表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
三十代社畜の俺、中二に戻って人生無双を始める 〜なお宝くじの番号は覚えていない〜  作者: らいお


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
15/52

第十四話「大人でも、数学は普通に忘れる」

「佐伯くんって、ほんと調子乗ってるよね」


 榊原の声は、小さかった。

 廊下のざわめきに紛れれば、すぐに消えるくらいの音量だ。


 だが、俺にははっきり聞こえた。


 足が少しだけ止まりかける。

 振り返って、今のどういう意味だ、と聞くこともできた。

 聞こえなかったふりをして、そのまま流すこともできた。


 面倒なのは、たぶん後者のほうが正解だと分かってしまうことだった。

 三十二歳の中身なんて、こういう時だけ余計に役に立つ。

 気持ちよく言い返す未来と、その後に教室で面倒な空気になる未来が、ほぼ同時に浮かんでしまう。


 俺は足を止めなかった。


「悠真?」


 田端が横から顔をのぞき込んでくる。

 どうやら、田端には聞こえていなかったらしい。

 白石も少し不思議そうにこちらを見ている。


「何でもない。図書室行くぞ」

「おう」


 何でもなくはない。

 ただ、今ここで反応したところで、こっちが損をするだけだ。

 榊原の小さな一言に、わざわざ大きな場所を与える必要はない。


 調子に乗ってる。


 中学生の教室では、ずいぶん便利な言葉だった。

 頑張っても、目立っても、誰かを助けても、とりあえずこれを貼っておけば相手を少しだけ下げられる。

 理由を説明しなくていいから、使う側は楽だ。


 大人になってからも、似たような言葉はいくらでもあった。

 空気読めとか、出しゃばるなとか、波風立てるなとか。

 言葉だけは少し大人っぽくなる。

 中身は、あまり変わらない。


 俺は図書室へ向かいながら、頭の中で雑にメモを取った。

 放課後、廊下、すれ違いざま。

 白石と田端には聞こえていない。

 たぶん、あとでノートに書くとしてもその程度だ。


 地味すぎる。

 人生無双という言葉からは、だいぶ遠い。

 でも今は、派手にやり返すより、こっちのほうがましだった。


 今日の目的は、榊原と戦うことではない。

 期末テストで点を取ることだ。

 そして、白石が昨日より少し普通に図書室へ行けることだ。


 廊下の先で、白石が少しだけこちらを見た。

 何かを聞きたそうで、でも聞いていいのか迷っている顔だった。


「白石」

「え?」

「今日、数学を頼む。俺、たぶん思ったより忘れてる」

「佐伯くんでも?」

「俺でも」


 白石は少しだけ目を丸くした。

 それから、小さくうなずく。


「じゃあ、一緒に確認しよう」


 白石は「教えてあげる」とは言わなかった。

 俺を立てようとして「そんなことないよ」とごまかすこともしなかった。

 一緒に確認しよう。

 ただそれだけの言い方だったのに、肩に入っていた力が少し抜けた。


 今の俺たちには、そのくらいの距離がちょうどいい気がした。


 ◇ ◇ ◇


 図書室の窓際席は、今日も何とか空いていた。


 期末が近づいているせいか、昨日より人が多い。

 机の上には教科書、ワーク、プリント。

 ただし、集中している顔と、教科書を見つめて魂が抜けている顔が半々くらいだった。


 田端は席につくなり、数学のワークを開いた。

 偉い。

 開いたページが昨日と同じだった。

 偉くない。


「田端」

「何でしょう」

「そこ、昨日やった」

「復習という言葉を知っているか?」

「復習なら解いてみろ」

「まだ心の準備が」

「心より手を動かせ」


 田端は渋々シャーペンを持った。

 白石は向かいの席で、自分のノートとワークをきれいに並べている。

 その動作だけで、勉強できる人間の気配がする。


 俺も数学の問題集を開いた。


 範囲表に並ぶ文字を見た時点では、正直少し甘く見ていた。

