第二十九話「プールに行く予定ができてしまった」
次の図書館の日、田端は妙に得意げな顔で現れた。
市立図書館の入口前で、俺と白石が先に待っていると、田端は鞄を肩に引っかけたまま走ってきた。
暑い中を走ってきたせいで、前髪が少し汗で張りついている。
「佐伯、白石、聞け!」
「まず汗を拭け」
「それは後だ!」
「いや、今だろ」
田端は鞄からタオルを出し、雑に顔を拭いた。
そのあと、なぜか勝ち誇った顔で小さな封筒を取り出す。
「市民プールの割引券を手に入れた」
封筒の中から、青い券が何枚か出てきた。
夏休みらしい絵が印刷されていて、端の方に市民プールの名前が入っている。
「どこから出てきたんだ、それ」
「姉ちゃんが友達と行く予定だったけど、別のプール行くことになったらしい。で、俺がもらった」
「もらったというか、押しつけられたんじゃないのか」
「まあ……似たようなもんだな」
自分で認めるのか。
田端は券をぱらぱらと広げた。
「五枚ある。俺、佐伯、杉浦、小野、白石でちょうどじゃね?」
白石の名前が自然に入った。
それ自体は、かなりいいことなのだと思う。
少し前なら、こういう場に白石の名前が出ることはなかった。
ただ、俺は白石の方を見た。
彼女は少しだけ目を丸くして、田端の手元の券を見ている。
「プール……」
小さくつぶやいた声には、楽しみ以外のものも混ざっていた。
人が多い場所で、学校の外で、男子も女子もいる夏休みのイベントだ。
着替えのこともある。
そりゃ身構える。
考えることはいくつもある。
俺が全部拾って先回りすると、たぶん違う。
そういうのは、保護者ムーブだ。
やりがちだから気をつけろ、俺。
「無理に行く話じゃないぞ」
俺が言うと、田端が「あ」と気づいた顔をした。
「そうそう。無理なら全然いい。俺と佐伯と杉浦で男だらけプールしてもいいし」
「それはそれで暑苦しいな」
「杉浦めっちゃ泳ぎそう」
「あいつはプールでも走りそうだ」
白石が少し笑った。
その笑い方を見て、田端はほっとしたように割引券を封筒へ戻した。
ちょうどその時、小野が図書館の方から歩いてきた。
手には本が二冊ある。
「何の話?」
「市民プール」
田端がすぐに券を見せた。
小野はそれを見て、ぱっと顔を明るくする。
「いいじゃん、行きたい!」
「即答だな」
「夏休みだし!」
小野はそこで白石の方を見た。
誘い方に一瞬だけ迷ったように見えたが、すぐに少し笑う。
「白石さんも、よかったら一緒に行かない? 私、女子一人だとちょっと寂しいし」
白石は手元の鞄を握り直した。
すぐには返事をしない。
俺は口を出さず、図書館の自動ドアの方を見た。
中から冷房の匂いが少しだけ流れてくる。
外は暑い。
待つだけでも汗が出る。
でも、ここで急かすよりはましだ。
「……泳ぐの、あんまり得意じゃないけど」
白石が言った。
「私もそんなに泳がないよ。流れるプールとか、日陰で休むとか、そのくらい」
「それなら」
白石は一度、俺の方を見た。
何かを確認するような目だった。
俺は肩をすくめる。
「田端が変な泳ぎ方をしたら止める係は必要かもな」
「俺が変な泳ぎ方する前提やめろ」
「前科しかないだろ」
「水中ではまだない」
「陸上であるなら十分だ」
小野が笑った。
白石も、少しだけ口元をゆるめた。
「じゃあ……行ってみようかな」
その声は小さかったが、自分で選んだ声だった。
誰かに押されて仕方なく、という感じではなかった。
田端は大げさにうなずく。
「よし、決定。杉浦にもメールしとく。あいつ絶対来る」
「部活は?」
