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三十代社畜の俺、中二に戻って人生無双を始める 〜なお宝くじの番号は覚えていない〜  作者: らいお


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第十五話「暗記カードと未来知識」

 翌日の朝、範囲表を眺めていて、嫌になるくらい当たり前のことに気づいた。

 未来知識は、英単語を覚えてくれない。


 いや、本当に当たり前だ。

 ビットコインが将来伸びることを知っていても、importantの綴りは自動で頭に入らない。

 NVIDIA株を買えばよかったと未来の俺が後悔していても、理科の用語は答案用紙に降ってこない。


 今の俺がやることは、昨日間違えたところをもう一度見るとか、漢字を手で書くとか、英単語を口に出すとか、そういう話だった。

 人生無双という言葉に、こんなに鉛筆の芯の粉っぽさがあるとは思わなかった。


 俺は朝の教室で、ノートの新しいページを開いた。

 昨日の反省を踏まえて、テスト範囲をもう一段階だけ雑に分ける。

 覚えれば点になるもの、理解しないと危ないもの、最後に回してもいいもの。

 きれいな分類というより、今の俺が焦らないための逃げ道に近い。


 数学や理科の計算は理解が必要。

 漢字、英単語、社会の用語は覚えるだけで点になる。

 もちろん深く理解したほうがいい。

 だが、期末前の限られた時間でそんな理想を言っていると、全部きれいに沈む。

 完璧主義は、時々ただの先延ばしになる。

 大人になってから嫌というほど見たやつだ。自分の仕事でも、他人の仕事でも。


「悠真、朝から顔が怖い」


 田端が席に鞄を置きながら言った。


「現実を見てる顔だ」

「現実ってそんなに怖いの?」

「提出物と暗記と数学が同時に迫ってくる」

「怖いわ」


 田端は素直に怯えた。

 その理解は早い。


 白石も少し遅れて席についた。

 昨日より、教室に入る時の動きがわずかに自然だった。

 周囲をまったく気にしていないわけではない。

 それでも、足が止まることはなかった。


「おはよう」

「おはよう、白石」

「おはよう、白石さん」


 田端が軽く手を上げる。

 白石は小さくうなずいてから、俺のノートを見た。


「また分けてるの?」

「今度は暗記用」

「暗記用?」

「今日の図書室で、覚えるだけのところを一気に潰す」


 田端が露骨に嫌そうな顔をした。


「一気に?」

「一気に」

「俺、暗記って聞くと眠くなるんだけど」

「知ってる。だからカードにする」

「カード?」


 俺は鞄から、昨日家で切ってきた小さな紙束を出した。

 いらないプリントの裏を使った、簡易暗記カードだ。

 本当はリング付きの単語カードが欲しい。

 だが、今の俺に自由に使える金は少ない。

 まずは紙で十分だ。


 田端は紙束を見て、少しだけ興味を示した。


「これで何すんの」

「表に問題、裏に答えを書く」

「普通じゃん」

「普通は強い」

「出た、悠真の大人っぽい言葉」

「じゃあ子どもっぽく言う。これで点を拾う」

「急に分かりやすい」


 白石がくすっと笑った。


 その笑いに、教室の端から視線が一瞬だけ来た。

 榊原の取り巻きの一人だ。

 だが、何も言ってこない。


 白石はその視線に気づいたようだった。

 少しだけ指が止まる。

 けれど、ノートを閉じたり、顔を伏せたりはしなかった。


 俺はあえて何も触れず、紙束を机の中央に置いた。


「今日の放課後、これを使う。白石、悪いけど見やすい書き方を一緒に考えてくれ」

「うん。私でよければ」

「田端は答える係」

「書く係じゃないんだ」

「お前が書くと、後で自分でも読めない可能性がある」

