閑話「白石澪は、帰り道の続きをしまえない」
白石澪は、門の前で一度だけ振り返った。
少し離れたところに、佐伯くんが立っている。
もう帰っていいのに、私が家の方へ歩き出すまで、その場に残っていた。
街灯の下で、佐伯くんが軽く手を上げる。
私も小さく頭を下げた。
浴衣の袖が少し遅れて揺れて、胸のあたりまで熱くなった。
家の明かりはすぐそこにある。
いつもなら、そこまで来ればほっとする。
今日もほっとしている。
でも——そこで気持ちが止まらなかった。
帰り道が、もう少しだけ続いてもよかったのに。
そう思ってしまって、私は慌てて門の方へ向き直った。
何を考えているのだろう。
送ってもらって、家の近くまで来て、無事に帰れた。
それで十分なはずなのに。
玄関を開ける前に、もう一度だけ後ろを見た。
佐伯くんはもう歩き出していた。
ゆっくり、来た道を戻っていく。
祭りの音は、ここまでは届かない。
聞こえるのは、近くの家の室外機の音と、自分の下駄の小さな音だけだった。
私は玄関のドアを開けた。
「ただいま」
声が少し小さくなった。
別に悪いことをしたわけじゃないのに、なぜかこっそり帰ってきたみたいな気分だった。
廊下の奥から、母が顔を出した。
「おかえり。あんまり遅くならなかったね」
「うん」
「送ってもらったの?」
「……うん。家の近くまで」
母は少しだけ目を細めた。
その顔を見て、私は巾着を持つ手に力を入れた。
「楽しかった?」
「うん」
「そう、よかった」
母はそれ以上聞かなかった。
聞かれなかったのに、言い訳をしそうになった。
佐伯くんのお父さんに言われていたから、とか、暗かったから、とか、小野さんもお願いしていたから、とか。
でも、そんなことを私が説明するのも変だ。
私は「着替えてくるね」と言って、急いで階段を上がった。
部屋に入って、ドアを閉める。
そこで少し息をついた。
机の上に巾着を置き、壁にかけてある小さな鏡を見る。
浴衣の襟が少しだけずれていた。
歩いているうちに乱れたのかもしれない。
佐伯くんは気づいただろうか。
そう考えた瞬間、顔が熱くなった。
「……何考えてるの」
小さく声に出してから、余計に恥ずかしくなった。
自分の部屋で一人なのに、誰かに聞かれたみたいな気がする。
鏡の中の私は、少し困った顔をしていた。
祭りに行く前より、頬が赤い。
歩いたからだと思いたい。
夜でも暑かったし、浴衣は思ったより涼しくなかった。
たぶん、そのせい。
そういうことにしておく。
私は帯をほどく前に、携帯を開いた。
画面は暗いままで、当然、まだ何も届いていない。
それを確認してから、自分で少し落ち込んだ。
何を期待していたのだろう。
佐伯くんは、今ごろ帰っている途中かもしれない。
家に着いても、お父さんに何か聞かれているかもしれない。
パソコンのことだって、宿題のことだってある。
それなのに、私は画面を見てしまう。
少しだけ、帰り道を思い出す。
佐伯くんは、私の歩く速さに合わせてくれた。
車が通る道では、いつの間にか車道側に移っていた。
わざとらしくなくて、でも気づかないほど自然でもなくて、私は何も言えなかった。
言ったら、佐伯くんはたぶん「偶然」とか言う。
そういう顔をする気がした。
それから、小野さんの声も思い出した。
別れる前、私の耳元で小さく言った言葉。
「ちゃんと楽しそうだったよ」
その時は、どう返せばいいか分からなくて頷くだけだった。
今になって、じわじわ恥ずかしくなる。
楽しそうに見えていた。
どんな顔をしていたのだろう。
佐伯くんにも、そう見えていただろうか。
私は携帯を閉じ、机の上に置いた。
そのまま着替えようとして、また手を止める。
送ってもらったのだから、お礼は言った方がいい。
家に着いたことも知らせた方がいい。
それは普通のことだ。
