第十六話「期末テストは未来知識で解けない」
期末テスト初日の朝、教室の空気はいつもと違っていた。
いつもなら朝から騒いでいるやつの声が、少しだけ小さい。
普段は鞄から教科書を出した時点で仕事を終えた顔をするやつまで、今日はやたらとプリントをめくっている。
机の上には、なぜか消しゴムを二つ置いているやつもいた。
消しゴムを二つ置いたところで点数は増えない。
だが、気持ちは分かる。
大人になってからも、重要な会議の前に無駄にペンを何本も確認した記憶がある。
不安になると道具を増やすのは、たぶん中学生も会社員もあまり変わらない。
「悠真」
田端が青い顔でやって来た。
手には昨日作った暗記カードの束がある。
輪ゴムで留められたそれは、もはやお守りのように握られていた。
「俺、昨日覚えたやつが朝起きたら半分消えてた」
「半分残ってるなら勝ちだ」
「勝ちなの?」
「ゼロじゃない」
「基準が優しいようで厳しい」
田端は自分の席に座るなり、カードをめくり始めた。
昨日ならすぐ飽きていたはずだ。
今日は一応、目が文字を追っている。
進歩だと思う。
たぶん。たぶんであってほしい。
白石も教室に入ってきた。
鞄を置き、机の中を一度だけ確認する。
その動きは、まだ完全には消えていない。
だが、確認した後の表情は昨日より落ち着いていた。
目が合う。
「おはよう、佐伯くん」
「おはよう」
白石は小さくうなずき、自分の席に座った。
それだけのやり取りなのに、田端がこちらを見る。
「お前ら、朝の挨拶が自然になってきたな」
「挨拶は自然でいいだろ」
「いや、いいんだけどさ」
「何だ」
「何でもないです」
田端はにやけかけて、俺の視線を見てカードへ戻った。
余計なことを言うな。
今はテスト前だ。
俺も余計なことを考えるな。
白石は聞こえていたのか、少しだけ耳のあたりが赤い気がした。
気のせいかもしれない。
気のせいということにしておく。
俺は自分の机に鉛筆を並べ、消しゴムの角を少しだけ確認した。
定規と時計も置く。
やっていることは田端と大差ない。
スマホはもちろんない。
直前に暗記アプリを開いて、なんとなく勉強した気になる逃げ道もない。
紙と鉛筆と、自分の頭だけ。
原始的すぎる。
ただ、机の上がすっきりしているぶん、もう諦めてやるしかないという気分にもなった。
チャイムが鳴る少し前、白石が小さくこちらを向いた。
「佐伯くん」
「ん?」
声は本当に小さかった。
田端にも、周囲にも聞こえないくらいの声。
「落ち着いて」
短い一言だった。
俺は一瞬、返事を忘れた。
昨日までなら、俺が白石に言う側だった言葉だ。
大丈夫か、とか。
無理するな、とか。
落ち着け、とか。
それを、今は白石が俺に言っている。
胸の奥が少しだけ揺れた。
嬉しい、と思ってしまった。
だが、その嬉しさに浸っている場合ではない。
俺は小さく息を吐き、うなずいた。
「ありがとう。助かった」
白石は少しだけ安心したように微笑み、前を向いた。
その横顔を見続けないように、俺も机の上へ視線を戻した。
まだ何も配られていない、木目の入った机の上だ。
今は、テストだ。
浮かれている場合ではない。
高村先生が教室に入ってきた。
手には問題用紙と答案用紙の束。
教室のざわめきが、すっと細くなる。
「では、机の上は筆記用具だけにしてください」
暗記カードが鞄にしまわれる。
プリントが机の中へ消える。
教科書が閉じられる。
いよいよだ。
未来知識も、社会人経験も、三十二歳の精神年齢も、答案用紙の前ではたいして偉そうな顔をしてくれない。
結局、書けるかどうかだ。
◇ ◇ ◇
最初の国語は、思ったより手応えがあった。
漢字は白石のノートがかなり効いた。
昨日までに確認した読みが、いくつかそのまま出ている。
田端ならここで小さくガッツポーズをしそうだが、俺は我慢した。
中身は三十二歳。
テスト中にガッツポーズはまずい。
文章読解は、大人の経験が少しだけ役に立った。
登場人物の心情も、筆者の主張も、接続語の流れも、昔よりは目で追いやすい。
中学生の頃は、文章の中を手探りで歩くような感覚だった。
