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三十代社畜の俺、中二に戻って人生無双を始める 〜なお宝くじの番号は覚えていない〜  作者: らいお


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第十三話「榊原莉奈はまだ終わっていない」

 白石のノートは、俺の予想以上に強かった。


 朝の教室で借りた国語と社会のノートを開いた瞬間、俺は少しだけ固まった。

 ただ板書が写されているだけではない。

 重要語句。

 先生が口で言った補足。

 間違えやすい漢字。

 テストに出そうな箇所。


 さらに、ページの端には小さな付箋が貼られていた。


 漢字はここから。

 読解のポイントは後ろ。

 社会は地理から先に見ると分かりやすい。


 丁寧すぎる。

 俺のノートが、未来知識と焦りと眠気で作られた混沌の鍋だとすれば、白石のノートはちゃんとした定食だった。

 栄養バランスまで考えられている。


「白石」


 俺が声をかけると、前の席で白石が小さく振り返った。

 まだ周囲の視線を気にする癖は残っている。

 それでも、昨日より少しだけ顔を上げるのが早かった。


「ノート、ありがとう。付箋まで助かった」

「ううん。分かりにくいところがあったら言って」

「むしろ分かりやすすぎて、俺のノートを見せたくなくなった」

「昨日、見たよ」

「忘れてくれ」

「考えてることは、すごかったと思う」

「字については?」

「……今後の課題?」


 白石が控えめに笑った。

 朝から静かな一撃を食らった。

 だが、悪くない。


 田端が後ろから顔を出す。


「なになに、白石さんのノート?」

「お前が見ると汚すから駄目」

「信用ゼロじゃん」

「お前のワークの端、昨日消しカスで山になってたからな」

「あれは努力の粉」

「掃除しろ」


 白石がまた小さく笑う。

 その笑い声は、まだ大きくはない。

 でも、消えそうではなかった。


 このままいけばいい。

 普通に挨拶して、普通に勉強して、普通に笑う。

 白石に必要なのは、劇的な救済よりも、たぶんそういう日常の積み直しだ。


 ――と思っていたのだが。


 現実は、そんなに素直ではなかった。


 ホームルーム前、教室の中央あたりで、女子の小さな輪ができていた。

 中心にいるのは、榊原莉奈(さかきばらりな)だった。

 以前のように大きな声で笑ってはいない。

 むしろ声は抑えめだ。

 表情も、分かりやすい敵意ではない。


 だからこそ、面倒だった。


「最近さ、何か言うとすぐ先生に話が行く感じあるよね」


 榊原の声が、ぎりぎり聞こえるくらいの大きさで届いた。

 聞かせる気があるのか、ないのか。

 その境目に置かれた声だった。


「分かる。冗談でも怖いよね」

「大ごとになると面倒だし」

「もう何も言えなくない?」


 取り巻きの女子が続ける。

 白石の名前は出ていない。

 俺の名前も出ていない。

 だが、教室の何人かがこちらを見た。


 なるほど。


 直接攻撃はしない。

 その代わり、「先生に言うやつは面倒」「関わると大ごとになる」という空気を作る。


 大人の世界にもよくあるやつだ。

 ハラスメントを指摘された側が、問題そのものではなく「指摘した人が空気を悪くした」という話にすり替える。

 会議室でも、飲み会でも、学校の教室でも、人間のやることは大して変わらない。


 そして、こういう空気は厄介だ。

 殴られたわけではない。

 紙を入れられたわけでもない。

 明確な暴言もない。


 だから、怒鳴ったほうが負ける。


「悠真」


 田端が小声で呼んだ。

 顔が少し険しい。


「聞こえた?」

「聞こえた」

「あれ、絶対こっちのことだろ」

「だろうな」

「言わなくていいの?」

「今は言わない」

「何で」

「向こうが名前を出してないから」


 田端は納得できなさそうに眉を寄せた。

 気持ちは分かる。

 俺も内心では腹が立っている。


 ただ、ここで正面から「それ白石のことか」と言えば、榊原は笑って逃げる。

 そんなこと言ってない。

 佐伯くんが勝手にそう思っただけ。

 また大ごとにしようとしてる。


 その流れが見える。

