表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
三十代社畜の俺、中二に戻って人生無双を始める 〜なお宝くじの番号は覚えていない〜  作者: らいお


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
32/51

第二十九話「プールに行く予定ができてしまった」

 次の図書館の日、田端は妙に得意げな顔で現れた。


 市立図書館の入口前で、俺と白石が先に待っていると、田端は鞄を肩に引っかけたまま走ってきた。

 暑い中を走ってきたせいで、前髪が少し汗で張りついている。


「佐伯、白石、聞け!」

「まず汗を拭け」

「それは後だ!」

「いや、今だろ」


 田端は鞄からタオルを出し、雑に顔を拭いた。

 そのあと、なぜか勝ち誇った顔で小さな封筒を取り出す。


「市民プールの割引券を手に入れた」


 封筒の中から、青い券が何枚か出てきた。

 夏休みらしい絵が印刷されていて、端の方に市民プールの名前が入っている。


「どこから出てきたんだ、それ」

「姉ちゃんが友達と行く予定だったけど、別のプール行くことになったらしい。で、俺がもらった」

「もらったというか、押しつけられたんじゃないのか」

「まあ……似たようなもんだな」


 自分で認めるのか。


 田端は券をぱらぱらと広げた。


「五枚ある。俺、佐伯、杉浦、小野、白石でちょうどじゃね?」


 白石の名前が自然に入った。

 それ自体は、かなりいいことなのだと思う。

 少し前なら、こういう場に白石の名前が出ることはなかった。


 ただ、俺は白石の方を見た。

 彼女は少しだけ目を丸くして、田端の手元の券を見ている。


「プール……」


 小さくつぶやいた声には、楽しみ以外のものも混ざっていた。

 人が多い場所で、学校の外で、男子も女子もいる夏休みのイベントだ。

 着替えのこともある。

 そりゃ身構える。


 考えることはいくつもある。

 俺が全部拾って先回りすると、たぶん違う。

 そういうのは、保護者ムーブだ。

 やりがちだから気をつけろ、俺。


「無理に行く話じゃないぞ」


 俺が言うと、田端が「あ」と気づいた顔をした。


「そうそう。無理なら全然いい。俺と佐伯と杉浦で男だらけプールしてもいいし」

「それはそれで暑苦しいな」

「杉浦めっちゃ泳ぎそう」

「あいつはプールでも走りそうだ」


 白石が少し笑った。

 その笑い方を見て、田端はほっとしたように割引券を封筒へ戻した。


 ちょうどその時、小野が図書館の方から歩いてきた。

 手には本が二冊ある。


「何の話?」

「市民プール」


 田端がすぐに券を見せた。

 小野はそれを見て、ぱっと顔を明るくする。


「いいじゃん、行きたい!」

「即答だな」

「夏休みだし!」


 小野はそこで白石の方を見た。

 誘い方に一瞬だけ迷ったように見えたが、すぐに少し笑う。


「白石さんも、よかったら一緒に行かない? 私、女子一人だとちょっと寂しいし」


 白石は手元の鞄を握り直した。

 すぐには返事をしない。

 俺は口を出さず、図書館の自動ドアの方を見た。

 中から冷房の匂いが少しだけ流れてくる。

 外は暑い。

 待つだけでも汗が出る。

 でも、ここで急かすよりはましだ。


「……泳ぐの、あんまり得意じゃないけど」


 白石が言った。


「私もそんなに泳がないよ。流れるプールとか、日陰で休むとか、そのくらい」

「それなら」


 白石は一度、俺の方を見た。

 何かを確認するような目だった。

 俺は肩をすくめる。


「田端が変な泳ぎ方をしたら止める係は必要かもな」

「俺が変な泳ぎ方する前提やめろ」

「前科しかないだろ」

「水中ではまだない」

「陸上であるなら十分だ」


 小野が笑った。

 白石も、少しだけ口元をゆるめた。


「じゃあ……行ってみようかな」


