第十七話「学年順位という名の信用残高」
期末テストが終わって数日後。
教室には、テスト前とは別の緊張が漂っていた。
答案返却である。
テスト前なら、まだ言い訳ができる。
昨日あまり寝ていないとか、範囲が広すぎるとか、先生の出し方が悪いとか。
もちろん言い訳したところで点は増えないのだが、始まる前ならまだ、頭の中でいくらでも逃げ道を作れた。
返却日は違う。
もう赤ペンは走り終わっている。
こちらが何を思おうと、答案の右上に書かれた数字は動かない。
社会人時代の評価面談に少し似ていた。
もっとも、評価面談よりは答案用紙のほうがまだ公平だ。
少なくとも、問題用紙は途中で仕様変更してこない。
「悠真」
田端が死人のような顔で振り返った。
「俺、今日で人生終わるかもしれん」
「赤点ひとつで人生は終わらない」
「ひとつで済むと思ってる?」
「そこは自信を持つな」
田端は机に額をつけた。
ただ、前ほど完全に諦めた顔ではない。
どこかに少しだけ期待が残っている。
あれだけ暗記カードを回したのだ。
数学も最初の問題は解けたと言っていた。
少なくとも、何もしていなかった前よりは結果が出るはずだ。
白石は自分の席で静かにノートを開いていた。
答案返却前にノートを開く意味は、正直あまりない。
だが、彼女にとっては落ち着くための動作なのだろう。
目が合うと、白石は小さくうなずいた。
俺も短くうなずき返す。
それだけで、肩に入っていた力が少し抜ける。
……まずいな、と思う。
白石の一言や表情に助けられる場面が、普通に増えている。
嬉しいのは事実だ。
だからこそ、机の端に置いた消しゴムを指で少し押して、余計な方向へ気持ちが滑らないようにした。
俺は視線を机の上に戻した。
今は結果だ。
今日ばかりは、紙に書かれたものから逃げられない。
◇ ◇ ◇
最初に返ってきたのは国語だった。
答案用紙が配られ、俺の机に裏向きで置かれる。
紙をめくる。
九十二点。
思わず息が漏れそうになった。
かなりいい。
大人の読解力と、白石の漢字ノートがきれいに効いている。
ただ、満点ではない。
記述で少し落としている。
選択肢もひとつ、深読みしすぎて外していた。
人生二回目でも、国語の深読みは普通に敵だった。
「佐伯、すご」
近くの男子が答案を見て言った。
俺は反射的に答案を少し伏せる。
「たまたまだ」
「たまたまで九十点超えるかよ」
「漢字を拾えたのが大きかった」
そこで白石のほうを見そうになって、やめた。
だが、視界の端で白石が少しだけこちらを見たのが分かった。
次に返ってきた社会は、九十点。
これもかなりいい。
資料読み取りで稼ぎ、用語問題も暗記カードが効いた。
細かいところで落としているが、十分だ。
英語は八十五点。
単語と文法は取れた。
長文で少し落とした。
大人になっても、英語を使ってこなかったツケはある。
理科は八十一点。
用語は取れたが、計算問題で少し落とした。
質量保存の法則は守られても、俺の点数は守られなかった。
そして、問題の数学。
答案用紙が配られる時、手のひらが少し汗ばんだ。
未来を知っている男が、中学数学の返却で緊張している。
絵面としてはかなり情けない。
だが、現実は情けなさ込みで現実だ。
紙をめくる。
七十六点。
俺はしばらく、その数字を見つめた。
高くはない。
少なくとも、無双と呼ぶには地味すぎる。
だが、悪くない。
途中式を飛ばしていたら、もっと落としていた。
一次関数の文章題も、白石に教わった表を思い出さなければ空欄だったかもしれない。
答案の端に、赤ペンで途中式への丸がいくつかついている。
その丸が、妙に嬉しかった。
余白に作った小さな表も、消さずに残っている。
きれいな答案ではないが、昨日まで手を動かした跡だけはあった。
「悠真」
田端が震える声で呼んだ。
「見て」
差し出された数学の答案を見る。
点数は、平均より少し下。
だが、赤点ではない。
「回避してる」
「してるよな?」
「してる」
「俺、生きてる」
「おめでとう」
田端は机に突っ伏した。
今度は絶望ではなく、安堵の突っ伏しだった。
「最初の計算問題、取れてた」
「よかったな」
「問題文を読んだ」
「それで褒められる中学二年生」
「褒めて」