「午前だけの日があるって言ってた」
「勝手に決めて怒られないか」
「杉浦はプールって言えば来る」
すごい信頼だ。
雑すぎるが、たぶん当たっている。
白石は割引券を見ながら、少しだけ不安そうにした。
「持ち物、何がいるかな」
「水着とタオルと、着替えと、飲み物。あと小銭」
「浮き輪は?」
田端が言う。
「お前が使うのか?」
「いや、あったら楽しいかなって」
「市民プールで中二男子が浮き輪持ってはしゃぐの、なかなかきついぞ」
「佐伯、人生楽しめよ」
「楽しみ方を選ばせろ」
白石がくすっと笑った。
最近、その笑い方を見るたびに、俺は少しだけ安心する。
変にきれいな言葉にする必要はない。
単純に、笑っているとほっとする。
そういうことにしておく。
変に考え始めると、また面倒になる。
◇ ◇ ◇
市民プールの日は、朝からしっかり晴れていた。
家を出る前、母さんが玄関で俺を見た。
手には洗濯かごを持っている。
「プール、誰と行くの?」
「田端と杉浦と、小野と白石」
言ってから、しまったと思った。
白石の名前を出す時だけ、母さんの目が少しだけ楽しそうになる。
「白石さんも行くのね」
「みんなで行くだけ」
「分かってるわよ」
「その分かってるは分かってないやつだろ」
「熱中症に気をつけなさい」
急に普通の母親に戻るな。
調子が狂う。
母さんはペットボトルを一本渡してきた。
「凍らせておいたから、持っていきなさい」
「ありがとう」
「あと、ちゃんと日焼け止め塗った?」
「塗った」
「本当に?」
「本当に」
三十二歳の中身で日焼け止めを確認されるのは、地味にくる。
でも、十四歳の肌は普通に焼ける。
前の人生で日焼けのあとにシャワーで泣いた記憶があるので、そこは素直に従った。
駅前に着くと、田端がすでにいた。
今日は珍しく早い。
浮かれているのが顔に出ている。
「佐伯、遅い」
「またお前が早いだけだろ」
「プールの日は早くなる」
「小学生か」
「夏休みだぞ。小学生に戻る日だ」
言っていることは馬鹿だが、少し分からなくもない。
夏休みのプールには、妙な力がある。
杉浦は自転車で来た。
肩から大きめのスポーツバッグを提げている。
「おはよ。部活より楽な気分で来た」
「プールで本気出すなよ」
「流れるプールなら流される」
「そういう普通の返事ができるやつだったのか」
小野は少し遅れて来た。
白石と一緒だった。
二人で並んで歩いてくるのを見た瞬間、俺は少しだけ目線の置き場に困った。
まだ普通の夏服なのに、これからプールに行くという情報が余計な仕事をする。
やめろ。
仕事をするな。
お前は今日、監視役でも保護者でもなく、普通の中二男子のふりをしていればいい。
いや、ふりではなく普通の中二男子なのだが。
「おはよう」
白石が少し控えめに言った。
「おはよう」
「暑いね」
「朝から本気出しすぎだな」
「夏が?」
「夏が」
白石はちょっと笑った。
それから、鞄の持ち手を握り直す。
「今日、よろしくね」
「こちらこそ」
何をよろしくされているのか分からないが、妙に背筋が伸びた。
田端が横から覗き込んでくる。
「なんか二人だけ朝の挨拶が丁寧じゃね?」
「お前も丁寧に挨拶しろ」
「おはようございます、佐伯様」
「気持ち悪い」
「ひどい」
小野が「田端くん、朝から元気だね」と笑い、杉浦が「プール前だからだろ」と普通に返した。
白石はそのやり取りの横で、肩の力を少し抜いたように見えた。
◇ ◇ ◇
市民プールは、すでに家族連れでにぎわっていた。
入口前には浮き輪を持った小学生や、日傘を差した母親たちが並んでいる。
