第三十六話「また図書館で、が少し照れくさい」
図書館へ向かう道で、俺はガラケーを開きかけて、すぐに閉じた。
別に新しいメールが来ているわけじゃない。
分かっている。
分かっているのに、手が勝手に動く。
『うん。また図書館でね』
昨日の白石のメールが、頭の中に残っていた。
短い文だ。意味だけ取れば、ただの次の約束である。
それなのに、語尾の「ね」が妙に引っかかる。浮き足立ってしまう。
俺は歩きながら、軽く息を吐いた。
中学生のメールに一文字単位で揺さぶられる三十二歳。
会社で見積書の桁を確認していた時より、よほど集中している。
人生、やり直しても変なところで忙しい。
今日は図書館で宿題を進める日だ。
小野、田端、杉浦も来る予定になっている。
白石と二人きりになるわけじゃない。
だから普通に行けばいい。
そう思っている時点で、たぶん普通から少し外れている。
図書館の入口に着くと、白石はすでに掲示板の前に立っていた。
淡い色のブラウスに、膝下のスカート。
浴衣じゃない。当たり前だ。図書館に浴衣で来る方が大変だろう。
それなのに、昨日の夜道が勝手に頭に戻ってくる。
街灯の下で揺れた袖とか、家の近くで振り返った時の小さな会釈とか。
俺は一瞬だけ足を止めた。
すぐに歩き出す。
止まるな。
止まると変だ。
白石がこちらに気づいた。
目が合う。
その瞬間、白石はほんの少しだけ視線を下げた。
けれど、すぐにまたこちらを見る。
「おはよう」
声はいつもより少し小さかった。
「おはよう」
俺の声も、たぶん似たようなものだった。
何を二人して朝の挨拶に緊張しているんだ。
昨日まで普通に勉強していただろう。
白石は鞄の紐を両手で持った。
「……今日、暑いね」
「うん。図書館まで来るだけで汗かく」
「中、涼しいといいね」
「涼しくなかったら、田端が文句言うな」
白石が小さく笑った。
少しだけ、息がしやすくなる。
それで終わればよかったのに、俺は余計なことを思い出した。
浴衣、似合ってた。
自分で送った文面だ。
思い出した瞬間、首の後ろが熱くなる。
白石も何か思い出したのか、鞄の紐を握る指に少し力が入った。
気のせいかもしれない。
たぶん気のせいだ。
そういうことにしておく。
館内へ入ると、冷房の空気が肌に当たった。
外の熱気が少しずつ落ちていく。
夏休みの図書館は、相変わらず学生が多い。
本を抱えた小学生が、母親に棚の前で何か言われている。
俺も前の人生で、夏休みの終わりに似たような顔をしていた気がする。
閲覧席へ向かうと、まだいつもの机は空いていた。
俺は奥側に鞄を置く。
白石は隣の席を見て、それから向かいの席を見た。
ほんの一瞬の迷いだった。
俺は、気づいていないふりをする。
こういう時に「隣、座る?」と聞く勇気はない。
言ったら言ったで、変な意味を持ちそうだ。
何でもない椅子一つに、意味を乗せるな。面倒になる。
白石は少し迷ったあと、いつものように俺の斜め向かいに座った。
鞄を膝の横に置き、筆箱を出す。
ペンケースのファスナーを開ける手つきまで、妙に丁寧に見える。
俺は数学のワークを開いた。
まずは宿題だ。
父さんとの約束もある。
パソコンも未来も会社のことも、宿題を落としたら全部説得力がなくなる。
そう思って最初の問題に取りかかった。
◇ ◇ ◇
数分後、田端が入口の方から走らないぎりぎりの速さで来た。
司書さんに見られて、急に歩幅を小さくする。
分かりやすい奴め。
「やべえ! 数学、思ったより残ってた」
「お前、昨日も同じこと言ってなかったか」
「昨日より残ってる気がする……」
「増えるな」
田端は俺の隣に座り、ワークを机に出した。
ページの開き方からして、まだかなり残っている。
少し遅れて、小野と杉浦がやって来た。
小野は白石を見ると、すぐに笑った。
「澪、おはよう」
「おはよう、小野さん」
「昨日、ちゃんと帰れた?」
白石の肩が、ほんの少しだけ動いた。
俺はワークに視線を落とした。
聞こえていないふりをした。しかし耳は普通に働いている。
なんというか……とても困る。
「うん。家の近くまで、送ってもらったから」
「そっか。よかった」
小野の声が少しだけ柔らかくなる。
白石は小さく頷いた。
その頷き方が、昨日のメールの文面とつながって見えて、俺はシャーペンを持つ指に力を入れた。
その結果、途中式の符号を普通に間違えた。
「佐伯、そこマイナスじゃね?」
田端が横から覗き込んで言った。
こいつ、こういう時だけ妙に目がいい。
「……本当だ」
「お前でも間違えるんだな」
「間違える。普通に」
「じゃあ俺が間違えても仕方ないな」
「それは別の話だろ」
田端は不満そうな顔をしたが、すぐに自分のワークへ戻った。
助かった。
いや、助かったと言っていいのか分からない。
少なくとも、俺が聞こえていたことはごまかせた。
小野は俺と白石を一度ずつ見た。
見たあとで、何も言わずに席へ座る。
その何も言わない感じが、逆に怖い。
小野は分かっていて黙るタイプだ。
田端とは違う怖さがある。
「ねえ、佐伯くん」
白石が小さく呼んだ。
「何?」
「ここ、昨日の問題と似てる?」
白石が指したのは、連立方程式の文章題だった。
その「昨日」という言葉に、問題だけでなく、帰り道やメールまで混ざりそうになる。
脳みそ、今は数学だけやれ。
「似てる。先に、何を文字にするか決めるところが同じ」
「そっか」