「偉い」
「やった」
素直に喜んでいる。
田端の場合、この素直さが本当に強みだ。
白石も答案を返されていた。
さすがに点数をのぞくような真似はしない。
ただ、彼女の表情は落ち着いている。
たぶん、かなり取れている。
休み時間になると、田端が真っ先に白石へ聞いた。
「白石さん、どうだった?」
「えっと、思ったよりよかった」
「思ったよりって、どのくらい」
「田端」
俺が止めると、田端は「あ」と口を開けた。
「ごめん、聞きすぎた」
「ううん。大丈夫」
白石は少し迷ってから、控えめに答案を見せた。
国語も社会も数学も、かなり高い。
学年上位の点だ。
「すごいな」
俺が言うと、白石は小さく首を振った。
「佐伯くんたちと勉強したから」
「いや、白石は元からちゃんと積んでた」
「でも、前より焦らなかった。佐伯くんが、順番を決めればいいって言ってくれたから」
その言い方は反則だった。
自分の言葉が、彼女の中に残っていた。
それが嬉しくないわけがない。
口元が緩みそうになって、俺は答案用紙の端を指でならした。
ここで浮かれた顔をするのは違う。
白石の点数は、白石が鉛筆を動かして取ったものだ。
「それでも、解いたのは白石だ」
俺が言うと、白石は目を瞬かせた。
「ちゃんと白石の点だ」
白石は、少しだけ俯いた。
耳がほんのり赤い。
「……ありがとう」
小さな声だった。
それでも、ちゃんと聞こえた。
田端が横でにやけている。
「何だ」
「いや、別に」
「絶対に余計なことを考えてる顔だな」
「考えてない考えてない」
「二回言うやつはだいたい考えてる」
田端は視線を逸らした。
分かりやすい。
◇ ◇ ◇
すべての答案が返った後、個票が配られた。
五教科の合計。
平均点。
学年順位。
俺は紙を裏返し、ゆっくりめくった。
合計は四百二十四点。
学年順位は二十六位。
思ったより上だった。
だが、圧倒的一位ではない。
上にはまだ、普通に化け物みたいな点数のやつらがいる。
満点近く取っている連中もいるだろう。
それでいい。
いきなり学年一位など取ったら、不自然すぎる。
前の俺の成績を考えると、二十六位でも十分すぎるくらい目立つ。
むしろ、ちょうどいい。
努力した結果として説明できる範囲で、それでも明らかに変化が分かる順位。
先生や親に見せた時、少なくとも「最近どうした」とは聞かれるはずだ。
「佐伯、二十六位?」
近くの男子が声を上げた。
声が少し大きい。
教室の何人かがこちらを見る。
「まじ?」
「前、そんな上だったっけ」
「最近ずっと勉強してたもんな」
ざわめきが広がる。
俺は個票を机に伏せた。
目立つ。
これは目立つ。
成績が上がるのは嬉しい。
だが、教室の中で急に名前が目立つのはまた別の緊張がある。
順位表というのは、思ったより人の視線を集める。
高村先生が教室の前からこちらを見ていた。
目が合うと、彼女は少しだけ微笑んだ。
「佐伯くん」
呼ばれる。
俺は立ち上がり、教卓の前へ行った。
「最近、本当に頑張っているね」
その声は、教室全体に聞こえるほど大きくはない。
だが、近くの生徒には聞こえている。
「ありがとうございます」
「提出物も全部出ているし、答案も途中式が丁寧になっていた。何か勉強の仕方を変えた?」
「少し、順番を決めてやるようにしました」
「順番?」
「取れるところから落とさないように」
高村先生は少し驚いた顔をした。
それから、感心したようにうなずく。
「それ、すごく大事だと思う」
教師からの評価が、少し変わったのが分かった。
いじめの件で先生を動かした、少し扱いに困る男子。
それだけではなく、最近ちゃんと頑張っている生徒。
高村先生の目の中で、その二つが少しだけ並んだ気がした。
教卓から戻ると、田端が小声で言った。
「悠真、先生に褒められてる」
「お前も赤点回避で褒められろ」
「俺も褒められたい」
「まず提出物を丁寧にしろ」
「現実が厳しい」
現実は厳しい。
だが、田端の顔は少し明るかった。
◇ ◇ ◇
昼休みになると、予想外のことが起きた。
クラスメイトが何人か、俺の席へ来たのだ。
普段あまり話さない男子もいる。
女子も一人、少し距離を置いて立っていた。
「佐伯、どうやって勉強したの」