 その声は小さかったが、自分で選んだ声だった。

 誰かに押されて仕方なく、という感じではなかった。


 田端は大げさにうなずく。


「よし、決定。杉浦にもメールしとく。あいつ絶対来る」

「部活は?」

「午前だけの日があるって言ってた」

「勝手に決めて怒られないか」

「杉浦はプールって言えば来る」


 すごい信頼だ。

 雑すぎるが、たぶん当たっている。


 白石は割引券を見ながら、少しだけ不安そうにした。


「持ち物、何がいるかな」

「水着とタオルと、着替えと、飲み物。あと小銭」

「浮き輪は?」


 田端が言う。


「お前が使うのか?」

「いや、あったら楽しいかなって」

「市民プールで中二男子が浮き輪持ってはしゃぐの、なかなかきついぞ」

「佐伯、人生楽しめよ」

「楽しみ方を選ばせろ」


 白石がくすっと笑った。

 最近、その笑い方を見るたびに、俺は少しだけ安心する。

 変にきれいな言葉にする必要はない。

 単純に、笑っているとほっとする。


 そういうことにしておく。

 変に考え始めると、また面倒になる。


 ◇ ◇ ◇


 市民プールの日は、朝からしっかり晴れていた。


 家を出る前、母さんが玄関で俺を見た。

 手には洗濯かごを持っている。


「プール、誰と行くの?」

「田端と杉浦と、小野と白石」


 言ってから、しまったと思った。

 白石の名前を出す時だけ、母さんの目が少しだけ楽しそうになる。


「白石さんも行くのね」

「みんなで行くだけ」

「分かってるわよ」

「その分かってるは分かってないやつだろ」

「熱中症に気をつけなさい」


 急に普通の母親に戻るな。

 調子が狂う。


 母さんはペットボトルを一本渡してきた。


「凍らせておいたから、持っていきなさい」

「ありがとう」

「あと、ちゃんと日焼け止め塗った?」

「塗った」

「本当に?」

「本当に」


 三十二歳の中身で日焼け止めを確認されるのは、地味にくる。

 でも、十四歳の肌は普通に焼ける。

 前の人生で日焼けのあとにシャワーで泣いた記憶があるので、そこは素直に従った。


 駅前に着くと、田端がすでにいた。

 今日は珍しく早い。

 浮かれているのが顔に出ている。


「佐伯、遅い」

「またお前が早いだけだろ」

「プールの日は早くなる」

「小学生か」

「夏休みだぞ。小学生に戻る日だ」


 言っていることは馬鹿だが、少し分からなくもない。

 夏休みのプールには、妙な力がある。


 杉浦は自転車で来た。

 肩から大きめのスポーツバッグを提げている。


「おはよ。部活より楽な気分で来た」

「プールで本気出すなよ」

「流れるプールなら流される」

「そういう普通の返事ができるやつだったのか」


 小野は少し遅れて来た。

 白石と一緒だった。


 二人で並んで歩いてくるのを見た瞬間、俺は少しだけ目線の置き場に困った。

 まだ普通の夏服なのに、これからプールに行くという情報が余計な仕事をする。


 やめろ。

 仕事をするな。

 お前は今日、監視役でも保護者でもなく、普通の中二男子のふりをしていればいい。

 いや、ふりではなく普通の中二男子なのだが。


「おはよう」


 白石が少し控えめに言った。


「おはよう」

「暑いね」

「朝から本気出しすぎだな」

「夏が?」

「夏が」


 白石はちょっと笑った。

 それから、鞄の持ち手を握り直す。


「今日、よろしくね」

「こちらこそ」


 何をよろしくされているのか分からないが、妙に背筋が伸びた。

 田端が横から覗き込んでくる。


「なんか二人だけ朝の挨拶が丁寧じゃね?」

「お前も丁寧に挨拶しろ」

「おはようございます、佐伯様」

「気持ち悪い」

「ひどい」


 小野が「田端くん、朝から元気だね」と笑い、杉浦が「プール前だからだろ」と普通に返した。

 白石はそのやり取りの横で、肩の力を少し抜いたように見えた。


