表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
三十代社畜の俺、中二に戻って人生無双を始める 〜なお宝くじの番号は覚えていない〜  作者: らいお


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
39/50

閑話「白石澪は、帰り道の続きをしまえない」

 白石澪(しらいしみお)は、門の前で一度だけ振り返った。


 少し離れたところに、佐伯くんが立っている。

 もう帰っていいのに、私が家の方へ歩き出すまで、その場に残っていた。


 街灯の下で、佐伯くんが軽く手を上げる。

 私も小さく頭を下げた。

 浴衣の袖が少し遅れて揺れて、胸のあたりまで熱くなった。


 家の明かりはすぐそこにある。

 いつもなら、そこまで来ればほっとする。

 今日もほっとしている。

 でも——そこで気持ちが止まらなかった。


 帰り道が、もう少しだけ続いてもよかったのに。


 そう思ってしまって、私は慌てて門の方へ向き直った。

 何を考えているのだろう。

 送ってもらって、家の近くまで来て、無事に帰れた。

 それで十分なはずなのに。


 玄関を開ける前に、もう一度だけ後ろを見た。

 佐伯くんはもう歩き出していた。

 ゆっくり、来た道を戻っていく。


 祭りの音は、ここまでは届かない。

 聞こえるのは、近くの家の室外機の音と、自分の下駄の小さな音だけだった。


 私は玄関のドアを開けた。


「ただいま」


 声が少し小さくなった。

 別に悪いことをしたわけじゃないのに、なぜかこっそり帰ってきたみたいな気分だった。

 廊下の奥から、母が顔を出した。


「おかえり。あんまり遅くならなかったね」

「うん」

「送ってもらったの?」

「……うん。家の近くまで」


 母は少しだけ目を細めた。

 その顔を見て、私は巾着を持つ手に力を入れた。


「楽しかった?」

「うん」

「そう、よかった」


 母はそれ以上聞かなかった。

 聞かれなかったのに、言い訳をしそうになった。

 佐伯くんのお父さんに言われていたから、とか、暗かったから、とか、小野さんもお願いしていたから、とか。


 でも、そんなことを私が説明するのも変だ。

 私は「着替えてくるね」と言って、急いで階段を上がった。


 部屋に入って、ドアを閉める。

 そこで少し息をついた。


 机の上に巾着を置き、壁にかけてある小さな鏡を見る。

 浴衣の襟が少しだけずれていた。

 歩いているうちに乱れたのかもしれない。

 佐伯くんは気づいただろうか。


 そう考えた瞬間、顔が熱くなった。


「……何考えてるの」


 小さく声に出してから、余計に恥ずかしくなった。

 自分の部屋で一人なのに、誰かに聞かれたみたいな気がする。


 鏡の中の私は、少し困った顔をしていた。

 祭りに行く前より、頬が赤い。

 歩いたからだと思いたい。

 夜でも暑かったし、浴衣は思ったより涼しくなかった。


 たぶん、そのせい。

 そういうことにしておく。


 私は帯をほどく前に、携帯を開いた。

 画面は暗いままで、当然、まだ何も届いていない。

 それを確認してから、自分で少し落ち込んだ。


 何を期待していたのだろう。

 佐伯くんは、今ごろ帰っている途中かもしれない。

 家に着いても、お父さんに何か聞かれているかもしれない。

 パソコンのことだって、宿題のことだってある。


 それなのに、私は画面を見てしまう。


 少しだけ、帰り道を思い出す。

 佐伯くんは、私の歩く速さに合わせてくれた。

 車が通る道では、いつの間にか車道側に移っていた。

 わざとらしくなくて、でも気づかないほど自然でもなくて、私は何も言えなかった。


 言ったら、佐伯くんはたぶん「偶然」とか言う。

 そういう顔をする気がした。


 それから、小野さんの声も思い出した。

 別れる前、私の耳元で小さく言った言葉。


「ちゃんと楽しそうだったよ」


 その時は、どう返せばいいか分からなくて頷くだけだった。

 今になって、じわじわ恥ずかしくなる。


 楽しそうに見えていた。

 どんな顔をしていたのだろう。

 佐伯くんにも、そう見えていただろうか。


 私は携帯を閉じ、机の上に置いた。

