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第三話 (五)

(五)


 夜会から二日後にはもう出立の時を迎えていた。

 二日前に夫となったばかりのアルフレッド・アイゼンガルド閣下が治める辺境の地。

 冬の長い、厳しい土地と聞く。

 伯爵領であるリンドヴァルドがすっぽり収まるほどの森を要する広大な地が、アイゼンガルドの領地だ。

 ここからは馬車で三日の行程である。途中に宿泊が二回と、都度休憩を挟む予定と聞いている。


 辺境伯家の紋章が入った馬車は一般のそれよりも一回り大きく、頑丈に造られていた。それでも、向かいに座るアルフレッドの長い脚はアイリスの膝に触れるほど近くにある。

 一緒に乗ってくれているのは、アイリスの体調を慮ってのことらしい。


 窓の外には護衛の騎士が並走している。

 そのうちの一人はユリウスだ。

 きっと馬車より騎乗を好むであろうに、アルフレッドには窮屈な思いをさせているはずだ。


「……閣下、私はアンナたちと同じ馬車でも良かったのですけれど」


 アイリスの言葉に、アルフレッドは少し眉を下げて薄い笑みを浮かべた。


「そなたを視界に入らない場所へ置くなど、今の俺には不可能だ」


 今さら逃げ出したりしないのに。

 アルフレッドの言葉に、そんな思いが頭をもたげる。


「閣下の馬ならもっと早く着けるでしょうに、私が馬に乗れないばかりに……申し訳ありません」

「気にすることはない。それより揺れはどうだ。具合が悪くなりそうならすぐに教えてくれ」


 淡黄色の瞳がまっすぐに向けられ、アイリスはつい見惚れてしまう。大好きなユキヒョウを思い出したからだ。

 マーサやアンナ以外の誰かに心配されることに慣れていないからでもある。


「はい、大丈夫です。ありがとうございます」


 ほぼ経験のない馬車移動は過酷と言えば過酷だが、アルフレッドと一緒にいるこの空間は、居心地がいいとさえ感じていた。


 窓から差し込む日の光に、アルフレッドの銀髪が照らされている。

 今日もアルフレッドが身につけている服は全部が黒色で、色素の薄い銀色と瞳の黄色がやけに目立つ。目元の近くに残っている傷は、討伐時に負ったものだろうか。


 そんな風に観察を続けていると、アルフレッドが軽く咳払いをした。寒いのか、耳の先がほんのり赤くなっている。


「毛布は足りているか」


 足元に数枚の毛布、そしてアイリスの膝の上には湯たんぽが乗せられている。陶器製のそれは無地で飾りのないネル生地のカバーに入れられていた。出発前にアルフレッドがわざわざ手渡してくれたものだ。


「はい、温かいです」


(閣下は本当に面倒見がよくて責任感が強いお方なのね)


 誓約書のせいで娶るしかなかった相手を、こんなにも甲斐甲斐しく世話を焼いてくれるアルフレッドに、感動すら覚えていた。


 見慣れた景色から、少しずつ遠ざかる。

 道を進むにつれてリンドヴァルドの領地にはない植生も目に入ってくる。


「そろそろ領地の境界でしょうか」

「あともう少し先だな。このあたりは今夜の宿屋のある村だ」


 自領といえど、領地の端まではまめに訪れることはできなかった。書類でしか見ることのなかった宿屋の名前が記された看板が目に入る。


「すまない。一度しか休憩を取らなかったから疲れただろう」


 先に馬車を下りたアルフレッドは手を差し出しながらアイリスを見上げている。いつもは見上げる位置にある彼の顔が、目線より少し下に来ている。


(閣下を見下ろすなんてあの日以来ね)


