第三十七話「父さん、お金の勉強をしたい」
白石は俺のノートをしばらく見ていた。
図書館の閲覧席は静かだった。
少し離れたところで、小学生が本のページをめくっている音がする。
売店へ行った田端たちは、まだ戻ってこない。
ノートの上には、昨日の夜に書いた言葉が並んでいる。お金の勉強をしたいこと、会社の仕組みを調べたいこと、調べた内容をノートに残すこと。
自分で書いた時は、それなりにまとまっている気がした。
だが、白石の前に置くと急に雑に見える。
会社の会議で、上司に資料を出した瞬間に粗が見えるあの感じに近い。
いや、中学生の図書館で何を思い出しているんだ。
白石はペンを持ったまま、小さく首を傾げた。
「佐伯くん」
「うん」
「お金の勉強って、少し広いかも」
最初の一撃がそこだった。
まあ、そうだよな。
俺も書いたあとで薄々思っていた。
「お父さんに言うなら、会社のことを調べたい、とか、ニュースの読み方を知りたい、とか、もう少し分けた方がいいと思う」
「なるほど」
「あと、先に『今はしないこと』を書いた方が安心かも」
「今はしないこと?」
「うん。今は買わないとか、調べたら見せるとか、勝手に進めないとか」
白石はそう言ってから、少し慌てたように俺を見た。
「ごめん。偉そうだった?」
「いや、助かる」
「本当?」
「本当。俺、そこたぶん後回しにしてた」
白石はほっとしたように息を抜いた。
その顔を見ると、こちらも少し肩の力が抜ける。
白石はノートの端に、小さく丸をつけた。
「ここは、いいと思う。親に見せるって書いてあるから」
「そこは大事だと思って」
「うん。大事だと思う」
言い方が少し真面目で、俺は思わず頷いた。
白石にそう言われると、急にサボれなくなる。
田端たちが戻ってきたので、その日はそこで話を切った。
田端は本当にアイスを買っていた。
図書館の外で食べるからセーフ、と本人は言っていたが、宿題が終わっていない人間の余裕とは思えない。
白石はノートを返す時、少しだけ迷ってから言った。
「お父さんに話すの、緊張する?」
「する」
「佐伯くんでも?」
「するだろ。父親だぞ」
白石は小さく笑った。
俺が緊張すると分かって、安心したようにも見えた。
どういう安心なのかは、聞かないでおいた。
◇ ◇ ◇
その夜、俺は夕飯のあとでノートを机に広げた。
白石に言われた通り、最初のページを書き直す。
まず会社やお金の仕組みを調べたいこと。
今は買う話ではなく、調べる段階だと伝えること。
調べた内容はノートに残して、定期的に見せること。
こうして並べると、パソコンの時同様にかなり地味だ。
未来知識で人生無双というより、家庭内稟議である。
でも、父さん相手にはこれくらい地味な方がいい。
変に夢を語ると、たぶん一発で警戒される。
リビングへ行くと、父さんは新聞を読んでいた。
母さんは台所で明日の朝食の準備をしている。
テレビはついているが、音量は小さい。
俺はノートを持ったまま、少し立ち止まった。
父さんが新聞から目を上げる。
「どうした」
「ちょっと相談がある」
父さんは新聞を畳んだ。
その動作だけで、逃げ道が一つ減った気がした。
「またか……パソコンか?」
「いや、今日は違う」
「宿題か」
「それも一応進んでる」
「じゃあ何だ」
俺はテーブルの上にノートを置いた。
母さんが台所から少しだけこちらを見た。
完全に聞いている。
まあ、家族会議の気配がしたら聞くよな。
「お金の勉強をしたい」
言ってから、自分でも少し硬いと思った。
父さんはすぐには返事をしなかった。
ノートと俺を交互に見たあと、もう一度ノートに視線を落とす。
「小遣いの使い方か」
「それもあるけど、会社とか、株価とか、ニュースの読み方とか」
株価、という言葉を出した瞬間、父さんの眉が少し動いた。
分かりやすすぎる。
……いや、動くよな。中学生の息子が夕飯後に急に株価とか言い出したら、普通は警戒する。
「株をやりたいって話か」
「今すぐ買いたいって話じゃない」
「今すぐ、という言い方をする時点で、いずれは買いたいんだな」
父さんは鋭かった。
こういうところは本当に面倒だ。
適当にごまかせる相手じゃない。
「いずれは、少し触ってみたいと思ってる。でも、まずは調べたい」
「何でだ」
「会社のこととか、お金の動きとか、知らないまま大人になるのは怖いと思った」
これは嘘じゃない。
本当の理由の半分くらいを、子供でも言える形に削っただけだ。
父さんは腕を組んだ。
「お前、リーマンショックって覚えてるか」
「ニュースで見たくらい」
「父さんの会社でも、取引先の話や賞与の話でだいぶ空気が悪かった。株で儲けるとか、そういう軽い話じゃ済まない」
「分かってる」
「分かってる、だけだと足りない」
刺さる。
父さんの言い方は静かだが、変に重い。
怒鳴られるより逃げにくい。
「株は上がる時もあるし、下がる時もある。会社の名前を知っているだけで勝てるものじゃない。ニュースで騒がれている時には、もう遅いこともある」
「うん」
「それに、お前はまだ中学生だ。金を動かした結果を、お前一人で背負える年じゃない」
俺は頷いた。
ここで反論しても仕方ない。
父さんの言っていることは、かなり筋が通っている。
筋が通っていると分かるから、余計に面倒なのだが。
