第一話「三十代社畜、中二の朝に戻る」
人生に、大きな失敗があったわけではない。
ごく普通の家庭で育った。
ごく普通の公立中学に通い、ごく普通の高校へ進み、ごく普通の大学に入った。
就職活動では何社か落ちたが、最終的には名前を言えば「ああ、聞いたことある」と言われるくらいの会社に潜り込めた。
つまり俺、佐伯悠真の人生は、たぶん平均点だった。
平均点。
悪くない響きだ。
学生の頃なら、平均点を少し超えただけで親に褒められることもあった。
だが三十二歳になってから思う平均点は、ただのぬるい泥だった。
月曜日から金曜日まで働く。
たまに土曜日も働く。
定時という言葉はカレンダーの祝日くらい遠く、残業代は出るが、出るから何だという気持ちになる。金があっても、使う体力がなければ、ただ数字が増えるだけだ。
今日もそうだった。
会社を出たのは、日付が変わる少し前。
ビルの自動ドアを抜けた瞬間、六月の夜気がべたつくように肌へまとわりついた。
「……帰るか」
誰に聞かせるでもなく呟いた声は、自分でも笑えるくらい乾いていた。
駅までの道を歩きながら、スマホを見る。
通知は会社のチャットが三件。明日の確認事項が二件。既読をつけたら負けだと思って、画面を伏せた。
昔の俺は、もっと何かあると思っていた。
大人になれば、好きなものを好きなだけ買える。
夜更かししても怒られない。
自分の金で、自分の人生を好きにできる。
実際、その通りではあった。
誰も俺に「早く寝なさい」とは言わない。ゲームだって買える。外食だってできる。週末に一人旅をしようと思えば、たぶんできる。
思えば、できる。
——問題は、思う前に疲れていることだった。
家の最寄り駅に着き、コンビニで半額になっていない弁当を買った。
半額シールを待つ時間すら惜しい。いや、違う。待つ気力がない。
アパートの鍵を開ける。電気をつける。脱いだスーツの上着を椅子に引っかける。
その一つ一つが、やけに遠い作業に感じた。
レンジに弁当を入れ、温まるまでの一分半をぼんやり待つ。
電子音が鳴った。
取り出す。箸を割る。一口食べる。
「……味、しないな」
疲れているだけだ。そう思った。
思いたかった。
弁当を半分ほど食べたところで、急に眠気が襲ってきた。
まぶたが重い。身体の芯から、電源を落とされるような感覚があった。
風呂に入らないと。歯を磨かないと。明日の資料も、少しだけ見ておかないと。
そう考えながら、俺はテーブルに突っ伏した。
最後に見たのは、冷めかけた唐揚げと、黒く消えたスマホの画面だった。
◇ ◇ ◇
「悠真! いつまで寝てるの!」
声が聞こえた。
女の人の声。
妙に若い。いや、聞き覚えがある。
(母さん……?)
寝ぼけた頭でそう思い、次の瞬間、違和感が全身を走った。
母さんが俺を起こす?
三十二歳の男の部屋に?
いや、そもそも俺は一人暮らしだ。
目を開けた。
知らない天井――ではなかった。
むしろ、知りすぎている天井だった。
白い壁紙の隅に、薄く残った黒い擦り跡。小学生の頃、ロフトベッドを移動させようとしてぶつけた跡だ。
顔の横にある枕は、妙に低い。
布団は軽い。
身体が、変に軽い。
「……は?」
声が出た。高かった。
自分の声なのに、自分の声じゃない。
喉の奥から出てきたのは、三十二歳のくたびれた男の声ではなく、まだ変声期の名残を引きずった少年の声だった。
俺は跳ね起きた。
視界に飛び込んできたのは、学習机。
青いデスクマット。
その下に挟まれた時間割表。
壁には、昔好きだったゲームのポスター。棚には漫画。床には学校指定のスポーツバッグ。
全部、覚えている。
ここは俺の実家の子ども部屋だった。
もう何年も前に物置になり、帰省したときには段ボールと古い布団で埋まっていたはずの部屋。
それが、俺の記憶にあるままの姿でそこにあった。
「いやいやいやいや」
口から勝手に声が漏れる。
夢だ。そうに決まっている。
昨日は疲れていた。テーブルで寝落ちした。だから変な夢を見ている。
そう思った瞬間、部屋のドアが開いた。
「ちょっと、本当に遅刻するわよ。何してるの」
入ってきたのは母だった。
ただし、俺の知っている母ではない。
いや、知っている。知っているが、若い。
白髪がない。
目元のしわも薄い。
エプロン姿で、少し怒った顔をしている。その顔は、俺が中学生の頃に毎朝見ていた母そのものだった。
「母さん……若っ」
「は?」
母が眉をひそめる。
まずい。
夢にしては反応が妙に生々しい。
「いや、なんでもない。起きる。起きます」
「熱でもあるの? 変なこと言って」
母が近づいて、俺の額に手を当てた。
その手が、温かかった。
夢なら、もう少し都合よくふわふわしていてくれ。
そう思うくらい、現実感があった。
「熱はなさそうね。早く着替えなさい。朝ご飯、冷めるわよ」
母はそう言って、ドアを閉めた。
俺は布団の上で固まったまま、しばらく動けなかった。
心臓がうるさい。
耳の奥で血の音がしている。
ゆっくりと自分の手を見た。
小さい。
指が細い。
手の甲に浮いていたはずの血管も、仕事で荒れた指先もない。爪の形だけは見覚えがあるのに、それ以外が全部若い。
足を床につける。
立ち上がる。
視線が低い。
「……マジか」
俺はふらつきながら、部屋の姿見の前に立った。
鏡の中にいたのは、中学生の俺だった。
寝癖のついた黒髪。
少し丸い頬。
まだ大人になりきっていない顔。
身長は、たぶん百六十センチあるかないか。
そこに、三十二歳の俺の意識だけが入っている。
胃のあたりが冷たくなった。
「落ち着け。落ち着け、佐伯悠真」
自分に言い聞かせる。
こういうときは、状況確認だ。
社会人生活で学んだことが一つある。トラブルが起きたとき、感情で騒ぐ人間から順に詰む。
まず、情報。
机の上に置かれていたガラケーを手に取る。
懐かしい重さだった。
画面を開くと、待ち受けには知らないアニメキャラ。いや、知らないんじゃない。昔の俺が好きだったキャラだ。
日付を見る。
二〇一〇年六月十四日、月曜日。
俺は、そこで息を止めた。
二〇一〇年。
中学二年。
記憶の底に沈んでいた数字が、ぴたりと噛み合う。
窓の外から、近所の小学生たちの声が聞こえた。
階下からは、味噌汁の匂い。
テレビの音。
母の足音。
全部が、過去のものだった。
なのに、今ここにあった。
俺はガラケーを握ったまま、ベッドに座り込んだ。
頭の中で、馬鹿みたいな考えが浮かぶ。
もし、これが本当に過去なら。
もし、三十二歳までの記憶を持ったまま、中学二年に戻ったのなら。
俺は、人生をやり直せるんじゃないか。
選ばなかったことを選べる。
諦めたことを諦めずに済む。
失敗を避けられる。
未来を知っているなら、金だって、人間関係だって、進路だって、全部うまくやれるかもしれない。
胸の奥で、あり得ない期待が膨らんだ。
だが同時に、手は震えていた。
目の前のガラケーの小さな画面には、何度見ても同じ日付が表示されている。
二〇一〇年六月十四日。
俺は、乾いた喉で呟いた。
「二〇一〇年。俺は、中学二年に戻っている」




