第十二話「中学生に勉強を教える三十二歳」
放課後の図書室は、思っていたより人がいた。
期末テスト前だからだろう。
普段なら部活へ行くはずの生徒が、参考書やワークを広げている。
ただし、全員が真面目に勉強しているわけではない。
小声で雑談しているやつ。
教科書を開いたまま固まっているやつ。
ページをめくる速度だけは速いやつ。
懐かしい。
そして、だいたい成績に直結しない動きだ。
俺は窓際の四人席を確保し、範囲表とワークを広げた。
田端は向かいに座るなり、鞄から大量のプリントを出して机に置く。
「提出物、持ってきた」
「偉い」
「褒められた」
「まだ持ってきただけだ」
「褒め時間、短くない?」
短くていい。
提出物は持ってきたところがスタートラインだ。
少し遅れて、白石がやって来た。
両手でノートを抱えている。
図書室に入るとき、彼女は一度だけ周囲を見た。
視線を気にしている。
それでも、足は止めなかった。
「ごめん、待たせた?」
「いや、今始めるところ」
「白石さん、俺の命綱」
「命綱?」
「赤点という谷から俺を救う紐」
「自分で登れ」
田端はうなだれた。
白石が小さく笑う。
それだけで、この席の空気が少し柔らかくなった。
俺は範囲表を机の中央に置いた。
「まず方針を決める」
「方針?」
田端が首をかしげる。
「全部を完璧にしようとしない」
俺が言うと、白石が少しだけ目を開いた。
田端は明らかに安心した顔をする。
「まじで? じゃあやらないところ決めようぜ」
「お前は安心するのが早すぎる」
「全部やらなくていいって言ったじゃん」
「点になるところから潰すって意味だ。やらなくていいって意味じゃない」
「日本語って難しいな」
中学二年生にして、そこに気づいたか。
偉い。
いや、偉くない。
俺は範囲表の横に、昨日作った優先順位メモを置いた。
提出物。
暗記で取れる科目。
数学の基本問題。
理科の用語。
応用問題は最後。
「テスト勉強って、全部同じ熱量でやると大抵崩れる」
「崩れる?」
「時間が足りなくなる。だから、まず点数に直結するところからやる」
「直結って何?」
田端の目が真剣だ。
真剣なのはいいが、俺の説明がすでに少し怪しい。
直結とか優先順位とか、社会人の会議みたいになってきた。
「例えば、提出物は出せば評価につながる。暗記は覚えればそのまま点になる。数学の基本問題は型を覚えれば取れる」
「型」
「問題の解き方の流れ」
「流れ」
田端の顔から理解が消えていく。
早い。
白石が横から、そっとノートを開いた。
「田端くん、たぶんこういうことだと思う」
彼女はノートの空いているページに、鉛筆で小さな表を書いた。
今すぐやる。
毎日少しやる。
時間があればやる。
その三つに、国語の漢字、英単語、数学の基本問題、理科の用語、社会の暗記を振り分けていく。
字は小さいが、見やすい。
余白もある。
「おお」
田端が身を乗り出した。
「分かる。これなら分かる」
「俺の説明でも分かれ」
「悠真の説明は、なんか会社の人っぽい」
刺さった。
正確すぎて痛い。
白石が慌てて首を振る。
「あ、でも、佐伯くんの言ってることを分けただけで」
「いや、助かる。俺の説明、ちょっと中学生向けじゃなかった」
「中学生だけどね、佐伯くんも」
「そうだった」
忘れがちだ。
本当に忘れがちだ。
俺は白石の表を見ながら、内心で感心していた。
ただノートがきれいなだけではない。
情報の置き方がうまい。
何を先に見ればいいか、どこが空いているか、あとから書き足せるか。
そういう整理が自然にできている。
これは、将来かなり強い。
たとえば、ビットコインの保管。
ウォレット。
バックアップ。
秘密鍵。
保存場所。
日付。
注意点。
今の俺の英語ノートは、正直かなり危ない。
勢いで書いているせいで、あとから見たら自分でも分からない可能性がある。
未来の大金を雑なメモで管理するのは、笑えない。
白石の几帳面さは、いつか本当に助けになるかもしれない。
いや、待て。
中学生女子にビットコインの秘密鍵管理を手伝わせる未来を想像するな。
それはそれで絵面がだいぶおかしい。
「佐伯くん?」
白石が不思議そうに俺を見る。
「悪い。ちょっと未来のことを考えてた」
「期末の後のこと?」
「まあ、そんな感じ」
嘘ではない。
だいぶ遠い期末の後だが。
まずは目の前の勉強だ。
「じゃあ、今日は三つだけやる」
俺は指を折った。
「提出物の残り確認。英単語と漢字の暗記。数学の基本問題を少し」
「三つだけ?」
「三つだけ。ただし、ちゃんとやる」
「ちゃんと、が怖い」
田端はそう言いながらも、ワークを開いた。
そこから一時間は、思ったより濃かった。
田端は暗記が苦手だった。
ただ眺めるだけだと、十秒で飽きる。
英単語を書き写しても、手だけ動いて頭に入っていない。
「これ、無理じゃね?」
三分で諦めかけた。
早い。
「じゃあ問題にする」
「問題?」
「俺が日本語を言うから、英語で答えろ。間違えたらもう一回」
「急にテスト始まった」
「テスト前だからな」
俺は単語帳代わりに範囲表を見ながら出題した。
田端は最初こそ苦戦したが、問題形式になると少し食いついた。
「次、important」
「重要な」
「逆だ。日本語から英語」
「重要な……インポー……いや、なんか言いづらい」
「そこを乗り越えろ」
白石が横で肩を震わせている。
笑いをこらえているらしい。
田端は悔しそうに頭をかいた。
「もう一回」
「重要な」