券売機の前で田端が割引券を取り出し、なぜか係員みたいな顔をした。
「本日は田端ツアーへようこそ」
「割引券を持ってるだけで偉そうにするな」
「参加者の皆様、迷子にならないように」
「お前が一番危ない」
白石が小さく笑った。
小野がその隣で、白石の手元のバッグを見て言う。
「白石さん、荷物それだけ?」
「うん。多いと、どこに何を入れたか分からなくなりそうで」
「分かる。私、今日ちょっと詰めすぎた」
小野が自分のバッグを持ち上げる。
たしかに少し重そうだった。
「タオル二枚持ってきちゃった」
「え、偉い」
「偉いのかな」
「私、一枚だけだから」
「じゃあ何かあったら貸すね」
白石は少し驚いたように小野を見て、それからうなずいた。
「ありがとう。助かる」
そのやり取りを見て、俺は財布を出しながら少しだけ口元をゆるめた。
白石が誰かに助けてもらうことを、前より自然に受け取っている。
昔の俺なら気づかなかったかもしれない。
今の俺は、そういう小さい変化ばかり見てしまう。
悪い癖かもしれない。
でもまあ、見えるものを見えないふりするのも疲れる。
入場して、男女で更衣室が分かれる。
男子更衣室は、だいたい騒がしい。
田端は着替えながらもしゃべり続け、杉浦は手際よく水着に着替えている。
「佐伯、泳げる?」
「普通」
「普通って何メートル?」
「人に迷惑をかけない程度」
「それ普通か?」
「普通だろ」
杉浦が横から笑った。
「田端は?」
「俺は勢いで泳ぐ」
「一番危ないやつだ」
着替え終えてプールサイドに出ると、熱い床の感触が足裏にきた。
水面が夏の光を反射して、やけにまぶしい。
俺たちは女子二人が出てくるのを、売店近くの日陰で待つことになった。
田端はすでにプールに入りたそうにそわそわしている。
「まだかな」
「急かすな」
「いや、プールが俺を呼んでる」
「幻聴だ」
そんなことを言っていると、小野が先に出てきた。
紺色のラッシュガードを羽織っていて、手にはタオルを持っている。
「お待たせ」
「小野、泳げる?」
「普通」
「普通多くね?」
田端が笑った。
その後ろから、白石が出てきた。
白石は水色のラッシュガードを着ていた。
髪は後ろでまとめていて、いつもより首元が見える。
派手さはなく、むしろ控えめだ。
それなのに、俺は一瞬だけ反応が遅れた。
頭では落ち着けと言っているのに、十四歳の身体が余計な仕事をする。
三十二歳の自制心とやらは、こういう時に限って出勤が遅い。
「……お待たせ」
白石が少し照れたように言った。
「いや、待ってない」
「佐伯、さっきまで待ってたぞ」
「田端」
「はい」
余計なことを言うな、という目を向けると、田端はなぜか敬礼した。
小野が「田端くん、今日は口を閉じる練習もしようか」と言った。
「それ難しくない?」
「難しくても頑張ろう」
「小野、先生みたい」
「うるさい」
白石が口元を押さえて笑った。
その笑顔に助けられて、俺はようやく普通の顔に戻れた気がした。
「白石、足元熱いから気をつけて」
「うん。ありがとう」
白石はプールサイドを少し慎重に歩いた。
水に入る前、片足の先で水温を確かめる。
「冷たい?」
「ちょっとだけ」
「最初だけだと思う」
「うん」
白石は小野に促されて、ゆっくり水に入った。
肩の力が少し抜ける。
「思ったより、大丈夫かも」
白石がぽつりと言った。
「よかった」
俺がそう返すと、白石はこちらを見て、少しだけ笑った。
「まだ、足だけだけど」
「足だけでも進歩だろ」
「うん。そういうことにしておくね」
