第三十一話「俺のパソコンは、思ったより古い」
父さんが「店で見てみるか」と言った翌日、俺は朝から妙に落ち着かなかった。
別に、今日買ってもらえると決まったわけじゃない。
父さんは昨日、はっきり「見るだけだ」と言った。
その言葉を忘れられるほど、俺も雑にはできていない。
中身は三十二歳だ。こういう時に期待しすぎると、あとでしんどいことくらい分かっている。
分かっているのに、朝飯の味噌汁が少し薄い気がした。
いや、たぶん味はいつも通りだ。
俺の舌が勝手に浮ついているだけだった。
「悠真、今日も図書館?」
母さんが食器を並べながら聞いてきた。
「いや、午後に父さんと店」
「ああ、パソコンね」
「見るだけだけど」
「ふふ。何回も言わなくていいわよ」
母さんは笑った。
やめてほしい。
こっちは自分に言い聞かせているのだ。
父さんは新聞を畳みながら、いつもの調子で言った。
「午前中に宿題を進めておけ」
「分かってる」
「分かっているなら、今からやれ」
「はい」
結局、そこに戻る。
パソコンを見に行くにも、まず宿題。
未来知識だの資産形成だの言う前に、夏休みの課題を片づけろという話だった。
まあ、その通りだ。
その通りなのだが、テンションは上がらない。
俺は自分の部屋に戻って、数学の参考書を開いた。
しばらく手を動かしていると、頭の端に中古パソコンの値札がちらついた。
昨日見た値段は三万九千八百円で、税込みなのか、保証込みなのか、マウスは別なのか。
昨日からそればかり考えている。
「集中しろ、俺」
小さくつぶやいて、ノートに線を引いた。
線は少し曲がった。
白石なら、たぶんもう少し綺麗に引く。
そう考えたところで、俺はシャーペンを止めた。
いかん。
パソコンの次は白石のことを考え始めている。
思春期の脳みそは忙しい。
三十二歳の精神が入っていても、十四歳の身体はわりと勝手に動く。
俺はため息をついて、もう一問解いた。
◇ ◇ ◇
午後、父さんの運転する車で、昨日行った家電量販店へ向かった。
車内のラジオから、夏の曲が流れている。
聞き覚えがあるような、ないような曲だった。
二〇一〇年の流行は、うろ覚えだ。
当時の俺は、音楽よりも宿題と部活とゲームのことばかり考えていた気がする。
今の俺は、そこに中古パソコンと将来の株まで乗っている。
重い。
中二の鞄より重い。
父さんは運転しながら言った。
「買うとしても、父さん名義だ」
「うん」
「お前のものではあるが、管理は父さんと母さんもする」
「分かってる」
「昨日の条件も変わらない。宿題が先。夜は九時半まで。あとは……そうだ、履歴も見る」
「うん」
「ゲームは入れない、もだな」
「それも分かってる」
何度も確認される。
面倒だが、仕方ない。
父さんからすれば、中学生の息子に数万円の機械を渡すのだ。
俺だって、前の人生で会社のノートパソコンを渡された時は、扱い方の注意を何度も聞かされた。
言う側は面倒だし、聞く側も面倒。
だが、壊した時はもっと面倒。
世の中だいたい面倒でできている。
「あと、持ち出しはしばらく禁止だ」
「家の中だけ?」
「そうだ。図書館へ持っていくとか、友達の家へ持っていくとかは駄目だ」
「分かった」
本当は図書館へ持っていけたら便利だ。
白石と並んでメモを作る時にも使える。
だが、そこまで一気に求めると、たぶん話が後退する。
まずは家の中。
使わせてもらって、壊さず、成績を落とさず、手伝いをする。
信用残高を減らさない。
なんだこれ。
中学生なのに、すでに社内稟議の後処理みたいな気分だ。
店に着くと、父さんはまっすぐパソコン売り場へ向かった。
俺は隣を歩きながら、昨日見た中古コーナーを探す。
新品コーナーのノートパソコンは、やはりきれいだった。