今は、道の形が少し見える。
どこに段落の切れ目があり、どこで主張が反転し、どの一文を根拠にすべきか。
もちろん、簡単すぎるわけではない。
問題文の聞き方はいやらしい。
選択肢には、もっともらしい罠が混じっている。
それでも、前の人生で積み重ねた文章を読む経験は無駄ではなかった。
終了のチャイムが鳴った時、俺は小さく息を吐いた。
悪くない。
少なくとも、真っ白になって手が止まるような感じではなかった。
休み時間になると、田端が魂の半分だけ戻ってきた顔で振り向いた。
「漢字、カードにあったやつ出た」
「取れたか?」
「たぶん」
「たぶんじゃなくて取れ」
「試験中の俺に言って」
遅い。
白石は答案の話を大きな声ではしなかった。
ただ、こちらを見て小さくうなずいた。
その表情だけで、彼女も手応えがあったのだと分かった。
二時間目の社会も、比較的戦えた。
未来を知っているから解ける、というより、社会人になってからの一般常識が効いた。
ニュースで聞いた地名や、仕事で見た資料の読み方。
大人になってからようやくつながった歴史の流れ。
中学生の頃は、ただ丸暗記だった。
今は、少しだけ意味が分かる。
その差は、思っていたより大きかった。
ただし、細かい年号はやはり怪しい。
未来の株価はうっすら覚えていても、教科書の端にある用語までは覚えていない。
世界は不便にできている。
それでも、暗記カードの山から出た用語はいくつか救えた。
白石が整理して、田端が妙に悔しがって、俺が横から口を出したあの紙の束。
あれは、ちゃんと点になっている。
◇ ◇ ◇
問題は、三時間目の数学だった。
始まる前から、教室の空気が少し重い。
田端は明らかに遠い目をしている。
白石は静かに鉛筆を持っている。
榊原のほうは見なかった。
今は他人の空気まで背負っている余裕がない。
問題用紙が配られる。
裏返しの紙を前に、俺は一度深く息を吸った。
落ち着いて。
白石の声が頭の中で再生される。
情けない話だが、本当に効いた。
心臓の速度が少しだけ戻る。
開始の合図。
紙をめくる。
最初は計算問題だった。
いける。
ここで調子に乗るな、と自分に言い聞かせる。
途中式を飛ばさない。符号を見る。マイナスを置き去りにしない。
昨日までなら雑に進めていたところを、一行ずつ書く。
面倒くさい。
だが、面倒くさいことを省くと点が消える。
自分で田端に言った言葉が、今度は自分に返ってくる。
次は連立方程式。
これもいける、と思った瞬間が一番危ない。
代入して、加減して、最後に確認する。
問題用紙の余白に、小さく式を残す。
字は相変わらずきれいではない。
白石に見られたら、また今後の課題と言われるだろう。
だが、本番では読めればいい。
中盤までは、悪くなかった。
問題が起きたのは、一次関数の文章題だった。
条件を読んだ瞬間、頭の中に霧が出た。
見たことはある。
解き方も、たぶん知っている。
だが、どこから式を立てればいいのか、一瞬つかめない。
まずい。
焦ると、文字が滑る。
問題文をもう一度読む。
それでも、数字と条件が頭の中でうまく並ばない。
ビットコインが伸びることは知っている。
NVIDIA株が大きく上がることも、スマホが当たり前になって世の中の情報の流れが変わることも知っている。
知っているのに、目の前の一次関数には普通に手が止まる。
情けないが、そういうものらしい。
未来知識は、答案用紙の余白に勝手に式を書いてくれない。
手が止まりかけた。
その時、昨日の白石の声を思い出した。
先に表にすると分かりやすいと思う。
俺は問題用紙の余白に、小さな表を書いた。
条件を書き込み、分かっている数を並べる。
何を求めるのかを丸で囲んだ。
すると、霧が少し晴れた。
全部が見えたわけではないが、少なくとも最初の一歩くらいは見えた。
俺は鉛筆を動かした。
途中式を書き、符号を見て、答えを出す。
もう一度代入して確認する。
時間は少し使った。
完璧な解き方ではないかもしれない。
それでも、空欄で出すよりはずっといい。
ふと視界の端に、白石が見えた。
彼女は落ち着いて問題を解いている。