「急に上がりすぎじゃね」
「暗記カードって本当に効く?」
質問が続く。
俺は少し面食らった。
この手の反応は予想していたが、実際に来るとやはり戸惑う。
目立つことは、チャンスでもあるが危険でもある。
調子に乗っているように見えれば、すぐに榊原の言葉へつながる。
俺はできるだけ普通の声で答えた。
「全部を完璧にしようとしないで、点になりやすいところからやっただけ」
「点になりやすいところ?」
「提出物、暗記、基本問題。そこを落とさない」
「それだけ?」
「それだけをちゃんとやるのが意外と面倒」
田端が横からうなずいた。
「面倒だった」
「お前は特に」
「でも俺、赤点回避したし」
「そこは誇っていい」
田端が胸を張る。
クラスメイトが笑った。
その笑いは、悪い感じではなかった。
女子の一人が、白石のほうを見た。
「白石さんのノートも見やすいって聞いた」
白石の肩が、ほんの少しだけ固まった。
榊原の取り巻きではない。
悪意もなさそうだ。
でも、急に名前を出されるとまだ緊張するのだろう。
俺は助け舟を出しかけた。
白石のノートはすごい。
見やすい。
そう言えば、会話は簡単に進む。
だが、少しだけ待った。
白石は自分のノートに手を置いた。
それから、小さく口を開く。
「えっと……範囲を分けると、少し見やすいと思う」
声は大きくない。
でも、ちゃんと聞こえた。
「今すぐ覚えるところと、後で確認するところを分けるだけでも、少し楽になるから」
言えた。
俺は息を止めていたことに気づき、ゆっくり吐いた。
白石はちらりと俺を見る。
俺は小さくうなずいた。
よく言えた。
そう口に出すのは違う気がした。
でも、伝わったのか、白石はほんの少しだけ表情を緩めた。
その様子を、教室の前のほうから榊原が見ていた。
面白くなさそうな顔だった。
以前のように笑ってはいない。
取り巻きと何かを言い合うこともない。
ただ、静かにこちらを見ている。
だが、教室の空気は少しずつ変わっている。
白石が話しても、誰かがすぐに笑うわけではない。
田端が赤点回避を自慢しても、馬鹿にする笑いだけではない。
俺が勉強法を聞かれても、全員が敵になるわけではない。
女子の一人が、白石の説明を聞きながら「それ、次の小テストでも使えそう」と言った。
白石は少し驚いた顔をして、それから「たぶん」と小さく答えた。
たぶん、という声は頼りなかったが、ちゃんと相手に届いていた。
榊原の視線は、まだこちらに残っている。
それでも白石は、自分のノートを閉じなかった。
◇ ◇ ◇
放課後、高村先生に呼び止められた。
教室のざわめきが少し残っている中で、先生は俺の机の横に来る。
手には、何枚かのプリントがあった。
「佐伯くん」
「はい」
俺は立ち上がる。
「テストの結果もそうだけど、最近、周りの子に勉強を教えたり、落ち着いて動いたりしているでしょう」
「そんな大したことは」
「ううん。先生は助かってる」
先生の言葉に、少しだけ背筋が伸びた。
高村先生からこういう言葉をもらえるのは、かなり大きい。
親を説得する時にも、学校生活を動かす時にも、あとで必ず効いてくる。
ただ、先生が持っているプリントの枚数を見る限り、褒めるためだけに来たわけではなさそうだった。
高村先生は、少し声を落とした。
「佐伯くん、少しお願いしたいことがあるんだけど」
俺は内心で身構えた。
頑張りを見せると、頼まれることも増える。
社会人時代に嫌というほど知っていたことを、中学の教室で思い出すとは思わなかった。
俺は先生の手元のプリントを見て、少しだけ嫌な予感を覚えた。
日間、週間1位ありがとうございます!
まさかこんなに読んでいただけるとは思っていなかったのでビビっている部分もありますが、まずは率直に嬉しいです。
その一方で、展開の遅さをご指摘いただいています。これはまさに本当だな、と思った部分で丁寧に書きすぎていたかもしれません。
次話からはもう少し人間関係部分にフォーカスを当てて書いていこうと思いますので、楽しみにしていただけるとありがたいです。
皆様の意見を反映しつつ、私らしい小説を書いていこうと思いますので、ぜひ感想などで教えていただきたいです。
引き続き、よろしくお願いいたします!