薄くて、画面も明るい。
店頭の照明を浴びて、いかにも「できる子です」という顔をしている。
値札は全然かわいくない。
「新品は見ないぞ」
父さんが先に言った。
「もちろん、分かってる」
「一応言っただけだ」
「俺も一応見ただけ」
父さんは少しだけ口元を動かした。
笑ったのかもしれない。
分かりにくい。
中古コーナーには、仕事で使われていたらしいノートパソコンが何台か並んでいた。
天板に細かい傷があるもの。
キーボードの文字が少し薄くなっているもの。
角に擦れがあるもの。
どれも、新品コーナーの機械とは顔つきが違う。
きれいとは言いづらいが、妙に実務感があった。
俺が昨日見たレッツノート系の中古機は、まだ残っていた。
説明の札には、値段が三万九千八百円、保証が一か月、メモリは少なめ、ハードディスクも大容量とは言いづらい、といったことが並んでいる。
光学ドライブがついているのは、この時代らしくて少し懐かしかった。
バッテリーは消耗品なので保証外、と小さく書いてある。
父さんが値札の下の説明を読んだ。
「業務用の中古か」
「うん。軽いし、丈夫らしい」
「軽いか?」
父さんが片手で持ち上げた。
少しだけ眉を上げる。
「まあ、今の新品よりは重いな」
「でも持てないほどじゃない」
「持ち出しは禁止だと言っただろう」
「覚えてる」
つい言ってしまった。
父さんはそのまま店員を呼んだ。
店員は若い男性で、こちらが中学生だと分かると、少しだけ柔らかい声になった。
「お勉強用ですか?」
父さんが俺を見た。
俺が答えるしかない。
「調べ物と、レポートとか、表を作る練習に使いたいです」
「それなら、このあたりでも大丈夫だと思いますよ。動画をたくさん見たり、ゲームをしたりするには向きませんけど」
ゲームをしたりするには向きません。
いい言葉だ。
父さんに聞かせるには、かなりいい。
父さんは店員にいくつか確認した。
故障した時はどうなるか。
ウイルス対策は必要か。
無線でネットにつながるのか。
初期設定はしてあるのか。
バッテリーはどれくらい持つのか。
店員は、バッテリーについてだけ少し申し訳なさそうに言った。
「中古なので、あまり期待しない方がいいです。基本は電源につないで使う形ですね」
父さんが俺を見る。
「机で使うなら問題ないか」
「うん。家で使うだけなら」
本音を言えば、バッテリーが弱いのは痛い。
でも、外へ持ち出せないのは、今は大きな問題じゃない。
机で使えればいい。
自分の机で、調べて、打って、保存できればいい。
父さんは、しばらく黙ってパソコンを見ていた。
その横顔を見ながら、俺はポケットの中の財布を意識する。
一万円は、俺の手元から出ていく金だ。
十四歳の一万円はでかい。
三十二歳の感覚でも、意味なく消える一万円は普通に嫌だ。
まして今の俺の収入は月二千円のお小遣いである。
冷静に考えると、なかなか厳しい。
父さんが言った。
「これにするか」
俺は一瞬、返事が遅れた。
「……いいの?」
「条件は守れ」
「もちろん守る」
「壊すな」
「気をつける」
「成績を落とすな」
「それは、まあ、努力する」
「そこは言い切れ」
「落とさないようにする」
父さんは少し呆れた顔をした。
でも、購入を取り消す顔ではなかった。
助かった。
いや、まだレジを通っていない。
浮かれるな。
俺は財布から一万円札を出した。
父さんに渡す時、指が少しだけ名残惜しんだ。
情けない。
だが、一万円札には情が湧く。
「これ、俺の分」
「分かった」
父さんはそれを受け取り、自分の財布から残りを出した。
レジで会計が進む。
箱ではなく、店の袋に入れられた中古ノートパソコン。
説明書は薄い。
付属品は電源アダプタだけ。
