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第三話 (四)

(四)


「アイリス」

「閣下、申し訳ありません」

「何を謝ることがある」


 言葉より先に、体が動いていた。

 細い腰を抱き寄せると羽のように軽い。

 今まで、どれほど一人で耐えてきたのか。


「もう大丈夫だ」


 低く、確かめるように告げる。

 その瞬間、アイリスの指がそっとアルフレッドの上着を掴んだ。ほんのわずかだが、力が込められている。

 それだけで胸が締め付けられた。


「このままタウンハウスへ連れていく。そなたの屋敷には使いを出そう」

「このまま、ですか?」

「そうだ。必要なものを持ってくるよう伝えればいい。北部に連れていきたい使用人がいるなら言ってくれ。そなたが望むなら全員連れていく」


 アイリスを腕の中に閉じ込め、その髪に鼻先を埋める。折れそうに細い体を傷つけない程度に力を入れて抱きしめる。


「あ、あの……閣下。お願いがございます」


 見上げてくるアイリスの顔は、ちょうどアルフレッドの胸辺りにある。アイリスへの愛しさがあふれて危うく爆ぜそうになる。


「お言葉は大変嬉しいのですが、できれば一度屋敷に戻りたいのです。あちらへ行く前に整理しておきたいこともありますし、会っておきたい人も」

「誰だ?」

「クラリス・エバンス嬢ですわ」


(エバンス……さっき庭園で一緒にいた赤毛の令嬢か)


 アイリスの周辺にいる人物相関図を頭に描き、会いたいのが女性だということに安心している自分に気づく。


「分かった。俺が性急すぎたな。では今夜は送るとしよう」

「ありがとうございます」


 ユリウスはすでに馬車を回しているはずだ。

 アルフレッドは左手でアイリスの腰を抱き、右手を差し出す。アイリスはためらいながらも自身の右手をそっと乗せてきた。


「ところでアイリス、今夜はひときわ美しいな。ドレスも似合っている」

「……そう言っていただけて嬉しいです。閣下も黒がお似合いで、素敵です」


 目の前で白い頬がじわじわと紅く染まっていく。

 アルフレッドは満ち足りた気持ちでアイリスを部屋から連れ出した。


 夜会の喧騒が遠ざかり、馬車の扉が閉まる。

 揺れは驚くほど穏やかだった。

 向かいに座ったアルフレッドは、アイリスの顔をじっと見つめている。


「……まだ震えている」


 言われて初めて、アイリスは自分の指先が冷えていることに気づいたように手を握る。


「大丈夫です」


 その答えを聞いた瞬間、アルフレッドの眉がわずかに寄った。すぐに隣に移動して、華奢な体をふわりと包んでいた。

 厚手の外套を肩にかけ、両手を包み込む。薄くて細い手を壊さないよう、ガラス細工を扱うような仕草で親指を滑らせた。


「……閣下、お聞きしてもよろしいですか」


 アイリスが少しだけ緊張した面持ちで切り出した。


「なんだ」


 アルフレッドはアイリスの手を握ったまま、優しく囁いた。


「陛下に除籍を願い出たとき……勝手なことを、と驚かれませんでしたか?」

「そなたは俺が思っていたよりもずっと強く、聡明で優しいことには驚いた」


 こんなときでも人の心配をしているアイリスに、アルフレッドはほんの少し目を細めた。

 指先をすり合わせるように温める。それと同時に胸の奥までじんわりと熱が広がっていく。


「ですが……家族を捨てるような冷酷な女だと思われたのではないかと……」

「アイリス」


 アルフレッドに名前を呼ばれ、アイリスはさっと顔を上げる。藤色の瞳がすぐ近くにあった。


「冷酷なものか。そなたがやらなければ俺が陛下に進言していた」


 その言葉に、アイリスは今夜初めて、心の底から救われたような顔をした。

 アイゼンガルドを任せるに足ると確信している。そう伝えたかったが、アイリスの重荷になるような気がしてアルフレッドはぐっと飲み込んだ。


「これからは俺が家族だ」


 それだけを伝えた。涙がこぼれそうになったのか、とっさに顔を隠そうと両手で覆う。

 涙が落ちる前に、そっと抱き寄せる。


「見られたくないなら、こうしておこう」


 アイリスのどんな表情も見逃したくはない。だけど彼女が隠したいと思うなら、無理に暴くこともない。


 広い胸の中、アイリスはそっと目を閉じた。頬に幾筋もの涙が伝う。

 馬車は静かに夜道を進む。

 王都の灯りが、ゆっくりと後ろへ流れていった。



 ***



 屋敷の門が開くと、玄関にはまだ灯りがともっていた。


「お嬢様!」


 扉が開くなり、アンナが駆け寄ってくる。その後ろで、チャールズとマーサも深々と頭を下げた。


「アルフレッド・アイゼンガルド辺境伯閣下よ」


 アイリスの言葉を受け、アルフレッドは隣に立った。その大きさ故か三人の視線が揃って上を向いている。


「アイリスは正式に俺の妻となった」


 一瞬の沈黙。そして、ぱっと空気が明るくなる。


「それは、おめでとうございますお嬢様」

「よかったですねえ、お嬢様」


 口々に祝いの言葉を送ってくれる。

 アンナはすでに半泣き状態だ。マーサは目を細め、チャールズはホッとしたように何度もうなずいた。

 その光景を見た瞬間、アイリスの胸に込み上げるものがある。

 四人がしんみりと喜びを分け合うなか、アルフレッドは静かに告げる。


「できる限り早く連れて帰りたい。必要なものをまとめてくれ」


 それを聞いた三人はぶんぶんと大きく首を縦に振る。


「アイリス。さっきも言ったが、そなたが望む使用人は全員連れていく。遠慮はいらない」

「では、私はアイゼンガルドにお連れいただけるのですよね」


 アンナはその言葉にすかさず身を乗り出してきた。

 その気持ちが嬉しく、アイリスは胸がいっぱいになる。


「アンナさえよければ、もちろん一緒に来てほしいわ」


 執事のチャールズはこれを機に隠居して孫の近くで暮らしたいという。

 だが伯爵家の窮状の通り、土地を与えることは難しい。渡せる年金も十分とは言えまい。それでもチャールズは「それなりの財産は蓄えていますよ」と片目を瞑るお茶目な一面を見せてくれた。


