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三十代社畜の俺、中二に戻って人生無双を始める 〜なお宝くじの番号は覚えていない〜  作者: らいお


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閑話「白石澪はノートを開く」

 白石澪(しらいしみお)は、靴箱の前で一度だけ息を止めた。


 何もない。

 上履きは、昨日と同じ場所に入っている。

 変な紙も、濡れた跡も、折られたメモもない。


 それを確認してから、ようやく息を吐いた。


 ほっとしたことに、少しだけ落ち込む。

 何もされていないのが普通なのに、普通であることに安心してしまう自分がいる。

 怖がりすぎなのかもしれない。

 大げさなのかもしれない。

 そう思おうとしても、足の先はまだ少し冷たかった。


 廊下を歩く。

 朝の学校は、いつも通りうるさい。

 部活の朝練を終えた男子の声。

 階段を駆け上がる足音。

 教室から漏れてくる笑い声。


 その全部が、前より少しだけ遠く聞こえる。


 私は教室の前で立ち止まらないようにした。

 止まると、入れなくなる気がしたからだ。


 扉を開ける。


 いくつかの視線がこちらを向いた。

 すぐに逸らされる。

 それだけのことなのに、胸の奥がきゅっと縮んだ。


 榊原さんの席のほうは見ない。

 見ないようにしている時点で、気にしているのは分かっていた。

 でも、まだ見られない。


 自分の席へ行き、鞄を置く。

 机の中に手を入れる前に、少し迷った。


 また、何か入っていたらどうしよう。


 そんなことはない。

 先生も動いてくれた。

 佐伯くんも、田端くんも知っている。

 もう前と同じではない。


 そう思ってから、机の中を確かめた。


 教科書。

 プリント。

 昨日入れたままのワーク。


 それだけだった。


 私は小さく息を吐き、椅子に座った。

 机に額をつけたいくらい安心した。

 でも、そんなことをしたら、誰かに見られる。

 だから普通の顔をして、鞄からノートを出した。


 普通にする。

 普通に席に座る。

 普通に授業を受ける。


 それが、こんなに難しいことだとは知らなかった。


 少しして、佐伯くんが教室に入ってきた。

 彼はいつものように、少し眠そうで、でも周りをよく見ている顔をしていた。


 目が合う。


「おはよう、佐伯くん」

「おはよう」


 短い挨拶だった。

 それ以上、何かを聞かれることはなかった。

 大丈夫か、とも言われなかった。

 昨日のことを蒸し返されることもなかった。


 それが、少しだけありがたかった。


 心配されるのが嫌なわけではない。

 助けてもらったことを、なかったことにしたいわけでもない。

 ただ、ずっと「助けられた子」として見られると、私はまたそこから動けなくなってしまう気がした。


 佐伯くんは、不思議な人だった。


 大人みたいに話す。

 先生より落ち着いている時がある。

 誰が何を言ったのか、何が問題なのかを、怖いくらい冷静に見ている。


 それなのに、ときどき字が雑だ。

 田端くんに突っ込まれると、少しだけ返事が子どもっぽくなる。

 そのちぐはぐさが、見ていると少しおかしい。


 放課後の図書室でのことを思い出す。


 佐伯くんは、テスト勉強の方針を説明してくれた。

 最初は少し難しかった。

 点になるところから潰す。

 優先順位を決める。

 全部を完璧にしようとしない。


 言っていることは分かるような、分からないような感じだった。

 でも、田端くんがもっと分からなそうな顔をしていたので、私はノートの端に表を書いた。


 今すぐやる。

 毎日少しやる。

 時間があればやる。


 たったそれだけの表だった。

 でも、田端くんは「分かる」と言ってくれた。

 佐伯くんも「助かる」と言ってくれた。


 その時、胸の中に小さな明かりがついたみたいだった。


 助けてもらったから安心した、だけではない。

 私も、少しは役に立てた。

 そこが、うれしかった。


 うれしいと思っていいのか、少し迷った。

 こんなことで喜ぶのは変かもしれない。

 でも、前は違った。

 私はできるだけ目立たないようにしていた。

 変なことを言わないように。

 誰かの気分を悪くしないように。

 余計なことをしないように。


 そればかり考えていた。