新品を買った時のような華やかさはない。
それでも、店員から袋を受け取る父さんの手元を見ていると、胸の奥が変に落ち着かなかった。
俺の机に、パソコンが来る。
言葉にするとそれだけなのに、その「それだけ」がずっと遠かった。
◇ ◇ ◇
家に帰ると、母さんがリビングで洗濯物を畳んでいた。
「買ったの?」
袋を見るなり、母さんが言った。
「条件付きで」
父さんが答える。
「悠真、一万円出したの?」
「出した」
「本当に出したのね」
「出したよ。なんか疑われてない?」
「だって一万円よ」
「俺もそう思う」
母さんは少し笑ってから、袋の中を覗き込んだ。
「思ったより、しっかりしてるのね」
「しっかりはしてる。古いけど」
俺が言うと、父さんがすぐに釘を刺した。
「古いから雑に扱っていいわけじゃないぞ」
「分かってる」
まずはリビングで起動確認をすることになった。
自分の部屋で最初に開きたかったが、そこは我慢した。
父さんの条件を守る姿勢を見せる。
大人の世界では、最初の一回を雑にするとあとで信用が削れる。
中学生の家庭内でもたぶん同じだ。
テーブルの上にノートパソコンを置く。
天板には細かい傷がある。
角には少し擦れ。
開くと、キーボードの一部がてかっていた。
前の持ち主が、ここで何かを打っていたのだろう。
会社の資料か、メールか、よく分からない報告書か。
電源アダプタを挿し、ボタンを押す。
少し間があった。
あれ、と思ったところで、ファンが回り始めた。
低い音がして、画面が明るくなる。
「遅いな」
父さんが言った。
「中古だから」
「お前が選んだんだぞ」
「分かってる」
起動するまで、思ったより時間がかかった。
その間、母さんが洗濯物を一枚畳み終えた。
もう一枚いけそうだった。
未来の入口、洗濯物二枚分。
妙に現実的な単位だった。
ようやくデスクトップが表示された。
背景は何の面白みもない標準の画像。
変なソフトはほとんど入っていない。
店で初期化してあるらしい。
父さんが横から画面を覗く。
「まず、変な設定は触るな」
「うん」
「分からない表示が出たら勝手に進めるな」
「分かった」
「パスワードは父さんにも分かるようにする」
「うん」
ここは飲むしかない。
俺の本当の目的を考えると、少し胃が重い。
でも、最初から隠し部屋を作ろうとしたら終わりだ。
まずは勉強と調べ物、資料作成に使う。
しばらくは、その範囲から出ない方がいい。
母さんが、キーボードを見て言った。
「悠真、タイピングできるの?」
「少しは」
「学校で習ったの?」
「まあ、ちょっと」
前の人生で毎日打っていた。
とは言えない。
言えないので、俺は適当にメモ帳を開いた。
キーボードに指を置く。
大人の頃の癖で打とうとして、すぐに違和感が来た。
指が少し小さい。
手の大きさも違う。
キーボードの感触も古い。
ぺたぺたしていて、少し重い。
俺は試しに打った。
『夏休みの予定』
変換は普通にできた。
当たり前だが、少しほっとした。
「お、打てるじゃない」
母さんが感心したように言う。
「このくらいは」
本当はもっと打てる。
だが、ここで速すぎると変に見える。
俺は少しゆっくり、わざと考えるように打った。
面倒くさい演技だ。
でも、三十二歳の速度で中学生がカタカタ打ち始めたら、母さんが妙な顔をする。
父さんは時計を見た。
「今日はこのあと、部屋に置いていい。ただし、夜は九時半までだ」
「分かった」
「あと、風呂掃除」
「今日から?」
「今日から」
来た。
来るとは思っていた。
「分かった」
言った瞬間、買った喜びの何割かが風呂場へ流れていった。
中古パソコンは手に入った。
代償は一万円と風呂掃除。
現実はだいたい請求書つきでやってくる。