「マーサはどうかしら」

「お嬢様……」


 マーサは夫に先立たれていて、息子たちはすでに手を離れ、王都で仕事をしている。

 一人で暮らしている彼女を置いていくのが、少し心配でもあった。

 厳しいところはあるが、まるで母親のようにずっと見守ってくれていたマーサに、アイリスはアイゼンガルドについてきてほしいと言ってみた。


「もちろんあなたの決断を尊重するわ。無理は言わない。だけどまだもう少し、マーサには私のことを見守っていてほしいの」


 祈るようなポーズで見つめる。アイリスが子どものころに、マーサにお願いごとをするときによくやっていた仕草だ。

 マーサは数度まばたきをして、ふっと笑顔を見せた。


「私がその顔に弱いと知っていたのですね。亡くなった奥様のお気に入りの花瓶を割ってしまわれた時以来でございますよ」

「まだ通用するとは思ってなかったの。本当よ」


 もうすぐ成人するというのに、必死なあまり卑怯な手を使ってしまったかもしれない。

 でもマーサは受け入れてくれた。


「アイゼンガルドには女性の使用人は少ないんだ。歓迎する」

「精一杯、努めます」


 アルフレッドの言葉に、マーサは深くうなずき、腰を折る。


「これからは奥様と呼ばなければいけませんね」

「はっ、そうですね。これからもよろしくお願いします、奥様!」


 アンナも目頭を拭いながらマーサに追従する。


「食事を取ったら眠るんだ。明日はエバンス令嬢に会うんだろう」

「ですが」

「アイリス。俺はタウンハウスに連れ帰るのは我慢した。そなたも俺の願いを聞いてくれ」


 そう言われてしまえば、拒否はできない。エバンスの屋敷にはすでに使いも出している。アイリスは観念してうなずく。

 その後、ユリウスがリンデンの食堂から買ってきた食事を受け取り、アルフレッドに見張られながらいつもよりしっかりとした量の食事を取った。

 静かな屋敷の中で、アイリスは久しぶりに、守られているという実感とともに眠りについた。




 翌朝、日課の祈りを終えたアイリスはアンナに止められながらも荷造りを手伝っていた。そもそもそこまで私物を持っていないので、すぐにでも終わりそうだ。

 そんな中、クラリス嬢が来てくれたとマーサが部屋に呼びに来た。


「キャス、呼び出したりしてごめんなさい」

「そんなこといいのよ。それよりアイリス!」


 今日の赤毛はハーフアップに結われている。

 応接室へ案内し、だけどソファには隣り合って座る。


「朝、お父さまにも聞いたわ。あなたが閣下のもとへ嫁ぐことになったと」

「ええ。閣下はとてもよくしてくださって、近々、家のことも片がつきそうよ」

「よかったわ。閣下に見る目があると証明されたわね」


 なぜかキャスのほうが嬉しそうに笑っている。だけど次の瞬間にはまた表情が一変する。


「ああでも、本当に辺境の地へアイリスを連れ去ってしまうなんて」

「キャスには本当にいろいろとお世話になってばかりで、どう恩返しすればいいかしら」

「何を言ってるのよ、それは私も同じよ」


 手を握り合い、顔を合わせる。


「本当に寂しくなるけど、まずはおめでとう。どうやって仕事を続けるかは、おいおい話していきましょう」

「ありがとう、キャス。手紙を書くわ」


 その後アルフレッドが屋敷に現れるまでの二時間、アイリスとキャスは独身最後のお茶会を楽しんだ。

 キャスはアルフレッドに会うや、アイリスと商会をよろしく頼むと力強く挨拶し、「幸せになってね」と鼻の頭を赤くしながらも笑って見送ってくれた。


(幸せに……か)


 伯爵家の調査をし、よほど閣下の同情を買ったのだろう。


 アイリスはアルフレッドの接し方を見て、そんなふうに考えていた。

 好意的に接してくれる男性が執事のチャールズくらいしかいなかったせいで、アルフレッドが優しくしてくれる理由がそれ以外に考えられない。


 アイゼンガルド家のためには、リリアーヌより家政に慣れているアイリスが嫁ぐほうが理にかなっている。

 辺境伯夫人としてアイリス自身がふさわしいかどうかは自信がないが、家同士の契約として、求められる役割を果たすべく努力するだけだ。

 誓約書によって妻を迎えなければならなくなってしまった彼にこれ以上の迷惑をかけないためにも、持参金のない婚姻を受け入れてくれた恩に報いるためにも、できることは全部やろう。

 アイリスはそんな決意を固めていた。


 隣に立つアルフレッドがどれほど熱いまなざしでアイリスを見つめているか。

 それに気づくのには、まだ少しかかりそうだ。



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