かわいい言い方をするな。
いや、落ち着け。
水深は浅い。だが、俺の思考の方が危ない。
◇ ◇ ◇
流れるプールは、田端の独壇場だった。
「流されるぞ!」
「流れるプールだからな」
「もっとこう、全身で受け止めろよ」
「何をだよ」
田端は水の流れに身を任せたり、逆向きに歩いてみたり、すぐに監視員に注意されそうなぎりぎりのところを攻める。
杉浦は普通に泳ぎたそうだったが、小野に「まずみんなで一周」と言われておとなしく流されていた。
白石は最初、小野の少し後ろにいた。
人が近づくたびに、肩が小さく動く。
それでも、前みたいに固まって動けなくなる感じはない。
俺は近づきすぎない距離で、白石の横を歩いた。
助けが必要なら届く。
でも、手を引くほどでもない。
こういう距離感が一番難しい。
仕事ならまだしも、中二のプールで何を真面目に悩んでいるんだ俺は。
「佐伯くん」
白石が小さく呼んだ。
「うん?」
「流れるの、ちょっと楽しいね」
「田端みたいにはしゃがなければ、楽しいと思う」
「あれは、ちょっと難しそう」
「真似しなくていい」
前方で田端が水に足を取られ、変な声を出した。
杉浦が笑い、小野が「ほら、言ったでしょ」と言う。
白石も笑った。
水面の近くで、その声が少しだけ軽く聞こえる。
「来てよかったかも」
白石が言った。
まだ途中なのに、そんなことを言う。
俺は返事を探して、結局普通の言葉になった。
「それならよかった」
「うん」
白石は水の流れに合わせて、ほんの少しだけ前に出た。
小野が振り返って「白石さん、こっち」と手を振る。
白石は迷わず、そちらへ向かった。
俺はその背中を見て、少しだけ頭をかいた。
手を貸す場面が減っている。
寂しい、と言うほど大げさな話でもない。
ただ、少し暇になった。
まあ、暇なくらいがいいのだろう。
助けが必要な状態がずっと続くより、ずっとましだ。
「佐伯!」
田端が水の向こうから呼ぶ。
「こっち来い! 杉浦が本気出すって!」
「プールで何の本気だよ」
俺はため息をつきながら、そちらへ向かった。
せっかく暇になったと思ったのに、田端の相手が残っていた。
楽はできないらしい。
◇ ◇ ◇
しばらく遊んだあと、俺たちは休憩時間に売店近くの日陰へ移動した。
プールでは定期的に休憩の放送が入る。
笛の音が鳴り、監視員が水から上がるように促すのだ。
水から出た瞬間、体が少し重くなった。
田端はすぐにかき氷ののぼりを見つけた。
「かき氷食おうぜ!」
「さっき昼飯前って言ってただろ」
「かき氷は水分だ」
「都合のいい分類だな」
結局、全員で売店に並ぶことになった。
田端はブルーハワイ、杉浦はいちご、小野はレモンを選んだ。
白石は少し迷っている。
「白石は?」
「えっと……どれがいいかな」
「好きなのでいいだろ」
「そうなんだけど、こういうの、迷う」
白石はメニューを見上げたまま、少しだけ困った顔をした。
その顔が、なんだか普通の中学生らしくて、俺は少し気が抜けた。
「じゃあ、宇治金時」
「急に渋いね」
「冗談」
白石は小さく笑った。
「じゃあ、いちごにする。普通だけど」
「普通でいいと思う」
「佐伯くんは?」
「俺はみぞれ」
「渋いの、佐伯くんだったね」
白石が少しだけ得意そうに言った。
そういう返しをされると思っていなかったので、俺は一瞬だけ黙った。
「……うまいこと言ったな」
「ちょっとだけ」
白石は照れたように目を伏せた。
小野が隣でにやっとする。
「白石さん、今のよかった」
「やめて。恥ずかしくなる」
「かわいい」
「小野さん」