 ◇ ◇ ◇


 市民プールは、すでに家族連れでにぎわっていた。


 入口前には浮き輪を持った小学生や、日傘を差した母親たちが並んでいる。

 券売機の前で田端が割引券を取り出し、なぜか係員みたいな顔をした。


「本日は田端ツアーへようこそ」

「割引券を持ってるだけで偉そうにするな」

「参加者の皆様、迷子にならないように」

「お前が一番危ない」


 白石が小さく笑った。

 小野がその隣で、白石の手元のバッグを見て言う。


「白石さん、荷物それだけ?」

「うん。多いと、どこに何を入れたか分からなくなりそうで」

「分かる。私、今日ちょっと詰めすぎた」


 小野が自分のバッグを持ち上げる。

 たしかに少し重そうだった。


「タオル二枚持ってきちゃった」

「え、偉い」

「偉いのかな」

「私、一枚だけだから」

「じゃあ何かあったら貸すね」


 白石は少し驚いたように小野を見て、それからうなずいた。


「ありがとう。助かる」


 そのやり取りを見て、俺は財布を出しながら少しだけ口元をゆるめた。

 白石が誰かに助けてもらうことを、前より自然に受け取っている。

 昔の俺なら気づかなかったかもしれない。

 今の俺は、そういう小さい変化ばかり見てしまう。


 悪い癖かもしれない。

 でもまあ、見えるものを見えないふりするのも疲れる。


 入場して、男女で更衣室が分かれる。

 男子更衣室は、だいたい騒がしい。

 田端は着替えながらもしゃべり続け、杉浦は手際よく水着に着替えている。


「佐伯、泳げる?」

「普通」

「普通って何メートル?」

「人に迷惑をかけない程度」

「それ普通か?」

「普通だろ」


 杉浦が横から笑った。


「田端は?」

「俺は勢いで泳ぐ」

「一番危ないやつだ」


 着替え終えてプールサイドに出ると、熱い床の感触が足裏にきた。

 水面が夏の光を反射して、やけにまぶしい。


 俺たちは女子二人が出てくるのを、売店近くの日陰で待つことになった。

 田端はすでにプールに入りたそうにそわそわしている。


「まだかな」

「急かすな」

「いや、プールが俺を呼んでる」

「幻聴だ」


 そんなことを言っていると、小野が先に出てきた。

 紺色のラッシュガードを羽織っていて、手にはタオルを持っている。


「お待たせ」

「小野、泳げる?」

「普通」

「普通多くね?」


 田端が笑った。


 その後ろから、白石が出てきた。


 白石は水色のラッシュガードを着ていた。

 髪は後ろでまとめていて、いつもより首元が見える。

 派手さはなく、むしろ控えめだ。

 それなのに、俺は一瞬だけ反応が遅れた。


 頭では落ち着けと言っているのに、十四歳の身体が余計な仕事をする。

 三十二歳の自制心とやらは、こういう時に限って出勤が遅い。


「……お待たせ」


 白石が少し照れたように言った。


「いや、待ってない」

「佐伯、さっきまで待ってたぞ」

「田端」

「はい」


 余計なことを言うな、という目を向けると、田端はなぜか敬礼した。

 小野が「田端くん、今日は口を閉じる練習もしようか」と言った。


「それ難しくない?」

「難しくても頑張ろう」

「小野、先生みたい」

「うるさい」


 白石が口元を押さえて笑った。

 その笑顔に助けられて、俺はようやく普通の顔に戻れた気がした。


「白石、足元熱いから気をつけて」

「うん。ありがとう」


 白石はプールサイドを少し慎重に歩いた。

 水に入る前、片足の先で水温を確かめる。


「冷たい?」

「ちょっとだけ」

「最初だけだと思う」

「うん」


 白石は小野に促されて、ゆっくり水に入った。

 肩の力が少し抜ける。


「思ったより、大丈夫かも」


 白石がぽつりと言った。


「よかった」


 俺がそう返すと、白石はこちらを見て、少しだけ笑った。


「まだ、足だけだけど」