◇ ◇ ◇
自分の部屋の机にパソコンを置くと、思ったより場所を取った。
参考書を右に寄せる。
ノートを重ねる。
ペン立てを少し奥へ動かす。
机の上が急に狭くなる。
それでも、悪くなかった。
むしろ、少しだけ部屋の景色が変わった気がした。
中学生の机の上に、会社員時代に見慣れた道具がある。
変な組み合わせだ。
ランドセルではなく、教科書の横に仕事道具が置かれている感じがする。
電源を入れる。
やっぱり遅い。
ファンもそれなりに鳴る。
キーボードの右側が少し温かくなる。
「お前、けっこう頑張ってるな」
思わずパソコンに話しかけた。
危ない。
新品ならともかく、中古のビジネスノートに情を持ち始めている。
人間、金を出すと急に優しくなるらしい。
起動を待っている間に、ガラケーが震えた。
田端からだった。
『パソコンどうなった?』
早い。
どこかで見ていたのかと思うくらい早い。
『買った。中古だけど』
送ると、すぐに返事が来る。
『マジか! ゲーム入れようぜ』
予想通りすぎて、声が出そうになった。
『入れない。父さんとの約束』
『えー』
『ゲーム向きじゃない。仕事用みたいなやつ』
『仕事用って中二が持つやつじゃなくね?』
『俺もそう思う』
送ってから、自分で少し笑った。
田端はすぐにもう一通送ってきた。
『じゃあ何すんの』
『宿題と調べ物』
『真面目か』
『一万円払ったからな』
『急に重い』
重いのはこっちの財布だ。
田端とのメールを閉じて、今度は少し迷った。
白石にも報告するか。
図書館で会った時でもいい。
でも、比較表を一緒に考えてくれたのは白石だ。
買えたことくらいは伝えたい。
俺はガラケーを持ったまま、しばらく画面を見た。
たかが報告メールだ。
何を迷っている。
『パソコン、買えた。中古だけど』
短く打って、送信した。
返事は少ししてから来た。
『よかったね。佐伯くん、ちゃんと説明できたんだ』
その一文を見て、俺は机の端を指で叩いた。
ちゃんと説明できた、か。
白石にそう言われると、父さんに許可された時とはまた違う感じがした。
『白石のメモのおかげ』
送ってから、少しだけ照れた。
何を照れているんだ。
ただの事実だろ。
返事は、今度は少し遅かった。
『少しでも役に立てたなら、うれしい』
文字だけなのに、白石の声で再生された。
困る。
非常に困る。
俺はガラケーを伏せて、パソコンの画面に向き直った。
ちょうど起動が終わっていた。
遅い。
遅いが、ちゃんと動いている。
俺はメモ帳を開いて、さっき打った『夏休みの予定』の下に、宿題、図書館、夏祭り、パソコンの使い方、調べ物、と続けて打っていった。
そこで手が止まった。
株やビットコイン、証券口座という言葉が、すぐ下に並びかける。
自分の机で、自分のパソコンに、未来につながる言葉を打てる。
それが分かっただけで、少し指が止まった。
だが、父さんとの約束がある。
履歴を見られることも、パスワードを共有することも、怪しいことをしないという約束も残っている。
いきなり突っ走れば、一発で没収だ。
俺はキーボードから手を離した。
「焦るな」
小さく言って、代わりに『自由研究』と打った。
かなり無難だ。
無難すぎて眠くなるが、最初はこれでいい。
そう思ったところで、部屋の外から母さんの声がした。
「悠真、風呂掃除、忘れないでね」
「今やる」
俺は椅子から立ち上がった。
パソコンは手に入った。
未来の入口も、たぶん少しだけ開いた。
ただ、その前に風呂場の排水口が俺を待っている。
人生無双とは、だいぶ地味なところから始まるらしい。
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