 連立方程式に、一次関数に、図形。

 文字だけ見れば、どれも昔やった記憶はある。

 中学数学なら、少し触れば手が思い出すだろう。


 そんなふうに考えていた。甘い。かなり甘い。


 そして、開始十分でその慢心は折れた。


「あれ」


 俺は解答欄の前で手を止めた。

 途中までは合っている。

 考え方も間違っていない。

 なのに、最後の答えが合わない。


 もう一度やる。

 また合わない。


 計算用紙には、似たような式が三回並んだ。

 だんだん字が荒れていく。

 まずい。

 これは仕事で資料の数字が合わない時の焦りに似ている。


「佐伯くん?」


 白石が小声で呼んだ。


「ちょっと待ってくれ。今、俺の中の三十二歳が中学数学に負けかけてる」

「三十二歳?」

「気持ちの年齢」

「気持ちの年齢が高いんだ」

「高いというか、疲れてる」


 白石が小さく笑った。

 田端が顔を上げる。


「悠真、分かんないの?」

「分かる。分かるはずなんだ」

「その言い方、分かってないやつだ」

「うるさい。お前は昨日のページを進めろ」

「先生、こっちも分かりません」

「誰が先生だ」


 田端は堂々と手を上げた。

 図書室でやるな。


 俺は自分の途中式を睨む。

 白石が少し迷ってから、身を乗り出した。


「見てもいい?」

「頼む」


 白石は俺の計算用紙を見る。

 視線が上から下へ、ゆっくり動く。

 そして、ある一行で止まった。


「ここ、符号が逆かも」


 またか。


 見れば、本当に逆だった。

 移項した時に、きれいに符号を置き去りにしている。

 未来知識どころではない。

 符号すら未来に置いてきたらしい。


「……助かった」

「ううん」

「俺、符号に恨まれてるのかもしれない」

「たぶん、急いでるだけだと思う」


 白石の言い方は柔らかい。

 馬鹿にする感じはない。

 ただ、ちゃんと見ている。


 それがありがたかった。


 国語や社会なら、三十二年分の経験でごまかせるところがある。

 文章の流れを見たり、資料のどこが大事そうか当たりをつけたり、そういう小技は大人になってから嫌でも身についた。


 数学は、そこをあまり許してくれない。

 分かったつもりで手を止めると抜ける。

 途中式を横着すると落ちる。

 覚えている気がする、というふわっとした自信は、答案用紙の上ではほとんど役に立たない。


 現実は、こっちが思っているより細かいところで殴ってくる。


「白石、悪い。もう一問見てくれ」

「うん」


 俺は次の問題を解いた。

 今度は慎重に書く。

 式を一行ずつ残す。

 符号を確認する。


 それでも、途中で手が止まった。

 一次関数のグラフだ。


 傾きだの、切片だの、座標だの。

 言葉は覚えている。

 意味もだいたい分かる。

 でも、問題文から式を作る時に、一瞬だけ迷う。


 この一瞬が本番では怖い。


 白石は自分のノートを開き、ページの端に小さな図を書いた。


「たぶん、先に表にすると分かりやすいと思う」

「表?」

「うん。いきなり式にしようとすると、どこを見ればいいか分からなくなるから」


 白石は、問題文の条件を小さく整理していく。

 どの数字が何を表しているのか。

 どこから式が作れるのか。

 どこを代入すればいいのか。


 説明は少しぎこちない。

 本人も、教えることに慣れているわけではないのだろう。

 でも、整理の仕方は分かりやすかった。


「白石、これかなりいい」

「本当?」

「本当。俺、頭の中で処理しようとして詰まってた」

「佐伯くん、時々、途中を飛ばそうとするよね」

「痛いところを突くな」

「だって、考えるのが早いから」

「早いだけで間違えたら意味ない」


 俺がそう言うと、白石は少しだけ安心したような顔をした。

 自分の指摘が、ちゃんと受け取られたと分かったのかもしれない。


 俺が白石を助ける。

 白石が俺のミスを見つける。

