第五話
(一)
本格的に家政に取り組み始めてみれば、仕訳帳も元帳も荒れていた。
ユリウスとサイモンによってある程度は修正されてはいるものの、想定以上の荒れ具合だ。
日記帳だけはこまめに記載され、修正され、管理されている。
財産目録に至っては数年前からほぼ手つかずの状態だという。
アイゼンガルドには、地代や税金以外にも、林業や鉱山の事業収益、交易にまつわる収益、それに戦争賠償といった多岐にわたる収入がある。
リンドヴァルドとは規模も桁も違い、圧倒されてしまう。
アイリスはうず高く積まれた帳簿を前に一度気合を入れ直し、ペンを執る。
マーサには備蓄や足りないものの確認を任せ、城内の施設を回らせている。同行しているのがユリウスだから心配はしていない。
彼が副団長のほかに家令の役割もしているとは、驚きはしたが不思議ではない。
有能なのはすでにこの目で見ているし、アルフレッドの信頼の高さが窺える。
ユリウスに負けないくらいになりたい。
アイリスの胸にはそんな思いが浮かんでいた。
アンナが暖炉に薪を足しているところに、マーサとユリウスが戻ってきた。
手にした書類をアイリスに渡しながら説明をしてくれる。
「数が合わない項目も多くなかなかに骨が折れそうですが、奥様なら手に負えないというほどではありません」
在庫管理帳も荒れているのね。
アイリスは小さくため息を吐く。
いくらアイゼンガルドに潤沢な資産があるとはいえ、このままでいいはずはない。食料や薪といった備蓄や防寒服の不足に関しては、この地では人の命にすら関わってくる問題だ。
お金そのものでは人の命は救えない。
在庫管理の方法や人員の適切な配置も相談しなければ。
減らした人員の補充も必要だ。
アイリスが凄まじい速さで処理を進めていくのを、ユリウスは息を飲んで見守っていた。
忙しく頭を回していたい理由が、アイリスにはあった。
そうしなければ、思い出してしまうからだ。
何を。
──初夜を。
ハインツに解禁されたその夜、アルフレッドと体を重ねた。
何もかも想像と違ったそれを、どうしても思い出してしまう。
継母に言われ続けた呪いのような言葉は、アルフレッドの前では石ころよりも無価値のようだった。
肌にかかる熱い息づかいも、大きな手のひらの感触も、隙あらばアイリスの思考を奪いに来る。
(自分がこんなにはしたない人間だったなんて……!)
そんな軽い衝撃を覚えつつ、変態じみた思考に取り付かれるのが嫌で仕事に邁進している。
マーサもユリウスも、アイリスがそんな思惑だとは微塵も気づいていない。
処理速度に驚き、感心し、目を見合わせている。
「奥様、旦那様がお見えです」
アンナの声に、アイリスは手を止める。インクが滲むのをすんでのところで回避し、立ち上がった。
下半身にはまだ少し違和感があるが、それを無視する。
「閣下」
「ずいぶん集中していたようだな」
アルフレッドの手はなめらかにアイリスの腰を抱く。
あまりの自然さに、さっと頬が熱くなる。
「昼食にしよう」
歩けるか。そう耳元で囁かれ、思わず目を閉じた。
「……はい」
うつむき加減で答え、差し出された腕に手を回す。歩けないなどと言えばきっと抱き上げられてしまうのだろう。昼間からそれは避けたい。
「閣下、あとでお部屋に伺ってもよろしいですか」
「いつでも歓迎しよう」
「あ、その……在庫管理の方法を少し変えてはどうかというご相談で……」
蕩けるような甘い笑顔を向けられ、言葉が小さくなってしまう。
「それなら食事をしながら話そうか。ユリウスも同席しろ」
「ええ、ありがとうございます。ではマーサも一緒に」
今までは二人の食事に誰かを同席させることはなかったが、アルフレッドが許可してくれるなら話は早い。
齟齬なく主人の意が伝わるのは願ってもないことだ。
会議を兼ねた昼食会で問題点のあぶり出しが済み、対策方法などある程度の解決策が出て、ひとまずその仕切りはユリウスが受け持つこととなった。
「閣下、街を直に見て回りたいのですが」
食後の紅茶を飲みつつ、アイリスはアルフレッドに切り出した。
「街を?」
アルフレッドはアイリスをじっと見つめたまま、何か考え込んでいる。
「護衛は何人連れていかれますか、奥様」
ユリウスがその間にアイリスへ問いかける。
「アンナだけではいけませんか」
「最低でも二人はお連れいただくほうがよろしいかと」
リンドヴァルドで職場でもある街に行くときはアンナと二人が多かった。伯爵家に護衛の騎士を雇う余裕がなかったというのももちろん理由ではあるが、旅人や冒険者の多い地ではあったものの、一部の地域を除いてそれほど治安に不安がある場所ではなかったからでもある。
護衛なんて大げさではないだろうかと思うが、口に出してはいけない気がして黙っていた。
「俺が行こう」
「えっ」
アルフレッド以外の三人の声が重なる。マーサはすばやく口に手を当てた。
「閣下が一緒ならそりゃ安心ですが……」
「二人ほどは遠目に配置しろ。今後はアイリス専属の女性騎士も必要だな」
「確かに。男では入っていけない場所もありますし……腕の立つ女性騎士は少ないですから至急に確保しなければいけませんね」