「ひどくない?」

「昨日のワークを見たうえで言ってる」

「事実が一番痛い」


 田端が机に突っ伏す。

 白石は笑いをこらえながら、紙束を一枚手に取った。


「でも、田端くんが自分で読める字で書いたほうが覚えるかも」

「白石さんが優しい」

「じゃあ、汚すぎたら書き直しな」

「悠真が厳しい」


 朝の教室で、三人でこういうくだらない話をしている。

 それだけなのに、少し前を思うと妙にありがたかった。

 普通というのは、壊れたあとで急に値段が分かるものらしい。


 ◇ ◇ ◇


 放課後の図書室で、俺たちは暗記カード作りを始めた。


 机の上には、切った紙の束と範囲表、白石のノート、田端の英語ワーク、それから俺の少し雑な計画表が並んだ。

 こうして広げてみると、文化祭の準備みたいだった。

 内容は期末テスト対策だが。


「まず分類する」


 俺は紙を三つの山に分けた。


「英単語。漢字。社会と理科の用語」

「数学は?」

「カードより手を動かす」

「数学だけ扱いが違う」

「数学はごまかせない」


 昨日、身をもって知った。

 途中式を飛ばすと死ぬ。

 点数が。


 白石は俺の分け方を見て、すぐに紙の端へ小さく印をつけ始めた。


「英語は左上に小さく英って書く?」

「いいな」

「漢字は国、社会は社、理科は理」

「分かりやすい」

「あと、裏の答えは大きめに書いたほうがいいと思う。田端くんがすぐ見られるように」

「俺基準?」

「田端基準」

「俺、基準になった」


 田端が少し嬉しそうにする。

 そこは喜んでいいのか微妙だ。


 白石はさらに、紙を縦向きと横向きで分けた。


「英単語は表に日本語、裏に英語。漢字は表に読み、裏に漢字。社会と理科は表に説明、裏に用語がいいかも」

「完璧だ」

「そんなことないよ」

「いや、完璧。俺が考えるより早い」


 俺が言うと、白石は少しだけ照れたように目を伏せた。

 それでも、手は止めない。


 この几帳面さは本当に強い。

 俺はビットコインのウォレットやバックアップのことを思い出しそうになり、慌てて頭から追い出した。

 今は秘密鍵ではなく英単語だ。

 未来の大金より、目の前のimportantである。


「じゃあ始めるぞ」


 俺は一枚目のカードを田端に向けた。


「重要な」

「important」

「正解」

「よし」


 田端が小さく拳を握る。

 昨日より反応が早い。


「次。必要な」

「えーっと、necessary」

「正解」

「俺、いけるんじゃね?」

「その調子に乗った瞬間が危ない」

「昨日から調子に乗るって言葉、怖くない?」


 田端の何気ない言葉に、少しだけ空気が止まった。

 白石も手元を見たまま、鉛筆を止める。

 榊原の言葉が、頭の隅をかすめる。


『佐伯くんって、ほんと調子乗ってるよね』


 俺はカードを軽く机に置いた。


「じゃあ、調子じゃなくて点に乗ろう」

「何それ」

「点数に乗せる。覚えたら点になる」

「うまいこと言った感じ?」

「言った本人も判断に迷ってる」


 田端が笑った。

 白石も、少し遅れて笑う。

 止まりかけた空気が、また動いた。


 よし。

 今日はそれでいい。


 英単語を十枚ほど回したところで、田端の集中力が目に見えて落ち始めた。

 視線が窓の外へ行く。

 シャーペンを回し始める。

 椅子の背にもたれ、天井を見る。


 分かりやすい。

 電池切れの早さが昔の携帯電話並みだ。


「田端」

「はい」

「今から間違えたカードだけ横に置く」

「うん」

「横に置かれたカードが三枚溜まったら、最初からやり直し」

「うん……? 厳しくない?」

「ゲームだと思え」

「ゲーム」

「間違えカードを増やさないゲーム」

「急に燃えてきた」