 田端が横で詰まり、ついでに場の空気を軽くする。


 きれいな役割分担ではない。

 でも、こういう雑な回り方のほうが、今は自然だった。


「俺も見て」


 田端が自分のワークを押し出した。

 ページを見ると、空欄が多い。……多すぎる。


「田端」

「はい」

「どこが分からない」

「分からないところが分からない」


 出た。

 中学生だけでなく、大人の研修でも聞くやつだ。

 本人はふざけているようで、実はかなり深刻な状態である。


 分からないところが分からない。

 これを言われると、教える側はけっこう困る。

 ただ、笑って済ませるほど軽くもない。

 本人の中では、本当に全部が同じ色に見えているのだ。


「じゃあ、最初の問題から声に出して読め」

「え、音読?」

「音読。問題文の意味が分からないのか、計算が分からないのか、式を作れないのかを分ける」

「面倒くさ」

「面倒くさいことを省くと点が消える」

「昨日も言ってた」

「大事なことだから何度でも言う」


 田端はしぶしぶ問題文を読んだ。

 途中で一度つっかえた。

 用語の意味を勘違いしていた。


「ここだな」

「え、そこ?」

「そこ。お前、計算以前に問題文を読み違えてる」

「数学なのに国語が敵なの?」

「全教科、最終的には国語が敵になる」


 白石がこくりとうなずいた。


「問題文をちゃんと読むの、大事だと思う」

「白石さんまで」

「田端くん、ここを丸で囲むといいかも」


 白石がワークの問題文の一部を指す。

 田端は素直に丸をつけた。

 その顔は、思ったより真剣だった。


 田端はできないわけではない。

 ただ、どこでつまずいているかを自分で分解できない。

 そこを見つければ、少しずつ進む。


 そこからしばらく、三人で問題を潰していった。


 俺が雑に方針を出して、白石がそれを見える形に直す。

 田端は途中で詰まり、俺が突っ込み、白石が横から補足する。

 たまに田端が正解して、図書室だというのに顔だけで大騒ぎする。


 静かな勉強会とは言いづらい。

 少なくとも、図書室の隅でやるには少しだけうるさかったと思う。

 それでも昨日よりは、ちゃんと勉強している感じがあった。


 問題は、時間だった。


 範囲は広い。

 俺は大人の頭で少し有利だが、満点を狙って全範囲を完璧にするほど余裕はない。

 田端に至っては、全部を救おうとすると全部沈む。


 白石はちゃんとやろうとする。

 そこが良いところでもあり、危ういところでもあった。


「一回、範囲を分けよう」


 俺はワークを閉じ、白紙のページを開いた。


「分ける?」


 白石が首を傾げる。


「必ず取るところ。練習すれば取れるところ。時間が余ったらやるところ」

「捨てるってこと?」


 白石の声が少し不安そうになる。

 真面目な人間ほど、捨てるという言葉に抵抗がある。

 俺も昔はそうだった。

 全部やろうとして、全部中途半端にして、提出期限前に白目をむく。

 大人になっても同じことを繰り返した。


「完全に捨てるわけじゃない。順番を決める」

「順番」

「先に点になるところを固める。残った時間で難しいところをやる。逆にすると、基本問題を落とす」

「なるほど」


 白石は納得したようにうなずいた。

 すぐにノートへ三つの欄を作る。


 必ず取る。

 練習する。

 余ったら。


 相変わらず速い。

 しかも見やすい。


「田端はまずここ」


 俺は基本問題の番号を指した。

 もちろん番号は口に出さない。

 ワーク上の場所を指で示す。


「少なくない?」

「少なく見えるだろ」

「うん」

「でも、これを全部取れたら今よりかなり上がる」

「まじで?」

「まじで。今のお前は、取れるはずの問題を落としすぎてる」

「耳が痛い」

「数学で耳が痛くなるな」


 田端は頭を抱えた。

 だが、顔は少し明るい。

 全部やれと言われるより、ここからやれと言われたほうが動けるタイプなのだろう。


 白石は自分の欄を見ながら、小さく言った。