白石が本当に困った顔をしたので、小野は笑いながら「ごめんごめん」と手を振った。
田端はかき氷を受け取りながら、何も分かっていない顔でこちらを見る。
「何の話?」
「田端にはまだ早い話」
「なんだそれ」
俺の方も処理が追いついていない。
かき氷より先に、頭の中を冷やした方がいい。
かき氷を食べながら、俺たちは日陰のベンチに座った。
白石はスプーンで少しずついちご味の氷を崩している。
一口食べて、目を細めた。
「冷たい」
「かき氷だからな」
「うん。でも、おいしい」
言い方が素直すぎる。
俺はみぞれを口に入れ、こめかみのあたりがきんとした。
「佐伯くん、大丈夫?」
「大丈夫。脳が少し抗議してるだけ」
「ふふ。ゆっくり食べないと」
「三十二歳にもなって、かき氷で注意されるとは」
「三十二歳?」
しまった。
「いや……三十二歳くらいの気持ちで落ち着いて食べるべきだった、という意味」
「そういう意味?」
「そういう意味にしておいてくれ」
白石は少し不思議そうにして、それから笑った。
「佐伯くん、やっぱり時々変」
「今日二回目だぞ、それ」
「ごめん。でも、嫌じゃないから」
さらっと言うのをやめてほしい。
いや、やめなくていい。
どっちだ。
俺が返事に困っていると、田端が「佐伯、みぞれ一口くれ」と割り込んできた。
助かった。
いや、助かっていない気もする。
「自分の食え」
「ブルーハワイ、舌が青くなる」
「それを選んだのはお前だ」
田端は「見ろ」と舌を出そうとして、小野に即座に止められた。
杉浦が普通に笑っている。
白石も、声を出して笑っていた。
その笑い声を聞きながら、俺はみぞれをもう一口食べた。
今度は少しゆっくりにした。
また白石に注意されるのは、なんとなく悔しい。
◇ ◇ ◇
午後になると、人はさらに増えた。
流れるプールも混み始め、俺たちは少し空いている二十五メートルプールの端へ移動した。
ここは泳ぐ人が多く、ふざけすぎるとすぐに目立つ。
田端にはちょうどいい制限だった。
「競争しようぜ」
ちょうどよくなかった。
「田端、休憩明けにいきなり競争するな」
「短距離ならいける」
「お前、勢いで泳ぐんだろ」
「勢いは大事」
杉浦は少し笑ってから、ゴーグルを直した。
「俺は軽くなら」
「杉浦が言う軽くは信用できない」
小野が呆れたように言い、白石はプールの端に手を置いていた。
「白石は無理しなくていいぞ」
俺が言うと、白石は少しだけ考えた。
「うん。でも、少しだけ泳いでみたいかも」
「大丈夫か?」
「たぶん。小学校の時は、少し泳げたから」
そう言って、白石は小野の方を見た。
「小野さん、一緒に行ってもいい?」
「もちろん」
小野がすぐに答えた。
白石はほっとしたようにうなずく。
俺は余計なことを言わないように、プールの端で立っていた。
田端が隣で小声で言う。
「佐伯、心配性だな」
「うるさい」
「保護者かよ」
「うるさい」
二回言った。
それくらいしか返せなかった。
白石は小野と並んで、ゆっくり泳ぎ始めた。
速くはない。
フォームもたぶん綺麗というほどじゃない。
でも、自分で水に顔をつけて、少しずつ前へ進んでいる。
途中で立ち止まり、白石は顔を上げた。
小野が何か言い、白石がうなずく。
それから、もう少しだけ泳いだ。
俺はプールの端に手を置いたまま、それを見ていた。
「佐伯、顔」
田端が言った。
「何」
「めっちゃ真面目」
「泳ぎを見てただけだ」
「父兄参観みたい」
「お前、今日一番刺さること言うな」
田端は笑った。
こっちは笑えない。
いや、少し笑った。