「足だけでも進歩だろ」

「うん。そういうことにしておくね」


 かわいい言い方をするな。

 いや、落ち着け。

 水深は浅い。だが、俺の思考の方が危ない。


 ◇ ◇ ◇


 流れるプールは、田端の独壇場だった。


「流されるぞ!」

「流れるプールだからな」

「もっとこう、全身で受け止めろよ」

「何をだよ」


 田端は水の流れに身を任せたり、逆向きに歩いてみたり、すぐに監視員に注意されそうなぎりぎりのところを攻める。

 杉浦は普通に泳ぎたそうだったが、小野に「まずみんなで一周」と言われておとなしく流されていた。


 白石は最初、小野の少し後ろにいた。

 人が近づくたびに、肩が小さく動く。

 それでも、前みたいに固まって動けなくなる感じはない。


 俺は近づきすぎない距離で、白石の横を歩いた。

 助けが必要なら届く。

 でも、手を引くほどでもない。

 こういう距離感が一番難しい。

 仕事ならまだしも、中二のプールで何を真面目に悩んでいるんだ俺は。


「佐伯くん」


 白石が小さく呼んだ。


「うん?」

「流れるの、ちょっと楽しいね」

「田端みたいにはしゃがなければ、楽しいと思う」

「あれは、ちょっと難しそう」

「真似しなくていい」


 前方で田端が水に足を取られ、変な声を出した。

 杉浦が笑い、小野が「ほら、言ったでしょ」と言う。


 白石も笑った。

 水面の近くで、その声が少しだけ軽く聞こえる。


「来てよかったかも」


 白石が言った。

 まだ途中なのに、そんなことを言う。

 俺は返事を探して、結局普通の言葉になった。


「それならよかった」

「うん」


 白石は水の流れに合わせて、ほんの少しだけ前に出た。

 小野が振り返って「白石さん、こっち」と手を振る。

 白石は迷わず、そちらへ向かった。


 俺はその背中を見て、少しだけ頭をかいた。

 手を貸す場面が減っている。

 寂しい、と言うほど大げさな話でもない。

 ただ、少し暇になった。


 まあ、暇なくらいがいいのだろう。

 助けが必要な状態がずっと続くより、ずっとましだ。


「佐伯!」


 田端が水の向こうから呼ぶ。


「こっち来い! 杉浦が本気出すって!」

「プールで何の本気だよ」


 俺はため息をつきながら、そちらへ向かった。

 せっかく暇になったと思ったのに、田端の相手が残っていた。

 楽はできないらしい。


 ◇ ◇ ◇


 しばらく遊んだあと、俺たちは休憩時間に売店近くの日陰へ移動した。


 プールでは定期的に休憩の放送が入る。

 笛の音が鳴り、監視員が水から上がるように促すのだ。

 水から出た瞬間、体が少し重くなった。


 田端はすぐにかき氷ののぼりを見つけた。


「かき氷食おうぜ!」

「さっき昼飯前って言ってただろ」

「かき氷は水分だ」

「都合のいい分類だな」


 結局、全員で売店に並ぶことになった。

 田端はブルーハワイ、杉浦はいちご、小野はレモンを選んだ。


 白石は少し迷っている。


「白石は?」

「えっと……どれがいいかな」

「好きなのでいいだろ」

「そうなんだけど、こういうの、迷う」


 白石はメニューを見上げたまま、少しだけ困った顔をした。

 その顔が、なんだか普通の中学生らしくて、俺は少し気が抜けた。


「じゃあ、宇治金時」

「急に渋いね」

「冗談」


 白石は小さく笑った。


「じゃあ、いちごにする。普通だけど」

「普通でいいと思う」

「佐伯くんは?」

「俺はみぞれ」

「渋いの、佐伯くんだったね」


 白石が少しだけ得意そうに言った。

 そういう返しをされると思っていなかったので、俺は一瞬だけ黙った。


「……うまいこと言ったな」

「ちょっとだけ」


 白石は照れたように目を伏せた。

 小野が隣でにやっとする。


「白石さん、今のよかった」

「やめて。恥ずかしくなる」

「かわいい」

「小野さん」