「個数と代金を分けて書くと、式にしやすいと思う」
「うん」
白石はノートに小さく表を書き始めた。
その字は相変わらず整っている。
俺のメモとは違う。
急いでいる感じがない。
見ているだけで、こちらの雑な頭まで少し落ち着く。
小野が白石の手元を覗いた。
「澪のノート、ほんと見やすいよね」
「そんなことないよ」
「あるよ。私、行がすぐ斜めになるもん」
「私も、急ぐと少し曲がるよ」
「それで少しなんだ」
白石は少し困ったように笑った。
褒められると、まだ逃げ場を探す。
でも前みたいに固まって黙り込む感じとは違う。
小野の言葉を、ちゃんと受け取ろうとしている。
田端が顔を上げた。
「白石、俺のノートも見てくれ」
「うん。どこ?」
「全部」
「全部は、ちょっと」
「だよな」
杉浦が吹き出しそうになり、小野に肘で止められていた。
図書館で笑うな、という無言の注意だ。
小野、やはり強い。
そこからしばらくは、本当に勉強をした。
田端が三問に一回は変なところで止まり、杉浦は読書感想文の書き出しを何度も消し、小野は白石に構成を見てもらう。
俺は数学を進めつつ、父さんに見せる予定のメモを鞄の中で気にしていた。
父さんに相談することや、お金の勉強、会社の仕組み、小遣いとお年玉の範囲、親に見せる記録。
昨日の夜、そういう言葉を書いたノートを机の端に置いたままにして、今朝になって鞄へ入れてきた。
白石に見せるつもりだったのかと聞かれると、少し困る。
たぶん、見せるつもりではあった。
ただ、はっきり頼むところまでは決めていなかった。
こういうところがよくない。
仕事でも、相談するなら目的を決めてから持っていけと何度も言われた。
中学生に戻っても、詰めの甘さは戻らないらしい。
昼近くになると、田端が机に突っ伏した。
「腹減った」
「早いぞ」
「頭使うと減る」
「使ってから言え」
「今ちょっと使っただろ」
田端がワークを指差す。
確かに、さっきより少し進んでいる。
赤点回避の時も思ったが、こいつはやれば多少できる。
やるまでが長いだけだ。
小野が時計を見た。
「休憩する? 売店のところ行く?」
「行く!」
田端の返事が早すぎる。
杉浦も立ち上がり、小野が白石を見る。
「澪も行く?」
「うん。……あ、でも」
白石は俺の方を見た。
ほんの少しだけ。
それから、すぐ目を戻す。
「先に行ってて。飲み物、持ってるから」
「分かった。無理しないでね」
小野はそう言って、田端たちを連れて席を離れた。
田端が「売店のアイスまだあるかな」と言って、杉浦が「午前中からアイスかよ」と返している。
声はすぐ遠ざかった。
机には、俺と白石だけが残った。
図書館なので、二人きりというほど大げさな状況でもない。
周りには人がいる。
小学生もいるし、新聞を読んでいるおじさんもいる。
それなのに、机の上の空気だけ少し静かになる。
白石はペットボトルのお茶を一口飲んだ。
キャップを閉める時、少しだけ手間取っている。
俺は見ていないふりをした。
「昨日」
白石が小さく言った。
俺はシャーペンを止める。
「うん」
「メール、ありがとう」
「ああ」
「朝も、変なメールしてごめんね」
「変じゃない」
返事が早すぎた。
白石が少し驚いた顔をして、それから目を伏せる。
「そっか」
「うん」
会話がそこで止まった。
何だこの時間。悪くはないが、非常に扱いづらいというか。
雑に触ると割れそうなものを持たされている感じがする。
白石はノートの端を指で押さえながら、少しだけ笑った。
「図書館、来てよかった」
「宿題進むしな」
「それもあるけど——」
それもあるけど。
続きは言わなかった。
俺も聞かなかった。
聞いたら、自分が何か変な返事をしそうだった。
白石は代わりに、俺の鞄の方を見た。
「佐伯くん、今日、いつもよりノート多くない?」
少しだけ驚いてしまった。
白石は本当に、変なところに気づく。
だがまあ……これは俺が鞄の中を何度も気にしているのが悪い。
「まあ、少し」
「この前の続き?」
「この前?」
「お父さんに説明するって言ってたこと」
俺は返事に詰まった。
白石は慌てて首を振る。
「あ、言いにくかったら大丈夫。無理に見たいとかじゃなくて」
「いや」
俺は鞄に手を入れた。
出すかどうか、ほんの少し迷う。
迷ってから、結局ノートを取り出した。
表紙は普通の大学ノートだ。
中には、昨日の夜に書いた「お金の勉強」についてが書かれている。
白石の前に置くと、急に中身が幼く見えた。
いや、中学生のノートなのだから幼くて当然なのだが、中身が三十二歳だと余計にしんどい。
「父さんに話す前に、少し整理したくて」
俺は言った。
「白石に見せるかは、迷ってた」
「私でいいの?」
「むしろ白石の方がいい気がしてる」
言ってから、少しまずいと思った。
白石が目を丸くする。
俺は慌てて言葉を足した。
「ノートとか、説明の順番とか、そういうの見やすくするの上手いだろ」
「……うん」
白石は小さく頷いた。
それから、ほんの少しだけ口元を緩める。
「じゃあ、見てもいい?」
俺はノートを開いた。
ページの上には、少し硬い字でこう書いてある。
『父さんに相談すること』
白石はその文字を見て、静かに息を吸った。
「これ、やっぱりこの前の続き?」
今度は、俺も頷いた。
「うん。かなり面倒な続き」
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