白石が戻ってきた。
息が少し上がっているが、顔は明るい。
「泳げた……!」
白石が言った。
その一言が、思ったより嬉しそうだった。
「見てたよ」
「変じゃなかった?」
「全然」
「本当に?」
「本当に」
白石は少しだけ安心したように笑った。
「よかった」
その顔を見たら、こっちまで気が抜けた。
田端が横から「じゃあ次、佐伯も泳げ」と言ってきた。
「なぜそうなる」
「白石が泳いだんだから佐伯も泳げ」
「理屈が雑すぎる」
「夏休みだから」
「万能の言葉にするな」
結局、俺も少しだけ泳がされた。
体は十四歳なので、思ったより動く。
ただ、中身が三十二歳なので、すぐに疲れた気分になる。
面倒な組み合わせだ。
◇ ◇ ◇
帰る頃には、全員かなり疲れていた。
田端だけはまだ元気そうに見えたが、足取りは朝より少し重い。
杉浦は「明日の部活きついかも」と言い、小野は「だから無茶するなって言ったのに」と返していた。
白石は髪を下ろしていて、少し湿っていた。
プールの後の塩素の匂いと、夕方の熱気が混ざっている。
夏休みだな、と思った。
それ以上のいい言葉は出てこない。
駅前で田端と杉浦が先に別れ、小野もバス停の方へ向かった。
白石とは、少しだけ同じ方向だった。
昨日も、その前も、似たような場面があった気がする。
偶然が続くと、こちらの頭が勝手に変な意味を足そうとする。
やめろ。
ただの帰り道だ。
「今日は疲れたな」
俺が言うと、白石はうなずいた。
「うん。でも、楽しかった」
「それならよかった」
白石は少し歩いてから、鞄の紐を両手で持った。
「行く前は、ちょっと怖かったんだ」
「うん」
「人が多いところ、まだ少し苦手だから」
「そりゃそうだろ」
俺がそう言うと、白石は少しだけこちらを見た。
「佐伯くん、そこで大丈夫って言わないんだね」
「大丈夫かどうかは俺が決めることじゃないしな」
「そっか」
白石は前を向いた。
歩道の端に、夕方の影が伸びている。
「でも、来てよかった」
その声は、「行ってみようかな」と言った時より少しはっきりしていた。
俺は返事をしようとして、少し遅れた。
白石の横顔が、なんだか満足そうだったからだ。
笑っている、というほど大きくはない。
でも、口元がほんの少しだけゆるんでいる。
「……うん」
遅れて出た返事は、かなり間の抜けたものだった。
白石がこちらを見る。
「どうしたの?」
「いや、疲れが出た」
「佐伯くん、今日けっこう泳いでたもんね」
「田端のせいでな」
「ふふ。田端くん、楽しそうだった」
白石はそう言って、小さく笑った。
俺は鞄の紐を肩にかけ直した。
父さんに見せるメモは、まだ書き直していない。
参考書も進めないといけない。
プールでへばっている場合じゃない。
でも今日は、帰ったら少しだけ早く寝たい。
三十二歳の社畜みたいなことを考えているのに、足は普通に十四歳の夏休みでだるい。
「また、どこか行けるといいね」
白石が言った。
俺はまた少し返事に遅れた。
今度は疲れのせいだけではなかったと思う。
「そうだな」
それだけ言うと、白石は嬉しそうにうなずいた。
駅前の角で白石と別れて、俺は家の方へ歩いた。
鞄の中には濡れたタオルと、まだ片づけていないパソコンのカタログが入っている。
帰ったら、まずタオルを出す。
メモはそのあとだ。
そこを間違えると、母さんに怒られる。
未来の前に、まず濡れたタオルを洗濯機へ入れる。
まあ、そういう日もある。
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