 白石が本当に困った顔をしたので、小野は笑いながら「ごめんごめん」と手を振った。

 田端はかき氷を受け取りながら、何も分かっていない顔でこちらを見る。


「何の話?」

「田端にはまだ早い話」

「なんだそれ」


 俺の方も処理が追いついていない。

 かき氷より先に、頭の中を冷やした方がいい。


 かき氷を食べながら、俺たちは日陰のベンチに座った。

 白石はスプーンで少しずついちご味の氷を崩している。

 一口食べて、目を細めた。


「冷たい」

「かき氷だからな」

「うん。でも、おいしい」


 言い方が素直すぎる。

 俺はみぞれを口に入れ、こめかみのあたりがきんとした。


「佐伯くん、大丈夫?」

「大丈夫。脳が少し抗議してるだけ」

「ふふ。ゆっくり食べないと」

「三十二歳にもなって、かき氷で注意されるとは」

「三十二歳?」


 しまった。


「いや……三十二歳くらいの気持ちで落ち着いて食べるべきだった、という意味」

「そういう意味?」

「そういう意味にしておいてくれ」


 白石は少し不思議そうにして、それから笑った。


「佐伯くん、やっぱり時々変」

「今日二回目だぞ、それ」

「ごめん。でも、嫌じゃないから」


 さらっと言うのをやめてほしい。

 いや、やめなくていい。

 どっちだ。


 俺が返事に困っていると、田端が「佐伯、みぞれ一口くれ」と割り込んできた。

 助かった。

 いや、助かっていない気もする。


「自分の食え」

「ブルーハワイ、舌が青くなる」

「それを選んだのはお前だ」


 田端は「見ろ」と舌を出そうとして、小野に即座に止められた。

 杉浦が普通に笑っている。

 白石も、声を出して笑っていた。


 その笑い声を聞きながら、俺はみぞれをもう一口食べた。

 今度は少しゆっくりにした。

 また白石に注意されるのは、なんとなく悔しい。


 ◇ ◇ ◇


 午後になると、人はさらに増えた。


 流れるプールも混み始め、俺たちは少し空いている二十五メートルプールの端へ移動した。

 ここは泳ぐ人が多く、ふざけすぎるとすぐに目立つ。

 田端にはちょうどいい制限だった。


「競争しようぜ」


 ちょうどよくなかった。


「田端、休憩明けにいきなり競争するな」

「短距離ならいける」

「お前、勢いで泳ぐんだろ」

「勢いは大事」


 杉浦は少し笑ってから、ゴーグルを直した。


「俺は軽くなら」

「杉浦が言う軽くは信用できない」


 小野が呆れたように言い、白石はプールの端に手を置いていた。


「白石は無理しなくていいぞ」


 俺が言うと、白石は少しだけ考えた。


「うん。でも、少しだけ泳いでみたいかも」

「大丈夫か?」

「たぶん。小学校の時は、少し泳げたから」


 そう言って、白石は小野の方を見た。


「小野さん、一緒に行ってもいい?」

「もちろん」


 小野がすぐに答えた。

 白石はほっとしたようにうなずく。


 俺は余計なことを言わないように、プールの端で立っていた。

 田端が隣で小声で言う。


「佐伯、心配性だな」

「うるさい」

「保護者かよ」

「うるさい」


 二回言った。

 それくらいしか返せなかった。


 白石は小野と並んで、ゆっくり泳ぎ始めた。

 速くはない。

 フォームもたぶん綺麗というほどじゃない。

 でも、自分で水に顔をつけて、少しずつ前へ進んでいる。


 途中で立ち止まり、白石は顔を上げた。

 小野が何か言い、白石がうなずく。

 それから、もう少しだけ泳いだ。


 俺はプールの端に手を置いたまま、それを見ていた。


「佐伯、顔」


 田端が言った。


「何」

「めっちゃ真面目」

「泳ぎを見てただけだ」

「父兄参観みたい」

「お前、今日一番刺さること言うな」


 田端は笑った。

 こっちは笑えない。

 いや、少し笑った。


 白石が戻ってきた。

 息が少し上がっているが、顔は明るい。