 三十二歳にもなれば、嫌な言い逃れの予告編くらいは見えるようになる。


「じゃあどうすんだよ」

「誰が、いつ、どこで、何を言ったかだけ覚えとく」

「またメモ?」

「またメモ」

「地味だな」

「地味なものほど後で効く」


 派手なざまぁは、よくある小説で読んでいる分には気持ちいい。

 だが、現実の教室で一番効くのは、案外地味な記録だ。

 相手の逃げ道を全部塞ぐ必要はない。

 先生が「これは見過ごせない」と判断できるだけの材料を残せばいい。


 ただし、それは最後の手段だ。

 今、俺が白石の前に立ちすぎると、白石はまた「守られる側」に固定される。

 それは違う。


 白石は、自分の席に座っていた。

 顔は少し強ばっている。

 でも、鞄を持って教室を出ようとはしていない。

 机の上には、授業の準備がきちんと置かれていた。


 逃げていない。

 それだけで、昨日までの彼女とは違っていた。


 チャイムが鳴り、高村先生が教室に入ってきた。

 教室のざわめきが少しだけ引く。


 榊原はすぐに口を閉じた。

 実に分かりやすい。


 ◇ ◇ ◇


 一時間目の授業中、空気は表面上落ち着いていた。


 白石は普通にノートを取っている。

 俺も教科書を開きつつ、頭の片隅で朝の発言を整理していた。


 榊原。

 ホームルーム前。

 教室中央。

 「何か言うとすぐ先生に話が行く感じ」

 取り巻き二名が同調。

 視線が白石と俺に流れた。


 書き出すと、本当に地味だ。

 地味すぎて、これで人生無双を名乗っていいのか不安になる。

 だが、俺の持っている武器は未来知識だけではない。

 会社員時代に嫌というほど身についた、面倒事を紙に落とす習慣も武器だ。


 議事録。

 報告書。

 進捗管理表。

 名前だけ聞くと眠くなるが、揉めた時には人を助ける。


 俺は授業用ノートの端に、目立たないよう短く記した。


 空気を作る発言。

 直接名指しなし。

 即反応しない。


 我ながら中学生のノートではない。

 白石には見せられないページがまた増えた。


 二時間目が終わった休み時間、田端が俺の席に来た。

 普段より声が低い。


「悠真、ちょっと」


 廊下に出る。

 田端は周囲を見てから、小声で言った。


「さっき男子のほうでも聞いた。佐伯に関わると先生呼ばれるから面倒、みたいな」

「誰が言ってた」

「森下の近くにいたやつ。森下は黙ってたけど」

「榊原から流れてる感じか?」

「たぶん。女子のほうでそんな話してたって」


 森下。

 この前の嘘告白の件で、向こう側にいた男子だ。

 今は表立って動いていないが、周囲にはまだ火種が残っている。


「白石さん、また嫌な感じにならないかな」

「なるかもしれない」

「そこは嘘でも大丈夫って言えよ」

「嘘で大丈夫って言って、本当に大丈夫だったことは少ない」

「大人みたいなこと言うな」

「最近それ、よく言われる」


 田端は少しだけ笑った。

 すぐに真面目な顔に戻る。


「俺、何すればいい」


 その言葉に、俺は田端を見直した。

 お調子者で、提出物を努力の粉にする男だが、根はかなりまともだ。


「白石を特別扱いしすぎない」

「え、守らなくていいの?」

「守るのと、囲うのは違う。俺たちがずっと横で見張ってたら、余計に目立つ」

「じゃあ?」

「普通に話す。普通に勉強する。変な噂が聞こえたら、誰が言ったかだけ覚えとく」

「またメモの仲間か」

「ようこそ記録係へ」

「地味な部活だな」


 地味だ。

 だが、今の白石にはそれが必要だった。

 大げさに助けられるたびに、彼女はまた事件の中心へ戻される。

 そうではなく、日常の中に戻す。


 白石が「助けられた子」ではなく、「ノートが分かりやすいやつ」になる。

 そのほうが、たぶん強い。


 ◇ ◇ ◇


 昼休み、問題は少しだけ形を変えた。


 俺が白石のノートを返そうとした時、教室の横から声が飛んできた。


「白石さんって、佐伯くんに勉強教えてるんだ」


 榊原の取り巻きの一人だった。

 名前は覚えているが、今は呼ばない。

 相手は笑っている。

 ただ、その笑い方はあまり温かくない。


「すごいね。最近、仲いいよね」


 白石の指が、ノートの端で止まった。

 ほんの少しだけ、肩が固くなる。