「important」
「正解」
「よし」
たった一問で、田端は少し勝った顔をした。
単純だ。
だが、この単純さは武器でもある。
小さく正解させれば、前に進む。
少し英単語をやって次に漢字。
これは白石が強かった。
「この範囲だと、読みで落としやすいのはここだと思う」
白石はノートの端に、読み間違えやすい漢字をまとめていた。
しかも、横に短い例文まである。
「白石、これ自分で作ったのか」
「うん。漢字だけ見ても覚えにくいから」
「すごいな」
「そんなことないよ」
「いや、これは普通にすごい」
白石は少しだけ目を伏せた。
褒められることに慣れていない。
でも、嫌そうではなかった。
田端がノートをのぞき込む。
「白石さん、先生より分かりやすい」
「それは言いすぎ」
「いや、先生の板書、どこが大事か分かんない時あるし」
「それはお前が寝てるからだ」
俺が言うと、田端は真顔でうなずいた。
「たしかに」
「納得するな」
白石がまた笑う。
図書室なので、声は小さい。
それでも、笑ったことは分かる。
最後に数学。
ここで、俺の余裕は少し削れた。
連立方程式の基本問題。
解き方は分かる。
分かるのだが、途中式を雑にすると普通にミスる。
「あれ」
俺は自分で出した例題の答えを見て、眉をひそめた。
「間違えた?」
田端が嬉しそうに言う。
「嬉しそうにするな」
「いや、悠真でも間違えるんだなって」
「間違える。大人でも計算ミスはする」
「大人?」
「大人っぽいやつでも」
危ない。
口が滑りかけた。
白石が俺の途中式を見て、そっと指を置く。
「ここ、符号が逆かも」
見れば、その通りだった。
移項のところで符号を間違えている。
「本当だ。助かった」
「ううん」
白石は小さく首を振る。
その顔は、さっきより少しだけ明るかった。
助けられるだけじゃない。
自分も役に立てる。
たぶん、その感覚が彼女に必要なのだと思う。
俺は赤ペンで符号ミスに印をつけた。
「こういうミスは、本番でも普通に出る。だから途中式は飛ばさない」
「面倒くさ」
「面倒くさいことを省くと点が消える」
「人生みたいだな」
「田端が急に深いことを言った」
「今のメモって」
「メモらない」
白石が肩を揺らした。
勉強会は、予定より少し長引いた。
提出物の確認。
英単語の口頭テスト。
漢字の読み。
数学の基本問題。
完璧とは程遠い。
だが、最初の一歩としては悪くない。
田端は最後にワークを閉じ、机に突っ伏した。
「疲れた」
「一時間ちょっとだぞ」
「俺の脳は普段そんなに働いてない」
「働かせろ」
白石は自分のノートを整えながら、小さく言った。
「でも、少し分かりやすかった」
俺は顔を上げる。
「そうか?」
「うん。全部ちゃんとやらなきゃって思ってたけど、先にやるところを決めると、少し楽」
「白石は全部ちゃんとやろうとしすぎるタイプだな」
「……そうかも」
白石は少し困ったように笑った。
「でも、教えてもらうだけじゃ悪いから」
そう言って、彼女は一冊のノートを俺のほうへ差し出した。
「これ、国語と社会のまとめ。よかったら、使って」
「いいのか」
「うん。佐伯くんの整理の仕方も、私、参考にしたいから」
ノートを受け取る。
表紙は少しだけ使い込まれていて、角がきれいに揃っている。
中身は、たぶん宝の山だ。
少なくとも、俺の混沌とした英語ノートよりは確実に信用できる。
「ありがとう。大事に使う」
「うん」
白石は小さくうなずいた。
田端が横から俺のノートをのぞき込む。
「悠真のノートも見せて」
「嫌だ」
「即答」
「人に見せる状態じゃない」
「白石さんには見せたのに?」
「見えただけだ」
白石が、俺の手元をちらりと見た。
「佐伯くんのノート、そんなにすごいの?」
「すごいぞ。いろんな意味で」
「ちょっと見てみたい」
俺は少し迷った。
見られて困るページが多すぎる。
ビットコイン。
Mt.Gox。
wallet.dat。
未来は変わる。
中学生の勉強会で出していい単語ではない。
俺は比較的まともなページだけを開いた。
期末テストの優先順位を書いたページだ。
白石がのぞき込む。
それから、少しだけ笑った。
「佐伯くん、考えてることはすごいのに、字はけっこう雑なんだね」
ぐうの音も出なかった。
田端が爆笑しかけて、図書室の先生に睨まれた。
俺は咳払いをして、ノートを閉じる。
「字は今後の課題だ」
「課題、多いな」
「人生は課題だらけなんだよ」
「また大人みたいなこと言ってる」
田端のツッコミが、妙に鋭い。
白石は口元を押さえて笑っていた。
以前のように、笑っていいのか迷う顔ではない。
今は、ちゃんとこの場にいる顔だった。
俺はその表情を見て、胸の奥が少しだけ温かくなる。
もう少し見ていたい、と思いかけて、俺はすぐに視線をノートへ戻した。
助けた相手に、勝手な意味を乗せるな。
今の俺が守るべきなのは、この子が安心して笑える距離だ。
テスト勉強。
提出物。
暗記。
途中式。
未来知識とは何の関係もない、地味な作業ばかりだ。
だが、この地味な作業の中で、少しずつ何かが変わっている。
信用。
居場所。
信頼。
全部、すぐには増えない。
でも、ゼロではない。
俺は白石のノートを鞄にしまいながら、思った。
中学生に勉強を教える三十二歳。
絵面はかなりおかしい。
けれど、これはこれで、人生をやり直している感じがする。
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