「泳げた……!」


 白石が言った。

 その一言が、思ったより嬉しそうだった。


「見てたよ」

「変じゃなかった?」

「全然」

「本当に?」

「本当に」


 白石は少しだけ安心したように笑った。


「よかった」


 その顔を見たら、こっちまで気が抜けた。

 田端が横から「じゃあ次、佐伯も泳げ」と言ってきた。


「なぜそうなる」

「白石が泳いだんだから佐伯も泳げ」

「理屈が雑すぎる」

「夏休みだから」

「万能の言葉にするな」


 結局、俺も少しだけ泳がされた。

 体は十四歳なので、思ったより動く。

 ただ、中身が三十二歳なので、すぐに疲れた気分になる。

 面倒な組み合わせだ。


 ◇ ◇ ◇


 帰る頃には、全員かなり疲れていた。


 田端だけはまだ元気そうに見えたが、足取りは朝より少し重い。

 杉浦は「明日の部活きついかも」と言い、小野は「だから無茶するなって言ったのに」と返していた。


 白石は髪を下ろしていて、少し湿っていた。

 プールの後の塩素の匂いと、夕方の熱気が混ざっている。

 夏休みだな、と思った。

 それ以上のいい言葉は出てこない。


 駅前で田端と杉浦が先に別れ、小野もバス停の方へ向かった。

 白石とは、少しだけ同じ方向だった。


 昨日も、その前も、似たような場面があった気がする。

 偶然が続くと、こちらの頭が勝手に変な意味を足そうとする。

 やめろ。

 ただの帰り道だ。


「今日は疲れたな」


 俺が言うと、白石はうなずいた。


「うん。でも、楽しかった」

「それならよかった」


 白石は少し歩いてから、鞄の紐を両手で持った。


「行く前は、ちょっと怖かったんだ」

「うん」

「人が多いところ、まだ少し苦手だから」

「そりゃそうだろ」


 俺がそう言うと、白石は少しだけこちらを見た。


「佐伯くん、そこで大丈夫って言わないんだね」

「大丈夫かどうかは俺が決めることじゃないしな」

「そっか」


 白石は前を向いた。

 歩道の端に、夕方の影が伸びている。


「でも、来てよかった」


 その声は、「行ってみようかな」と言った時より少しはっきりしていた。


 俺は返事をしようとして、少し遅れた。

 白石の横顔が、なんだか満足そうだったからだ。

 笑っている、というほど大きくはない。

 でも、口元がほんの少しだけゆるんでいる。


「……うん」


 遅れて出た返事は、かなり間の抜けたものだった。


 白石がこちらを見る。


「どうしたの?」

「いや、疲れが出た」

「佐伯くん、今日けっこう泳いでたもんね」

「田端のせいでな」

「ふふ。田端くん、楽しそうだった」


 白石はそう言って、小さく笑った。


 俺は鞄の紐を肩にかけ直した。

 父さんに見せるメモは、まだ書き直していない。

 参考書も進めないといけない。

 プールでへばっている場合じゃない。


 でも今日は、帰ったら少しだけ早く寝たい。

 三十二歳の社畜みたいなことを考えているのに、足は普通に十四歳の夏休みでだるい。


「また、どこか行けるといいね」


 白石が言った。


 俺はまた少し返事に遅れた。

 今度は疲れのせいだけではなかったと思う。


「そうだな」


 それだけ言うと、白石は嬉しそうにうなずいた。


 駅前の角で白石と別れて、俺は家の方へ歩いた。

 鞄の中には濡れたタオルと、まだ片づけていないパソコンのカタログが入っている。


 帰ったら、まずタオルを出す。

 メモはそのあとだ。

 そこを間違えると、母さんに怒られる。


 未来の前に、まず濡れたタオルを洗濯機へ入れる。

 まあ、そういう日もある。


「面白かった」「続きが読みたい!」と思っていただけましたら、ぜひブックマーク・評価・感想などで応援していただけると嬉しいです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