 そのまま着替えようとして、また手を止める。


 送ってもらったのだから、お礼は言った方がいい。

 家に着いたことも知らせた方がいい。

 それは普通のことだ。

 普通のことのはずなのに、携帯を開く指が少し固くなる。


 メール作成画面を開いた。


『今日は送ってくれてありがとう』


 そこまで打って、じっと画面を見る。

 間違ってはいない。

 でも、少し足りない気がした。


 私は親指を動かして、続きに文字を足す。


『楽しかったです』


 打ってから、画面を伏せた。

 伏せたら見えなくなるだけで、送ったことにはならない。

 当たり前だ。

 私はもう一度画面を見る。


『また行きたいです』


 そこまで打って、すぐに消した。

 これは、さすがに。

 誰と、とは書いていない。

 でも、そういうふうに読めてしまうかもしれない。

 いや、読めてしまうというか、自分がそう思っているみたいで、落ち着かない。


 私はしばらく迷ってから、結局、短い文だけを残した。


『今日は送ってくれてありがとう。楽しかったです』


 送信ボタンに指を置く。

 押すだけなのに、すぐ押せない。

 少し息を吸って、目をつぶるような気持ちで押した。


 送ってしまった。


 私は携帯を机に置いて、浴衣の帯をほどき始めた。

 けれど、気になってすぐ手が止まる。

 まだ返事が来るわけがない。

 分かっているのに、机の上の携帯がやけに気になる。


 帯をほどいて、浴衣を脱いで、部屋着に着替える。

 髪を少し直して、鏡の前に立った。

 いつもの自分に戻ったはずなのに、さっきまでの浴衣の感覚がまだ残っている。


 袖が揺れたこと。

 下駄で歩きにくかったこと。

 佐伯くんが、少しだけ歩くのを遅くしてくれたこと。


 全部、片づけられない。


 携帯が震えた。


 私はびくっとしてしまい、慌てて机に手を伸ばした。

 画面には佐伯くんの名前が出ている。


『こっちこそ楽しかった。ちゃんと帰れてよかった』


 それを読んで、少しだけ力が抜けた。

 よかった。

 変なメールだと思われてはいない、たぶん。


 続けて、もう一通届いた。


『浴衣、似合ってた』


 私は携帯を両手で持ったまま、しばらく動けなかった。

 さっきも言ってくれた。

 祭りの時にも、ちゃんと聞いた。

 でも、文字で見ると、また違う。


 画面に残っているから、何度でも読めてしまう。

 困る。

 すごく困る。


 私は携帯を一度閉じた。

 机に置く。

 すぐにまた開いた。


 やっぱり残っている。


 何をしているのだろう。

 返事をしないといけない。

 でも、すぐ返したら待っていたみたいに見えるかもしれない。

 実際、待っていた。

 その事実が一番恥ずかしい。


 私はベッドの端に座り、携帯を持ったまま文面を考えた。


『ありがとう』


 これだけだと、そっけない気がする。


『そんなことないよ』


 これは、せっかく言ってくれたのに否定してしまう。


『うれしいです』


 打ってから、すぐに消した。

 まっすぐすぎる。

 でも、うれしいのは本当だった。


 私は少し悩んで、もう一度ゆっくり打った。


『ありがとう。少し恥ずかしいけど、うれしいです』


 送る前に何度も読み返す。

 少し、という言葉を消そうか迷った。

 恥ずかしいけど、だけでもいい気がする。

 でも、少し恥ずかしい、の方が本当だった。

 本当は少しどころじゃないけれど、それは書けない。


 私は送信した。


 返事は来なかった。

 少しだけ残念で、少しだけほっとした。

 もしすぐ返ってきたら、また何を返せばいいか分からなくなる。


 机の上に携帯を置いて、私はベッドに腰かけた。

 部屋は静かだった。

 下からテレビの音が少し聞こえる。

 母が食器を片づける音もする。


 いつもの夜なのに、いつもと同じように眠れる気がしなかった。


 私は布団に入ってからも、何度か携帯を見た。

 新しいメールはない。

 それでも、受信箱を開いてしまう。


 浴衣、似合ってた。


 文字を目で追うたびに、胸の奥がくすぐったくなる。

 うれしい、だけで済ませていいのか分からない。

 恥ずかしいのに、消したくない。

 誰かに見られたら困るのに、何度も見たい。


