第三話 (六)
(六)
一番いい部屋とはいっても小さな村の宿だ。
二人で寝られるサイズとはいえ、ベッドは一台しかない。
「ベッドは閣下がお使いください」
アルフレッドに向かってそう言った途端、彼の眉間にしわが寄る。
「そなたはどこで寝るつもりだ」
「このソファがちょうどよさそうです。暖炉も近くて温かいし」
「アイリスがベッドを使うんだ。俺がここで寝る」
「で、でもこのソファは閣下には小さいですし」
「アイリスをソファに寝かせるなど、俺ができると思うか」
「閣下をソファで寝かせるなんて私もできません」
「じゃあ一緒に使えばいいじゃないですか」
問答の隙をついてふいに別の声が聞こえ、アイリスとアルフレッドの動きが止まる。
声の方へ振り返ると、開けた扉の前にユリウスが立っていた。
「ユリウス」
アルフレッドが呆れたような声を出すが、ユリウスはまったく動じない。
「今夜は冷えますし、それに最近この辺りは防犯面で少し気がかりな情報が入ってます」
「……わかった。二人で使うことにしよう」
「えっ」
音もなくユリウスが下がると、ぴっちりと扉が閉まった。
「閣下」
「そなたを危険に晒すわけにはいかない。聞き分けてくれ」
ですが、と言いかけたが、アイリスは口をつぐんだ。
ほかに空いている部屋はないし、わがままだと受け取られたくない。それに安全面を切り出された以上、どう頑張ってもアルフレッドを説得するのは無理だと悟ったからだ。
「俺たちはすでに夫婦だ。一緒に寝ても何の問題もないだろう」
肩に手を置いたアルフレッドがそんな言葉を投げてよこした。
「でっ、ではアンナを呼んで休む準備をいたします」
「わかった。俺はユリウスと警備の最終チェックをしてくる。先に寝てくれてかまわない」
「はい、わかりました」
アルフレッドが部屋を出て少しすると、アンナとマーサが石鹸や着替えを手に入ってきた。
衣擦れの音とタオルを絞る水の音が静かな部屋に響く。時折、薪が爆ぜる音が混じる。
「ねえ、マーサ。今夜が初夜ということなのかしら」
二人に体を拭かれながら、アイリスは自分の体に目を落とす。メリハリ、凹凸……そんな言葉と無縁の、青白い体だ。
「それは……閣下のお気持ち次第かと」
「まさかこんな田舎の宿屋で、ですか? そんなの全然ロマンチックじゃないじゃないですか」
アンナが思わずといった風に声を上げると、マーサが咎めるような視線をアンナに送った。
「殿方というものは、自分より小さくて守ってあげたくなるような柔らかな曲線を好むもの、と聞いたのだけど」
カサンドラに過去幾度となく言われた言葉を思い出した。
「……奥様、それは」
「あ、その、こんな骨ばった体でも大丈夫なのかしら、と思って」
アイリスには否定できる根拠も経験もない。だから少しばかり不安になってしまう。
マーサもそれに気づいているようだった。
アンナが香油を髪に塗布し、梳いてくれる。ブラシの通る規則正しい音を聞きながら、目を閉じて身を任せる。
「きっと心配いりませんよ」
優しい声音で励ましつつ、清拭を済ませたアンナとマーサは控えの部屋へと戻っていった。
なかなか戻ってこないアルフレッドを待ちながら、暖炉の前でじっと炎を見つめる。すると、扉を控えめにノックする音が聞こえた。
扉を開けると、立っていたのはアルフレッドだった。
「扉を開ける前に相手が誰か確認するんだ」
アルフレッドが眉根を寄せて「心配だな」と呟いている。
そんな些細なことも、アイリスには新鮮で嬉しかった。
黒いシャツのボタンを少し開け、髪もまだ少し濡れている。彼も清拭を済ませたのだろう。
手に持っているのは、馬車でも使っていた湯たんぽと、グラスの乗った盆だった。
「まだ起きてるだろうと思ってホットワインを作らせたんだ」
盆を受け取ったアイリスに話しかけながら、アルフレッドは布団の中に湯たんぽを入れている。