 なのに図書室では、私が書いた表を見て、二人が普通に話を進めてくれた。

 私のノートを見て、佐伯くんが「すごい」と言ってくれた。

 お世辞ではないように聞こえた。


 それが、まだ少し信じられない。


 授業が始まる。

 先生の声を聞きながら、私はノートを取った。

 日付。

 単元名。

 黒板の内容。

 先生が口で言った補足。


 いつも通りに書いているつもりなのに、今日は少しだけ余白が気になった。

 佐伯くんに貸すなら、あとから見ても分かるほうがいい。

 田端くんにも分かるようにするなら、もっと短い言葉のほうがいいかもしれない。


 そんなことを考えている自分に気づき、鉛筆の先が止まった。


 誰かに見せるためにノートを書く。

 それは、少し怖い。

 間違っていたらどうしよう。

 分かりにくいと思われたらどうしよう。

 調子に乗っていると思われたらどうしよう。


 でも、それでも。


 また見せたいと思っている。


 放課後、図書室で勉強して、家に帰る頃には空が少し赤くなっていた。

 玄関を開けると、母が台所から顔を出した。


「澪、今日は少し遅かったのね」

「図書室で勉強してた」

「期末前だものね。夕飯まで少し時間あるから、手を洗ってきなさい」

「うん」


 それだけの会話だった。

 母は、学校で何があったのかを全部は知らない。

 私も、全部は話していない。

 話せば心配される。

 心配されれば、たぶん、私はもっと怖くなる。


 部屋に入って、机の前に座る。

 鞄からノートを出した。


 国語。

 社会。

 英語。

 数学。


 佐伯くんに貸すと約束した国語と社会のノートを開く。

 ページの端が少し折れていたので、指で伸ばした。

 消しゴムの跡が薄く残っているところを、もう一度きれいに消す。


 自分でも、少し変だと思う。

 ただノートを貸すだけなのに。

 明日返してもらうだけなのに。


 でも、丁寧にしたかった。


 佐伯くんは、私のノートを「大事に使う」と言った。

 その言葉を思い出すと、胸の奥がくすぐったくなる。


 助けてくれた人だから、特別なのだろうか。

 それとも、普通に話してくれたから、特別に感じるのだろうか。

 自分でもよく分からない。


 分からないことが、前より怖くなかった。

 それに、明日このノートを渡すことが、ほんの少しだけ楽しみだった。

 そう思った瞬間、私は自分の頬が熱くなるのを感じた。


 私は新しい付箋を一枚出し、国語のノートの最初のページに貼った。

 そこに、小さく書く。


 漢字はここから。

 読解のポイントは後ろ。

 社会は地理から先に見ると分かりやすい。


 書いてから、少し考えた。

 説明が多すぎるかもしれない。

 でも、佐伯くんはたぶん読んでくれる。

 田端くんは、途中で飽きるかもしれない。


 思わず、ふっと笑ってしまった。


 図書室で見た佐伯くんのノートを思い出す。

 考えていることはすごいのに、字は本当に雑だった。

 線も少し曲がっていた。

 書いてある言葉も、ところどころ中学生のテスト勉強ではなさそうだった。


 未来のこと、と彼は言っていた。


 期末の後のことだと思った。

 でも、佐伯くんの目は、もっと遠くを見ている時がある。

 私たちがまだ知らない先を、ひとりだけ見ているみたいな目。


 それが何なのかは分からない。


 ただ、今の私は、その遠さに置いていかれたいわけではなかった。

 隣に並べるなんて思わない。

 でも、せめて、ノートの一ページくらいは手伝えるかもしれない。


 そう思えることが、少しだけうれしい。


 私は国語のノートを閉じ、社会のノートを重ねた。

 角を揃える。

 鞄に入れる。

 明日、忘れないように、机の上ではなく鞄の中へ。


 それから、別のノートを開いた。

 自分用の小さなメモ帳。

 誰にも見せない、予定や忘れ物を書くためのもの。


 鉛筆を持つ。

 少しだけ迷ってから、端のほうに小さく書いた。


 明日、ちゃんと渡す。


 ただそれだけの予定だ。

 でも、今の私には、少しだけ勇気のいる予定だった。


 明日も教室に行く。

 明日も席に座る。

 明日も、普通にノートを渡す。


 それができたら、たぶん私は、今日より少しだけ普通に近づける。


 私はメモ帳を閉じ、机のライトを消した。


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