「私は、余ったらのところも少しやりたい」

「白石はやっていい。ただし、基本を落とさない範囲で」

「うん」

「あと、俺の符号ミス監視も頼む」

「それ、係なの?」

「重要職だ」

「じゃあ、ちゃんと見る」


 白石が少しだけ楽しそうに言った。

 その顔を見て、俺は胸の奥で息を吐いた。


 榊原の言葉はまだ残っている。

 教室の空気だって、全部元通りになったわけではない。

 それでも白石は今、図書室で数学のノートを開いている。

 俺のミスを見つけて、田端に丸をつける場所まで教えている。


 守られているだけの子、という言い方はたぶんもう合わない。


 ◇ ◇ ◇


 気づけば、窓の外は夕方の色になっていた。


 田端は最後のほう、英単語ではなく数学に体力を全部吸われていた。

 白石はノートをまとめ直し、明日やる範囲に小さく印をつけている。

 俺は問題集を前に、同じ種類の問題をもう一度解いた。


 今度は合った。


 途中式を飛ばさず、符号を確認し、図を描いた。

 それだけのことだ。

 それだけのことを、さっきの俺は省きかけていた。


「合ってる」


 白石が答え合わせをして言った。


「よし」

「佐伯くん、途中式きれいになった」

「字は?」

「字は……少し」

「少しか」

「少し」


 そこは譲ってくれないらしい。


 田端が机に突っ伏したまま、くぐもった声を出す。


「俺、今日ちょっと頭よくなった気がする」

「気がするだけで終わらせるなよ」

「明日には忘れてるかも」

「明日またやる」

「鬼」

「テストはもっと鬼だ」


 田端はうめいた。

 白石が笑う。

 俺も少し笑った。


 鞄に問題集をしまいながら、今日のことをぼんやり思い返す。

 榊原の一言には乗らなかったし、田端は意外と記録係として使えそうだった。

 白石は今日も図書室に残った。

 ここまでは悪くない。


 問題は、俺が中学数学を思ったより忘れていたことだ。

 これが地味に痛い。


 ビットコインが伸びることは知っている。

 株で大きく勝てる企業があることも知っている。

 スマホが当たり前になって、世の中の空気が変わっていくことも知っている。


 それなのに、目の前の方程式には普通に詰まる。

 未来を知っているとか言いながら、移項で符号を間違える。

 我ながら締まらない。

 ただ、その締まらなさが今の俺の実力だった。


 俺は数学の問題集を鞄に入れる前に、もう一度だけ開いた。

 赤ペンで直した途中式が目に入る。


 思わず、声に出た。


「未来を知ってても、途中式は飛ばせないのか」


 白石が不思議そうにこちらを見る。

 田端は机に突っ伏したまま言った。


「何か深そうなこと言ってるけど、要するに数学やれってこと?」

「そういうことだ」

「現実、厳しいな」


 本当に、厳しい。


 人生二回目でも、計算ミスは普通にする。

 大人でも、数学は普通に忘れる。

 そこはもう、認めるしかない。


 俺は問題集を鞄に押し込み、白石に借りたノートが折れないように少しだけ位置を直した。

 明日もまた、この続きをやる。

 たぶん田端は忘れてくるし、俺はまたどこかで符号を間違える。


 それでも、まあ。

 ひとりで間違えるよりは、ずっとましだった。


[日間]現実世界〔恋愛〕にて1 位獲得いたしました!

本当にありがとうございます!


「面白かった」「続きが読みたい!」と思っていただけましたら、ぜひブックマーク・評価・感想などで応援していただけると嬉しいです。

よろしくお願いします!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
中学の数学は難しくない。(本当に難しくなるのは高校からだ) 中学の頃、勉強した。友達と二人で家庭教師をつけてもらった。この先生が当たりだった。(大学院生だった) とにかく「全国高校入学テスト集」を解い…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