる」

「本当に大丈夫か? 今日は休むか?」


 父の声には、わずかに心配が混じっていた。

 胸がちくりとした。

 三十二歳の俺は、父とまともに話す時間がかなり減っていた。

 帰省しても、仕事の話を軽くして、母の料理を食べて、少し寝て帰る。それだけ。


 若い父が、目の前で俺の顔色を心配している。

 それは不思議で、少し痛かった。


「大丈夫。ちょっと寝ぼけてただけ」

「ならいいけどな」


 父はそう言って、また新聞に目を落とした。

 新聞。そうだ。二〇一〇年の新聞だ。


 俺はそっと紙面を盗み見た。

 政治の記事。

 経済の記事。

 テレビ欄。

 どれも懐かしいようで、細部はまるで覚えていない。


 大きな事件や災害なら覚えている。

 だが、今日の株価や明日のニュースまでは分からない。


 未来を知っている。その言葉は、とても強そうに見える。

 だが実際のところ、俺が持っているのは「だいたいこうなる」という雑な地図だけだった。


 宝の場所に丸はついている。

 でも、道順が分からない。

 そもそも、今の俺には靴も金もない。

 母が味噌汁のおかわりをよそいながら言った。


「早く食べないと、本当に遅刻するわよ」

「うん」


 俺は慌てて飯をかき込んだ。

 食べながら、頭の中で計画を並べる。


 宝くじは無理。

 競馬も無理。

 株は長期的にはあり。ただし、今すぐは無理。

 ビットコインは最有力。ただし、調べる必要がある。


 そして最大の問題。

 今の俺は、十四歳の中学生だ。


 銀行口座。

 証券口座。

 本人確認。

 親の許可。

 投資資金。


 未来の知識を金に変えるには、子どもの身体があまりにも邪魔だった。

 俺は味噌汁を飲み干し、箸を置いた。


「ごちそうさま」

「はい。行ってらっしゃい。忘れ物ない?」

「たぶん」

「たぶんじゃなくて確認しなさい」


 母に言われ、俺は慌てて鞄を開けた。

 教科書。

 ノート。

 筆箱。

 体操服。


 すべてが懐かしい。

 というか、重い。


 紙の教科書って、こんなに重かったか。

 三十二歳の身体なら気にも留めない重さだが、中学生の身体にはずしりとくる。


 玄関で靴を履く。

 見慣れた運動靴。

 まだ少し汚れの少ない白い靴。


 ドアを開けると、六月の朝の空気が流れ込んできた。

 夜の会社帰りとは違う。

 湿っているのに、まだ新しい匂いがした。


「行ってきます」

「行ってらっしゃい」


 母の声を背中に受けて、俺は家を出た。


 通学路。

 この道も覚えている。

 角の古い自販機。

 ブロック塀の上に置かれた植木鉢。

 駅へ向かう大人たちとは逆方向に歩く、制服姿の中学生。

 俺はその流れに混ざりながら、深く息を吐いた。


 金儲けは、思ったよりずっと難しい。

 未来を知っていても、宝くじの番号は知らない。

 競馬の結果も知らない。

 株は買えない。

 ビットコインは買い方が分からない。


 いきなり億万長者。

 そんな都合のいい展開は、少なくとも俺には起きそうになかった。

 だが、そこでふと足が止まった。


 金は無理でも。

 今すぐ大金を稼ぐことはできなくても。

 俺には、三十二歳まで生きた記憶がある。

 中学の授業。

 人間関係。

 教師との距離感。

 空気の読み方。

 面倒な相手への対処。

 そういうものなら、今すぐ使えるんじゃないか。


 何しろ、これから向かうのは中学校だ。

 そこにいるのは、十四歳の生徒たち。

 そして俺は、身体こそ十四歳でも、中身は三十二歳の会社員である。

 冷静に考えると、かなり反則ではないだろうか。


 俺は鞄の肩紐を握り直した。

 遠くに、懐かしい校舎の屋上が見える。


 金は後回しだ。

 ビットコインもエヌビディア株も、夜に調べればいい。

 まずは、誰もが一度は妄想するやつを試してみよう。


 過去に戻った自分が、学校生活で無双できるのかどうか。

 俺は小さく笑って、校門へ向かって歩き出した。


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