 シャツを修繕したあの日、座っているアルフレッドを見下ろした光景を思い出す。

 あの日は夕日に照らされた銀髪が綺麗だった。


 アルフレッドに握られた自分の手はとても小さく感じる。

 身長の高さに比例して、女性としてはそれなりに手も大きいはずなのに、まるで守られているような気持ちになる。

 アイリスの足が地面につく前に、体がふわりと浮き上がった。だけどそれは一瞬のできごとで、えっと声を出す前にアイリスの足はしっかりと地面を踏んでいた。

 隣のアルフレッドを見上げると、いたずらっぽく目を細めた。彼の手はアイリスの腰を支えている。


「すぐに食事はできそうか?」

「ええ、もちろんです」


 日が暮れて、辺りはすでに暗くなり始めている。このまま夜の森を進むわけにはいかないので、この地が今夜の宿とされた。

 到着時刻が予定通りなのは、行軍にも慣れている辺境領の騎士団のおかげなのだろう。

 小さな宿で、それほど部屋数に余裕があるわけではない。

 ユリウスによれば、騎士たちは一階の広い部屋で雑魚寝をするという。


「我々は酒と肉と、あとは屋根があれば十分なのですよ」


 アイリスの心配をよそに、ユリウス以下騎士たちは笑顔でそう答えた。

 マーサは少し馬車に酔ったようで、アンナが冷たい水を運んでいる。


 騎士たちの胃袋を満たす食事の量に、アイリスは驚きを禁じ得ない。

 スープだけで済ませる日もあったアイリスの何倍も、何日分もの量に匹敵するからだ。

 アルフレッドは早々に食事を終わらせたアイリスに、何度も「遠慮するな」「もういいのか」と確認を入れてくる。そのたびに「もう入らないのです」と断るのが心苦しいが、遠慮ではないのだと何とか分かってもらおうと言葉を尽くした。


 その後、アルフレッドに連れられて入ったのは、最上階の一等室だった。

 部屋には暖炉があり、清拭用の盥も置いてある。

 暖炉の前にはソファとテーブルのセットが置いてある。ベッドは大きいが一台しかない。


「アイリス、少し話しておきたいことがある」


 ソファに促され、向かい合って腰を下ろす。暖炉の熱が優しく届いて、片側の頬を淡くオレンジ色に染めている。


「家のことは心配いらない。うちの弁護団は優秀だし、何より陛下が主導してくれているからな」

「陛下が、ですか」

「ああ。除籍の件も滞りなく処理できたと報告をもらっている。……遺産の回収については正直なところ全額は難しいとは思うが最善を尽くそう」

「ありがとうございます」


 伯爵家にあった銀器や絵画の類は早々に売られてしまっていて、買い戻すことはなかなかに骨の折れる作業となる。

 とはいえカサンドラとリリアーヌが買い集めた宝石やドレスを処分して、ある程度の金額は回収できたらしい。

 だけどそのお金が戻ってきたところで虚しいと思う気持ちは変わらないだろうと、アイリスはため息を吐く。

 母の気持ちを踏みにじられたことは、きっと一生許すことはできないのだから。


「あの誓約書なんだが、先々代……俺の祖父が渡したようだな」

「ええ。祖父の添え書きも一緒に残っていました」

「そうなのか。それには何と……?」


 アルフレッドが少し身を乗り出す。


「隣国との小競り合い、とはありましたが戦争ですね。当時の伯爵閣下の軍へ兵站を届けたのが誓約書を賜る理由になったと」


 アイリスの祖父が私財を投げうって兵站支援を出したことを、アルフレッドの祖父が義理堅く恩義を感じてくれたらしい。

 当時のヴァレンシュタイン家もそこまで潤沢な資金があったわけではないが、それでも若かりしころの祖父が英断し、アイゼンガルド伯爵を全面的に支援したことで軍は持ち直し、国境に近いリンドヴァルドの領民どころか、多くの王国民が助かった。

 その軍功を認められ、ジークフリート・アイゼンガルドは辺境伯へと昇爵した。


「そうだったのか」


 アルフレッドは腑に落ちたという表情で何度もうなずいた。


 祖父がそのことを話してくれたことはなかったが、アイリスは先代のギルド長から聞かされたことがある。

 祖父はその誓約書を使いたくなかったはずだ。だけど捨てるわけにもいかなかった。だからこそ隠し引き出しに入れておいたのだ。

 それを都合よく使おうとしたのが自分の父親だという事実は、一生の恥に思える。


「あの誓約書のために陛下を始め、たくさんの方にお手間をおかけしたことは申し訳ないですが、おかげさまで領民の生活を守ることができます。……閣下も、本当にありがとうございます」


 頭を下げると、アルフレッドは慈愛のこもった目でアイリスを見つめた。


「俺のことはいい。そなたの力になると約束したからな」

「閣下。このご恩は決して忘れません。必ず、アイゼンガルドのお役に立ってみせます」

「ああ、心配はしていない。期待はしているが無理はしないでくれ」


 アルフレッドが柔らかく笑う。


 ──共に守ろう


 彼にそう言われたときから、アルフレッドに対する信頼のような気持ちが大きくなっている。

 そんなこと、誰も言ってくれたことはなかった。だからこそあの言葉が、今はアイリスを支えていると言ってもいい。

 アイゼンガルドにとって何のメリットもないこの結婚に対しても、アルフレッドは誠実だ。アイリスは彼のために、アイゼンガルド領のために、自分ができうる限りのことをしよう。

 そう決意して一歩を踏み出したのだ。


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