 単純で助かる。

 いや、本当に助かる。


 田端はそこから少しだけ粘った。

 間違えたカードを横に置かれるたびに、悔しそうな顔をする。

 正解すると、いちいち小さく勝ち誇る。


 その反応を見ながら、白石がカードを整えていく。

 間違えたカードの端に小さな印。

 すぐ答えられたカードは別の山。

 迷ったカードは真ん中。

 見事な仕分けだった。


「白石、その分け方いいな」

「そう?」

「かなりいい。田端の弱点が見える」

「俺の弱点、山になってない?」

「山になってる」

「否定して」

「でも、山になれば崩せる」


 俺がそう言うと、田端は少しだけ真面目な顔になった。


「崩せる?」

「見えてない弱点は潰せない。見えてるなら潰せる」

「なるほど」


 白石が小さくうなずく。


「間違えたところだけ、もう一回やればいいんだね」

「そう。全部を最初からやり直す必要はない」

「それ、少し楽かも」


 白石の言葉に、俺はうなずいた。


 白石はたぶん、ずっと「全部ちゃんとやらなきゃ」と思ってきたのだろう。

 勉強だけではなく、人間関係でも、自分の態度でも。

 少し間違えたら、全部駄目になるみたいに。


 勉強は、そこまで容赦なくない。

 間違えたところを見つけて、そこだけもう一度やればいい。

 人間関係はさすがに同じとは言えないが、それでも、全部を一度に抱え込む必要はないはずだ。


 それを言葉にすると説教臭い。

 だから俺は、カードを一枚めくるだけにした。


「次、理科。物質が酸素と結びつく反応」

「酸化」


 白石が即答した。


「早い」

「これは覚えてた」

「田端」

「酸化」

「今のは白石が言った後だ」

「俺も心では言ってた」

「心の答案は採点されない」


 田端が肩を落とす。

 白石が笑いながら、酸化のカードに小さな印をつけた。


 その後も、カードは少しずつ増えていった。

 英単語、漢字、社会の用語、理科の基本語句。

 手書きの紙が、机の上に小さな山を作っていく。


 未来では、こういう暗記もアプリでできる。

 スマホに問題を入れて、電車の中で何度も回す。

 間違えたものだけ自動で出てくる。

 通知まで来る。


 便利な時代になることを、俺は知っている。

 でも今ここにはスマホも暗記アプリもない。

 切った紙と、鉛筆と、白石のきれいな字と、田端の妙な負けず嫌いがあるだけだ。


 それでも、たぶん点にはなる。

 未来の便利さを知っているくせに、今はこの紙の山を一枚ずつめくるしかない。

 面倒くさい。

 でも——こういう面倒くささは嫌いではなかった。


 ◇ ◇ ◇


 図書室を出る頃には、外がかなり暗くなり始めていた。


 田端はカードの束を輪ゴムで留め、宝物のように持っている。

 正確には、弱点の束だ。

 だが本人が大事そうにしているので、今はそう言わないでおく。


「俺、今日けっこう覚えた」

「忘れる前提で明日も回すぞ」

「夢を壊すな」

「暗記は壊れてからが本番だ」

「名言っぽいけど嫌だ」


 田端はそう言いながらも、カードを鞄にしまった。

 捨てずに持ち帰るだけで大きな進歩である。


 校門へ向かう途中、田端が購買のほうへ走っていった。

 部活の友達に呼ばれたらしい。

 廊下には、俺と白石だけが少し遅れて残った。


 沈黙が落ちる。

 嫌な沈黙ではなかった。

 ただ、少しだけ何を話せばいいか迷う沈黙だった。


 白石が、カードの入った小さな紙袋を両手で持っている。

 彼女の字で、英、国、社、理と小さく書かれていた。


「白石、今日は助かった」

「私も、楽しかった」

「暗記カード作りが?」

「うん。少し」


 白石は自分で言ってから、恥ずかしそうに笑った。


「変かな」

「変じゃない。俺も少し楽しかった」