姿勢は崩れていない。
鉛筆の動きも丁寧だ。
助けられてばかりの子、という言い方はもう違う。
今の俺は、普通に彼女の言葉とやり方に助けられている。
少し離れた席で、田端は一瞬だけ天井を見た。
魂が抜けかけている。
戻ってこい。
問題文を読め。
声には出せないので、心の中で念を送る。
効果があったのかは分からない。
田端はしばらくして、また答案用紙に向き直った。
最後の問題は難しかった。
時間も足りない。
俺は満点を諦め、取れるところだけを書いた。
昔の俺なら、難問にこだわって基本問題の見直しを捨てていたかもしれない。
今はそこまで格好つけない。
全部取れなくてもいいから、取れるところを落とさない。
言葉にすると地味だが、本番ではその地味さが一番ありがたい。
終了のチャイムが鳴る。
鉛筆を置いた瞬間、肩から力が抜けた。
未来を知っていても、テスト本番は普通に疲れる。
机に置いた手のひらが、少し汗ばんでいた。
◇ ◇ ◇
答案用紙が回収されると、教室の空気が一気に戻った。
あちこちで悲鳴が上がった。
答え合わせを始めるやつもいれば、終わった終わったと騒ぐやつもいる。
無言で机に突っ伏すやつもいた。
田端はもちろん、机に突っ伏す側だった。
「生きてるか」
「ぎりぎり」
「数学は?」
「分かる問題があった」
「おお」
「分かる問題があるって、こんなに嬉しいんだな」
田端が顔だけをこちらに向ける。
目は疲れているが、完全に死んではいなかった。
「暗記カードも出たし、数学も最初のほうは書けた」
「いいじゃないか」
「悠真」
「何だ」
田端は妙に真面目な顔になった。
「俺、少しだけ分かった」
その言葉に、俺は少し笑った。
赤点回避より前に、まずそこだ。
分かる問題が一つでもあると、人間は次の問題にも手を伸ばす顔になる。
田端の場合、その顔になるまでにずいぶん時間がかかった。
白石が席からこちらを見た。
目が合うと、彼女は小さく口元を緩めた。
「佐伯くん、落ち着いてたね」
「白石のおかげだ」
「私?」
「最初に言ってくれただろ。落ち着いてって」
白石は少しだけ驚いた顔をした。
それから、視線を落とす。
「言っただけだよ」
「言われただけで助かることもある」
言ってから、少し踏み込みすぎたかと思った。
だが、白石は嫌そうではなかった。
むしろ、少し照れたようにノートの端を指でなぞっている。
俺はそこで言葉を止めた。
これ以上は、今じゃない。
田端が横からのそのそと起き上がる。
「白石さん、俺にも落ち着いてって言って」
「え?」
「次のテスト前に」
「田端はまず落ち着く前に問題文を読め」
「悠真、厳しい」
「本当のことだ」
白石が笑った。
田端も文句を言いながら笑う。
教室の端では、榊原たちが何か話している。
こちらを見る視線はまだある。
だが、今の白石はその視線だけで席を立ったりはしなかった。
彼女は自分の机の上で、次の教科の準備をしている。
静かに、普通に。
その普通さを、俺は少し大げさなくらい嬉しいと思った。
俺は鞄から次の科目の教科書を出しながら、息を吐いた。
テストはまだ終わっていない。
結果も分からない。
父さんに見せられる点になるかどうかも、教師からの信用につながるかどうかも、まだ先だ。
ただ、回収されていく答案用紙を見ていると、昨日までやったことがところどころ鉛筆の跡として残っている気はした。
暗記カードで見た漢字。消しゴムで何度も直した途中式。白石に言われて余白に書いた表。田端が悔しそうにめくっていたカード。
そういう細かいもののほうが、本番になると案外しぶとい。
田端が次の教科書を開きながら、真顔で言った。
「悠真、俺、もしかして赤点回避できるかもしれん」
俺はうなずいた。
「その可能性を、次のテストで自分から潰すなよ」
「現実が厳しい」
現実は厳しい。
田端はそう言いながらも、教科書を閉じなかった。
ページの端を指で押さえ、次の範囲を目で追っている。
昨日までなら、たぶん寝たふりをしていた。
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