「閣下、そのようなことは私が」
「妻の世話を焼くのは夫の特権だろう」
楽しそうにそんなことを言うアルフレッドに、アイリスは戸惑いを隠せない。
ソファに戻ってきたアルフレッドが、グラスを一つ持ち上げる。アイリスも倣ってグラスを取り、両手で包んだ。鼻先にスパイスの香りが漂う。
「……美味しい」
ほぅと息が漏れてしまう。
アルフレッドの視線から逃れたくて、暖炉のほうに体を向けて座り直す。
言葉を発することなく二人でじっと暖炉の前で過ごしているが、アイリスはこの沈黙が緊張からきていることは自覚していた。
時折、階下から騎士団員たちの談笑する声が聞こえてくる。
炎の揺らめきにだんだんと心が落ち着いてくるのが分かる。
アルフレッドもゆったりと腰掛け、リラックスしているようだ。手が大きいために、持っているグラスが小さく感じる。
そう考えると、ふふ、と小さな笑みがこぼれた。
「どうした」
すかさずアルフレッドに問われ、アイリスは何と答えようか逡巡する。
「もしかして酒に弱いのか」
アルフレッドが腰を上げ、アイリスの手からグラスを取り上げる。中身はほとんど飲み切っていた。
お酒を飲んだのはもしかしたら初めてだったかもしれないと、アイリスは記憶を辿る。
「閣下と出会ってから、初めての経験が多い気がします」
「うん?」
「あの森で誰かと会うのは初めてだったのです。あんなふうに誰かに助けられたのも、……人に魔法を使ったのも」
「あれは俺も初めてだったな」
そんなに前の話でもないのに、アルフレッドは懐かしそうに笑う。アイリスは暖炉の温もりを感じながら、アルフレッドをじっと見上げる。
「……アイリス?」
「……あ、いえ」
自分から今夜は初夜なのかと聞いていいものだろうか。だけどどう考えても自分からそんな話をするなんてはしたない気がする。
確か「夫に従うのが初夜の心得」だと習ったはずだけど、もしアルフレッドにその気がなければ困らせてしまうかもしれないし、そのつもりだと思われるのは何となく気恥ずかしい。
アイリスは無表情のまま、ぐるぐると思考を巡らせている。
その間にアルフレッドは慣れた手つきで暖炉の火を熾火にしていた。ソファの脚がぼんやりと赤く染まる。
「明日も朝から馬車移動だ。早めに寝ておいたほうがいい」
「はっ、はい」
アイリスが慌てて立つと、アルフレッドも続いて立ち上がった。
彼の行動が騎士として当然のものであるとは分かっていても、せっかく落ち着いた心がまた逸り出す。
あれこれ考えてもなるようにしかならない。
アイリスはそう肚を決め、差し出されたアルフレッドの手を握り返した。手を取られるままベッドに入る。
足元の湯たんぽのおかげで、寝具内はじんわりと温かい。
大きなベッドといえ、アルフレッドの体も十分に大きいため並んで寝ると腕が触れるほどに距離が近い。さりげなく体を横向きにして背中を向ける。
枕を通して自分の心臓の音が聞こえる。早鐘を打つような勢いだ。
男性と同衾するなど人生で初めての出来事なのだから仕方ない。
アイリスは自分にこんなことが起こるとは想像もしていなかった。だからきっと意識しないほうが無理なのだ。
そんなふうに言い聞かせながらぎゅっと目を閉じる。
背中の方から衣擦れの音がする。アルフレッドが寝返りを打ったのだろうか。
「……怖がらなくていい」
そんな言葉とともに、背中から抱きしめられた。
「!」
アイリスの緊張は最高潮に達する。
包み込まれたまま、アルフレッドに次の動きはない。
少し速い、だけど規則正しい心音が背中から伝わってくる。
──怖がってなどいません。
そう伝えたいのに、言葉が出てこない。
動悸は治まらないながらもアルフレッドの体温が伝播し、徐々に体の緊張が解れ始めている。
慣れない馬車旅の疲労か、初めてのアルコールの効果なのか、アイリスの意識は闇のなかへと静かに沈んでいった。