俺はノートを父さんの方へ向けた。
「だから、買う前に調べたい。調べたことはノートに残して、見せる」
父さんはノートを手元に引き寄せた。
数行読んで、少しだけ目を細める。
「この丸は何だ」
「白石に見てもらった」
言ったあとで、少しだけしまったと思った。
母さんの手が台所で止まった気配がした。
聞こえていないはずがない。
「白石さんか」
「うん」
「この前、参考書を一緒に買いに行った子だな」
「そう」
父さんはノートをもう一度見た。
母さんが台所から出てくる。
頼むから出てこないでくれ、という願いは当然のように届かない。
「澪ちゃんに見てもらったの?」
「母さん、名前で呼ぶな」
「だって白石さんだと固いじゃない」
「固くていい」
母さんは楽しそうに笑った。
おそらく、連絡網あたりから名前を調べたのだろう。
父さんは特に笑わない。
だが、少しだけ声が柔らかくなった。
「白石さんは何て言ってた」
「……お金の勉強だと広いから、会社とかニュースとか分けた方がいいって。あと、今は買わないって先に書いた方が安心だって」
父さんは短く息を吐いた。
ため息というより、少し感心したような息だった。
「ちゃんとしてるな」
「白石が?」
「白石さんもだし、それを聞いて直したお前もだ」
変な褒められ方だった。
しかも白石の名前とセットだ。
喜んでいいのか、照れていいのか、処理に困る。
父さんはノートを閉じずに、指で表紙を軽く叩いた。
「買うのはまだ早い」
「分かってる」
「分かってるなら、まず調べろ。会社が何をしているのか、どうやって儲けているのか、何が危ないのか。それをノートに書け」
「……パソコンでまとめた方が見やすいと思うんだけど」
「それは後でいい」
即答だった。
「手で書け。自分で説明できるか見たい。コピーして貼ったものを見せられても、父さんには分からん」
「……手書きか」
「嫌そうな顔をするな」
「してない」
「してる」
していたらしい。
パソコンを手に入れたばかりなのに、また手書きノートか。
会社員時代の資料作成スキルを発揮する前に、シャーペンと消しゴムへ戻されるとは思わなかった。
父さんは続けた。
「それと、白石さんにも見てもらえ」
「え」
「お前、あの子に見てもらうと説明が少しまともになるだろ」
「そんなこと——」
ない、と言い切れなかった。
参考書の時も、パソコンの時も、今日のノートも、白石の助言は普通に役に立っている。
父さんにそれを見抜かれているのが、何か悔しい。
母さんが横から口を挟んだ。
「いいじゃない。友達に見てもらうの、大事よ」
「友達」
「違うの?」
「違わないけど」
口の中が少しもつれた。
父さんがそこには触れなかったのは、たぶんわざとだ。
助かった気もするが、それはそれで落ち着かない。
「条件を言う」
父さんの声が少し戻った。
「宿題を優先すること。成績を落とさないこと。調べたノートは見せること。金を動かす話に進めたい時は、必ず先に父さんか母さんに言うこと」
「うん」
「破ったらパソコンも含めて考え直す」
「分かった」
最後だけは笑えない。
パソコン没収は普通に痛い。
未来知識以前に、夏休みの調べ物が全部面倒になる。
父さんはノートを俺に返した。
「調べるところまではいい」
その一言で、少しだけ胸の奥が軽くなった。
許可というほど大きなものじゃない。
買うことも、具体的な手続きも、まだ何も進んでいない。
でも、父さんの前で話題にできるようになった。
これで前より少しやりやすくなる。
「ありがとう」
「礼を言うのは、ちゃんと続けてからだ」
「うん」
母さんがノートを覗き込もうとしたので、俺は少しだけ引いた。
「何よ、見てもいいじゃない」
「まだ汚い」
「白石さんには見せたのに?」
「母さんは話をややこしくするから」
母さんは笑った。
父さんも、ほんの少しだけ口元を緩めた気がした。
気のせいかもしれない。
でも、今日はそれくらいにしておく。
◇ ◇ ◇
自室に戻ると、俺は机にノートを置いた。
父さんから返されたページには、白石の小さな丸と、俺の消し跡が残っている。
その隣に、新しいページを開いた。
パソコンで表を作るなら、項目を並べてセルに打ち込めばいい。
並び替えもできるし、あとで見直すのも楽だ。
だが、父さんに言われた通り、まずは手で書くしかない。
俺はシャーペンを持ち、ページの一番上に書いた。
『会社を調べる』
その下に少し間を空ける。
何を調べればいいのか、すぐには手が動かなかった。
会社名、何をしている会社か、なぜ伸びそうだと思うのか、危ないところ、分からないこと。
書く欄を考えるだけで、少し面倒になってくる。
白石なら、きっと「危ないところ」を先に書いた方がいいと言う気がする。
父さんも、たぶんそこを見る。
俺はページの端に、小さく書いた。
『危ないところも書く』
書いた字は、思ったより子供っぽかった。
まあ、手は十四歳だから仕方ない。
中身まで子供っぽくならないように、明日から少しずつ埋めるしかない。
机の上には、パソコンが閉じたまま置いてある。
今日は開かなかった。
その代わり、大学ノートの一ページ目だけが、妙に白く見えた。
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