普通のことのはずなのに、携帯を開く指が少し固くなる。
メール作成画面を開いた。
『今日は送ってくれてありがとう』
そこまで打って、じっと画面を見る。
間違ってはいない。
でも、少し足りない気がした。
私は親指を動かして、続きに文字を足す。
『楽しかったです』
打ってから、画面を伏せた。
伏せたら見えなくなるだけで、送ったことにはならない。
当たり前だ。
私はもう一度画面を見る。
『また行きたいです』
そこまで打って、すぐに消した。
これは、さすがに。
誰と、とは書いていない。
でも、そういうふうに読めてしまうかもしれない。
いや、読めてしまうというか、自分がそう思っているみたいで、落ち着かない。
私はしばらく迷ってから、結局、短い文だけを残した。
『今日は送ってくれてありがとう。楽しかったです』
送信ボタンに指を置く。
押すだけなのに、すぐ押せない。
少し息を吸って、目をつぶるような気持ちで押した。
送ってしまった。
私は携帯を机に置いて、浴衣の帯をほどき始めた。
けれど、気になってすぐ手が止まる。
まだ返事が来るわけがない。
分かっているのに、机の上の携帯がやけに気になる。
帯をほどいて、浴衣を脱いで、部屋着に着替える。
髪を少し直して、鏡の前に立った。
いつもの自分に戻ったはずなのに、さっきまでの浴衣の感覚がまだ残っている。
袖が揺れたこと。
下駄で歩きにくかったこと。
佐伯くんが、少しだけ歩くのを遅くしてくれたこと。
全部、片づけられない。
携帯が震えた。
私はびくっとしてしまい、慌てて机に手を伸ばした。
画面には佐伯くんの名前が出ている。
『こっちこそ楽しかった。ちゃんと帰れてよかった』
それを読んで、少しだけ力が抜けた。
よかった。
変なメールだと思われてはいない、たぶん。
続けて、もう一通届いた。
『浴衣、似合ってた』
私は携帯を両手で持ったまま、しばらく動けなかった。
さっきも言ってくれた。
祭りの時にも、ちゃんと聞いた。
でも、文字で見ると、また違う。
画面に残っているから、何度でも読めてしまう。
困る。
すごく困る。
私は携帯を一度閉じた。
机に置く。
すぐにまた開いた。
やっぱり残っている。
何をしているのだろう。
返事をしないといけない。
でも、すぐ返したら待っていたみたいに見えるかもしれない。
実際、待っていた。
その事実が一番恥ずかしい。
私はベッドの端に座り、携帯を持ったまま文面を考えた。
『ありがとう』
これだけだと、そっけない気がする。
『そんなことないよ』
これは、せっかく言ってくれたのに否定してしまう。
『うれしいです』
打ってから、すぐに消した。
まっすぐすぎる。
でも、うれしいのは本当だった。
私は少し悩んで、もう一度ゆっくり打った。
『ありがとう。少し恥ずかしいけど、うれしいです』
送る前に何度も読み返す。
少し、という言葉を消そうか迷った。
恥ずかしいけど、だけでもいい気がする。
でも、少し恥ずかしい、の方が本当だった。
本当は少しどころじゃないけれど、それは書けない。
私は送信した。
返事は来なかった。
少しだけ残念で、少しだけほっとした。
もしすぐ返ってきたら、また何を返せばいいか分からなくなる。
机の上に携帯を置いて、私はベッドに腰かけた。
部屋は静かだった。
下からテレビの音が少し聞こえる。
母が食器を片づける音もする。
いつもの夜なのに、いつもと同じように眠れる気がしなかった。
私は布団に入ってからも、何度か携帯を見た。
新しいメールはない。
それでも、受信箱を開いてしまう。
浴衣、似合ってた。
文字を目で追うたびに、胸の奥がくすぐったくなる。
うれしい、だけで済ませていいのか分からない。
恥ずかしいのに、消したくない。
誰かに見られたら困るのに、何度も見たい。