「佐伯くんは、計画を立ててる時、ちょっと楽しそう」

「そうか?」

「うん」


 自覚はなかった。

 いや、あるかもしれない。

 社会人時代は、計画を立てても大抵その通りには進まなかった。

 急な修正。

 謎の追加作業。

 上から降ってくる無茶な納期。


 でも今は、紙のカードを作って、目の前の問題を一つずつ減らしている。

 それは確かに、少し楽しいのかもしれない。


 白石は廊下の窓の外を見た。

 夕方の校庭では、運動部がまだ走っている。

 掛け声が遠くから聞こえた。


「前より」


 白石が小さく言った。


「前より、学校に残るのが怖くない」


 俺はすぐに返事ができなかった。


 その一言は、たぶん白石にとってかなり大きい。

 そして、俺にとっても、思ったより重かった。


 未来で学校から消えた彼女が、今は放課後の廊下で、学校に残るのが怖くないと言っている。

 それだけで、胸の奥に熱いものが上がってくる。


 だが、俺はその熱に乗ってはいけない。


 俺の中身は三十二歳だ。

 白石は十四歳だ。

 助けられたことに彼女が少し安心してくれるなら、それは嬉しい。

 俺を信頼してくれるのも、正直に言えば嬉しい。

 でも、その嬉しさをそのまま別のものに変えていいわけではない。

 少なくとも、今は違う。


 俺は一度息を吸い、できるだけ普通の声で言った。


「それなら、よかった」


 短い。

 たぶん、少し不器用だった。


 白石はそれでも、ほっとしたようにうなずいた。


「佐伯くんは、変に大げさにしないんだね」

「大げさにすると、田端が乗ってくるからな」

「それは、ちょっと分かる」


 白石が笑う。

 俺も笑った。

 田端を言い訳に使ってしまったが、まあ許してほしい。

 本人がいれば、たぶん胸を張る。


 昇降口に近づくと、廊下の向こうに榊原の姿が見えた。

 取り巻きと何か話している。

 こちらを一瞬だけ見た気がした。


 白石の足が、ほんの少しだけ遅くなる。


 俺は前に出そうになって、やめた。

 代わりに、歩く速度を少しだけ落とす。

 白石が自分で歩ける速度に合わせる。


 白石は紙袋を持ち直し、顔を上げた。

 榊原の横を通る。

 何も言われない。

 何も起きない。


 それだけのことなのに、通り過ぎた後、白石は小さく息を吐いた。


「大丈夫か」

「うん」


 今度は、俺もそれ以上聞かなかった。


 昇降口で靴を履き替える。

 田端はまだ戻ってこない。

 たぶん部活の友達と話し込んでいる。


 白石は上履きをしまい、少し迷ってから俺を見た。


「佐伯くん」

「何?」


 彼女は紙袋を胸元に抱えたまま、少しだけ照れたように言った。


「明日も、ここで勉強していいかな」


 断る理由なんて、どこにもなかった。


 それでも俺は、浮かれすぎないように、いつもの調子を意識して答える。


「もちろん。田端の弱点カードも増える予定だし」

「増やす前提なんだ」

「たぶん増える」

「田端くん、怒るよ」

「怒りながら覚えればいい」


 白石は楽しそうに笑った。


 その笑顔を見て、俺は紙袋の端に書かれた小さな字へ視線を落とした。

 英、国、社、理。

 白石の字は、こんな小さなところまで几帳面だった。


 宝くじの番号は覚えていないし、株を買う金もない。

 ビットコインを安全に保管する環境だって、まだ影も形もない。

 それなのに、明日も図書室で勉強する約束だけは増えた。

 人生無双と呼ぶには、地味にもほどがある。


 まあ、でも。

 鞄の中で折れないように、俺は白石が作ったカードの束を少しだけ奥へ押し込んだ。


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