 ここで俺が苛立てば、話は簡単に別方向へ転がる。

 仲がいいと言っただけ。

 何怒ってるの。

 また先生に言うの。


 その流れは、もう見えている。


 俺はノートを白石に返しながら、普通の声で言った。


「期末前だからな。ノートが分かりやすいやつは強い」

「え?」

「田端も助かってる」


 俺が振ると、田端は一瞬だけ固まった。

 だが、すぐに乗った。


「助かってる。俺、白石さんの表なかったら今すぐやるやつと時間あればやるやつの違い分かんなかった」

「それは分かってくれ」

「今は分かる」


 田端が胸を張る。

 自慢するところではない。


 白石が少しだけ息を吐いた。

 取り巻きの女子は、期待した反応が返ってこなかったからか、曖昧に笑って引いた。


 会話の中心を、恋愛っぽい冷やかしから勉強に戻す。

 大したことではない。

 だが、今はそれでいい。


 白石はノートを胸元に戻し、小さく言った。


「佐伯くん、付箋、邪魔じゃなかった?」

「むしろ助かった。あれ、田端向けにも作ってほしい」

「俺向け?」

「『ここだけ覚えろ』って大きく書いてあるやつ」

「俺、馬鹿扱いされてない?」

「されてる」

「否定しろよぉ……」


 大袈裟にしょんぼりする田端を見て、白石の口元が少し緩む。

 笑っていいのか迷った後ではなく、ちゃんと自分で笑った顔だった。


 その時、教室の前のほうで高村先生の声がした。


「今の言い方、気をつけなさい」


 教室が少し静かになる。

 どうやら、別の場所でも似たようなことがあったらしい。

 先生は榊原たちのほうを見ていた。


「誰かが相談しにくくなる言い方は、冗談でもしないこと。期末前でみんな落ち着かないのは分かるけど、教室の空気を悪くしないように」


 短い注意だった。

 名指しではない。

 説教というほど長くもない。


 でも、以前の高村先生なら見逃していたかもしれない。

 少なくとも今は、教室の空気を見ようとしている。


 榊原は笑っていなかった。

 唇を結び、机の上の教科書を見ている。

 反省している顔かどうかは分からない。

 たぶん、違う。


 ただ、先生が見ているという事実は残った。


 俺は内心で、ひとつだけ息を吐いた。

 全部を俺がやる必要はない。

 先生が動けるなら、先生が動けばいい。

 田端が拾えるなら、田端が拾えばいい。

 白石が踏みとどまれるなら、その一歩を奪ってはいけない。


 三十二歳の中身を持っていても、教室の全員を操作できるわけではない。

 というか、操作しようとした時点で榊原と同じになる。


 俺がやるべきことは、流れを見て、必要なところに手を置くことだ。


 ◇ ◇ ◇


 放課後になっても、白石は帰らなかった。


 鞄を持ち、少しだけ迷うように立っている。

 図書室へ行くか。

 今日はやめるか。

 その境目にいるのが分かった。


 俺は声をかけすぎないように、範囲表を鞄に入れながら言った。


「今日も図書室行くけど、白石はどうする?」


 白石は一度、教室の前のほうを見た。

 榊原の席。

 取り巻きの女子。

 まだ残っている何人かの視線。


 それから、こちらを見た。


「行く」


 短い返事だった。

 でも、昨日より少しだけ強かった。

 助けられたからついてくるのではなく、自分で選んでくれたように聞こえた。

 そのことが、思った以上に嬉しかった。


「数学、見てもらってもいい?」

「もちろん。俺も符号ミスするし」

「あれは、たまたま」

「たまたまでも本番でやると死ぬ」

「死なないよ」

「点数が死ぬ」


 白石が小さく笑う。

 田端が横から鞄を背負った。


「俺も行く。今日こそ英単語を倒す」

「英単語は倒すものじゃない」

「じゃあ仲良くなる」

「そのほうがいい」


 三人で教室を出る。


 廊下は放課後のざわめきで満ちていた。

 部活へ向かう生徒。

 購買へ走る男子。

 友達同士で寄り道の相談をする女子。


 その中を歩いていると、前から榊原が来た。

 取り巻きはいない。

 一人だった。


 すれ違う瞬間、榊原は俺だけに聞こえるくらいの声で言った。


「佐伯くんって、ほんと調子乗ってるよね」


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