私は布団を少しだけ顔まで上げた。
暑い。
すぐに下げた。
「……寝よう」
小さく言って、目を閉じる。
けれど、目を閉じると帰り道が戻ってくる。
祭りの音が遠くなって、街灯の下を歩いて、佐伯くんが「助かった」と言った。
話せる形になったら、聞く。
私がそう言った時、佐伯くんは困っていたのだと思う。
でも、嫌そうではなかった。
助かった、と言ってくれた。
それがうれしかった。
うれしかったけれど、少し怖くもなった。
佐伯くんが何を考えているのか、私は知らない。
パソコンのことや将来のこと、それから、たまに遠くを見るような顔をすること。
知りたいけれど、急いで聞いたら、佐伯くんは困ると思う。
だから待つと言った。
自分で言ったのに、その言葉の重さがあとから来る。
私は寝返りを打った。
枕元に置いた携帯が、布団の隙間から少しだけ見える。
画面は暗い。
暗いのに、そこに文字が残っているような気がした。
◇ ◇ ◇
翌朝、私はいつもより少し早く目が覚めた。
カーテンの隙間から、夏の光が細く入っている。
まだ部屋は暑くなりきっていない。
起き上がる前に、手が自然に枕元へ伸びた。
携帯を開く。
新しいメールはない。
それはそうだと思いながら、私は昨日のメールをもう一度開いた。
『浴衣、似合ってた』
朝に読むと、夜よりも恥ずかしかった。
私はすぐ閉じた。
閉じて、少しして、また開いた。
駄目だ。
これでは宿題が進まない。
私はベッドから降りて、机に向かった。
数学のワークを開く。
日付を書いて、ページ番号を書いて、シャーペンを持つ。
最初の問題は、昨日までならすぐ解けるはずの計算だった。
それなのに、途中で手が止まる。
佐伯くんはもう起きているだろうか。
昨日のメールを、まだ覚えているだろうか。
覚えていなかったら、それはそれで寂しい。
覚えていたら、それはそれで恥ずかしい。
どっちでも落ち着かない。
私はシャーペンを置き、携帯を見た。
昨日のことを、なかったことにしたくない。
でも、朝からメールを送るのは変だろうか。
用事があるわけじゃない。
浴衣のことを、もう一度言うのは変かもしれない。
でも、ちゃんと嬉しかったことは伝えたい。
送らない理由を考えて、送る理由を考えて、結局どちらもよく分からなくなった。
私はメール作成画面を開いた。
『昨日の浴衣のこと、ありがとう。まだ少し照れます』
打ってから、じっと見た。
少し変かもしれない。
でも、これくらいなら、たぶん大丈夫。
たぶん。
私は送信した。
送ってすぐ、ワークに戻る。
戻ったつもりだった。
でも、計算式の途中で携帯を見る。
まだ返事はない。
当たり前だ。
朝からずっと携帯を見ている方が変だ。
私は問題を一つ解いた。
答え合わせをしようとしたところで、携帯が震えた。
シャーペンの芯が、少しだけ紙に引っかかった。
佐伯くんからだった。
『似合ってたのは本当。また図書館で』
私は画面を見たまま、口元が勝手に緩むのを止められなかった。
似合ってたのは本当。
本当、と書いてある。
もう一度読んで、机に額をつけそうになった。
朝から何をしているのだろう。
でも、少しだけ楽しい。
私は返信を打った。
『うん。また図書館でね』
送ってから、携帯を机の端に置く。
すぐ見える場所だ。
見えないところにしまうほど、落ち着いてはいない。
予定表を開く。
次に図書館へ行く日を確認した。
その日付を見るだけで、少し背筋が伸びる。
宿題をしなきゃ。
そう思って、私は数学のワークに戻った。
最初に書いた日付の横に、小さな丸を一つだけつける。
意味はない。
たぶん、ない。
でも、消すのも少しもったいなくて、私はそのまま次の問題に進んだ。
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