ユリウスとアルフレッドは当然のことのように話を進める。
「ですが閣下はお忙しいのでは」
「そなたのためなら時間などいくらでも作れる」
アルフレッドの眩しい笑顔にアイリスは頬を染め、ユリウスは力なく笑い、マーサは石のように固まった。
午後は帳簿の整理に明け暮れた。
キリのいいところまで、と思うとなかなか止め時が難しい。
結果、しびれを切らしたアルフレッドが迎えに来るまで書斎にこもりきりになっていた。すっかり日も暮れて、窓の外は濃紺の空が広がっている。
伯爵家ではもっと長時間にわたって仕事をしていたとは、とても言ってはいけない表情が目の前にある。
「あの、閣下」
「なんだ」
「自分で食べられます」
アルフレッドの膝に乗せられ、スプーンを口元に運ばれている状況に、アイリスは理解が追い付かない。理解することを放棄したくなってくる。
「ペンを持ちすぎてもう腕も上がらないだろう」
そんなわけはない。
だがアルフレッドにはそうも言えない。
誰かの膝の上で食事をするなど、病気のときはもちろん、子どものころさえなかった気がする。少なくとも物心がついてからのアイリスにそんな記憶はない。
「ちゃんと反省します、明日からは時間を見て仕事をしますから」
アイリスの弁にアルフレッドはようやく納得してくれたようで、皿にスプーンを戻した。だがまだ膝の上からは解放されていない。
「そなたの机も俺の執務室に置けばいい」
アイリスの使っている書斎は三階の私室の近くで、アルフレッドの執務室は二階にある。確認事項があればその都度どちらかの部屋を訪れることになるので、効率を考えれば一理ある話だ。
薪の節約にもなるかも、とアイリスは思った。
アルフレッドの執務室はアイリスの書斎よりも倍以上の広さがあるし、間仕切りを立てれば彼の邪魔をすることもない。
「閣下のご指示通りに」
アイリスが同意を示すと、アルフレッドはサイモンへ目配せをした。すっと辞儀をして部屋を後にするサイモンは、ユリウスのもとへ行ったのだろう。
「ところで、街で何か欲しいものがあるのか?」
「刺繍や工芸品が一級品と聞いています。ぜひ見てみたくて」
「そうか。ならエルムグレンに行くとしよう」
***
午前中に確認するべき書類を処理し、出かける準備を済ませて部屋を出ると、ユリウスが階段を上がってきたところだった。
「ユリウス卿」
「奥様、馬車の準備が整いました」
「そうですか。……あ、あの」
出かけることになったのはいいものの、アイリスは手持ちが少ないことに昨夜気が付いた。
伯爵家にいたころは必要最低限だけの買い物で済ませていたが、せっかくアイゼンガルドの街に出るなら散策を楽しみたいし、アイゼンガルド家のツケではなく、気兼ねなく欲しいものを買ってみたい。
(お金をくださいなんて言えるわけないけど、何も持たずというわけにも……)
頭の中で言葉を選びながらユリウスを見上げると、聡い彼は察してくれたようだ。
「私としたことが奥様に確認していただく書類を忘れておりました.。こちらを」
まるで芝居のセリフのようにそう言いながら差し出されたそれには、品位維持費という項目があった。
あったはいいが、そこには見たこともない金額が書かれている。
「こ、こんなに、ですか……」
呆気にとられるアイリスをよそに、ユリウスは「足りないようなら閣下にもっと稼ぐように伝えますので」と笑顔を見せている。
「何かの間違いではありませんか?」
一応桁数を見せながら確認するが、ユリウスは眼鏡を押し上げながら笑顔を崩さずに「閣下のご指示ですので」と譲らない。
隣のマーサは無表情だが、体が固まっているのでおそらくアイリスと同じように驚いている。アンナからは書類が見えないようで、アイリスとマーサ、ユリウスの顔を不思議そうに見上げている。
アイリスは、馬車に乗り込んでからアルフレッドにそれとなく聞いてみたが、返ってきたのはユリウスと同じような言葉だった。
「足りないようならいつでも言ってくれ」
「まっ、まさか。そんな事態には絶対にならない額ではないですか」
伯爵家の収入を上回るほどの額が、品位維持費に割り当てられているなど、想像だにしないできごとだ。
「あ、ではミセス・マイヤーにお願いしたドレスの代金は当然ここから出ているのですよね? それなら安心ですね」
「……」
アルフレッドは答えない。薄っすらと笑みを浮かべているだけだ。
「閣下」
「……」
アルフレッドがすっと視線を逸らした。窓の外に目をやっているが、景色を見ていないのはバレバレだ。
アイリスは頭を抱え、ため息交じりに座り直す。
「妻への贈り物を妻の金で買う男がどこにいる」
アイリスの態度が不服だと言いたげに、アルフレッドが足を組む。向かいに座るアイリスに当たらないよう避けているところが愛おしい。
「……そうでした。慣れないことに驚いてしまって……ごめんなさい、閣下」
アルフレッドは自身の隣の座席をポンと叩く。座れという意味だろう。
アイリスはすばやくアルフレッドの隣に移動した。少し間を開けて座ったが、すぐさま抱き寄せられた。
街に着くまで、アイリスはされるがままアルフレッドに身を預けた。