 私は布団を少しだけ顔まで上げた。

 暑い。

 すぐに下げた。


「……寝よう」


 小さく言って、目を閉じる。


 けれど、目を閉じると帰り道が戻ってくる。

 祭りの音が遠くなって、街灯の下を歩いて、佐伯くんが「助かった」と言った。


 話せる形になったら、聞く。


 私がそう言った時、佐伯くんは困っていたのだと思う。

 でも、嫌そうではなかった。

 助かった、と言ってくれた。


 それがうれしかった。

 うれしかったけれど、少し怖くもなった。


 佐伯くんが何を考えているのか、私は知らない。

 パソコンのことや将来のこと、それから、たまに遠くを見るような顔をすること。


 知りたいけれど、急いで聞いたら、佐伯くんは困ると思う。


 だから待つと言った。

 自分で言ったのに、その言葉の重さがあとから来る。


 私は寝返りを打った。

 枕元に置いた携帯が、布団の隙間から少しだけ見える。

 画面は暗い。

 暗いのに、そこに文字が残っているような気がした。


 ◇ ◇ ◇


 翌朝、私はいつもより少し早く目が覚めた。


 カーテンの隙間から、夏の光が細く入っている。

 まだ部屋は暑くなりきっていない。

 起き上がる前に、手が自然に枕元へ伸びた。


 携帯を開く。

 新しいメールはない。

 それはそうだと思いながら、私は昨日のメールをもう一度開いた。


『浴衣、似合ってた』


 朝に読むと、夜よりも恥ずかしかった。

 私はすぐ閉じた。

 閉じて、少しして、また開いた。


 駄目だ。

 これでは宿題が進まない。


 私はベッドから降りて、机に向かった。

 数学のワークを開く。

 日付を書いて、ページ番号を書いて、シャーペンを持つ。


 最初の問題は、昨日までならすぐ解けるはずの計算だった。

 それなのに、途中で手が止まる。

 佐伯くんはもう起きているだろうか。

 昨日のメールを、まだ覚えているだろうか。

 覚えていなかったら、それはそれで寂しい。

 覚えていたら、それはそれで恥ずかしい。


 どっちでも落ち着かない。


 私はシャーペンを置き、携帯を見た。

 昨日のことを、なかったことにしたくない。

 でも、朝からメールを送るのは変だろうか。

 用事があるわけじゃない。


 浴衣のことを、もう一度言うのは変かもしれない。

 でも、ちゃんと嬉しかったことは伝えたい。


 送らない理由を考えて、送る理由を考えて、結局どちらもよく分からなくなった。

 私はメール作成画面を開いた。


『昨日の浴衣のこと、ありがとう。まだ少し照れます』


 打ってから、じっと見た。

 少し変かもしれない。

 でも、これくらいなら、たぶん大丈夫。

 たぶん。


 私は送信した。


 送ってすぐ、ワークに戻る。

 戻ったつもりだった。

 でも、計算式の途中で携帯を見る。

 まだ返事はない。

 当たり前だ。

 朝からずっと携帯を見ている方が変だ。


 私は問題を一つ解いた。

 答え合わせをしようとしたところで、携帯が震えた。


 シャーペンの芯が、少しだけ紙に引っかかった。


 佐伯くんからだった。


『似合ってたのは本当。また図書館で』


 私は画面を見たまま、口元が勝手に緩むのを止められなかった。

 似合ってたのは本当。

 本当、と書いてある。


 もう一度読んで、机に額をつけそうになった。

 朝から何をしているのだろう。

 でも、少しだけ楽しい。


 私は返信を打った。


『うん。また図書館でね』


 送ってから、携帯を机の端に置く。

 すぐ見える場所だ。

 見えないところにしまうほど、落ち着いてはいない。


 予定表を開く。

 次に図書館へ行く日を確認した。

 その日付を見るだけで、少し背筋が伸びる。


 宿題をしなきゃ。

 そう思って、私は数学のワークに戻った。


 最初に書いた日付の横に、小さな丸を一つだけつける。

 意味はない。

 たぶん、ない。


 でも、消すのも少しもったいなくて、私はそのまま次の問題に進んだ。


「面白かった」「続きが読みたい!」と思っていただけましたら、ぜひブックマーク・評価・感想などで応援していただけると嬉しいです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