桜と桜のブローチ
深夜の重苦しい沈黙が続いてから、どれほどの時間が経っただろうか。
個室の白いカーテンの隙間から、次第に青白い光が差し込み始めていた。夜の闇がゆっくりと退き、東の空が淡い朝焼けのオレンジ色に染まっていく。
健人は椅子に座ったまま、一睡もせずに美有のそばにいた。
気まずい空気のまま会話は途絶えていたが、健人が部屋を出ていくことはなく、美有もまた、黙ってそこにいてくれる健人の存在を拒むことはしなかった。
部屋が朝の光で十分に明るくなった頃、美有がふと、窓の外へと視線を向けた。
「あ……」
美有の小さな呟きに引かれるように、健人も窓の外を見る。
病院の敷地内、ちょうどその個室の窓から見下ろせる位置に、一本の大きな桜の木が立っていた。
昨夜は暗闇で見えなかったが、その枝には、淡いピンク色の花びらが一斉に花を開かせていた。
「桜……咲いてたんだね」
美有が酸素マスクの向こうで、微かに微笑んだ。
その表情には、昨夜の怯えや戸惑いは少しだけ薄れ、いつもの彼女らしい穏やかさが戻っているように見えた。
健人はその桜を見つめながら、上着のポケットにそっと手を伸ばした。
そして、中から一つの小さな固形物を取り出した。
「これ……」
健人が美有の視線の先に差し出したのは、昨日、事故現場のアスファルトの上に転がっていた、あの桜のブローチだった。
トラックにはねられた衝撃でカバンから飛び出し、血の海の中に落ちていたのを、健人が救急車に乗る直前に拾い上げていたのだ。
少しだけ傷がつき、汚れを拭き取った形跡のあるブローチを見て、美有の瞳が大きく揺れた。
「持ってて、くれたんだ……」
「道路に落ちていた。アンタが大切にしていたものだと思ったから」
健人は「アンタ」という言葉を使いつつも、その声からは昨日までの刺々しさは消えていた。
健人はブローチを、美有の点滴の繋がれていない方の手のひらに、そっと乗せた。
美有はブローチを愛おしそうに握りしめ、弱々しい声で語りかけた。
「これね……健人がいなくなってから、ずっとお守りにしてたんだよ。いつかまた健人に会えたら、その時はまた、あの頃みたいにみんなで一緒に笑い合えますようにって」
美有の真っ直ぐな言葉が、健人の胸の奥を静かに突いた。
自分をずっと縛り続けていたのは家族を奪われた夜の「炎」だったが、彼女をずっと支えていたのは、あの頃の「光」だったのだ。
殺し屋になり、完全に別の世界の人間になってしまった自分を、彼女は今でもあの頃の健人として待っていてくれた。
「……バカだな。そんなもののために、命を落としかけるなんて」
健人は視線を窓の外の桜へと戻し、ぽつりと言った。
ぶっきらぼうな言い方だったが、その横顔には、ほんの少しだけ昔の優しい面影が戻っているように見えた。
「バカでもいいよ。だって、こうしてまた健人とちゃんとお話できたんだもん」
美有の言葉に、健人は何も言い返さなかった。
美有の手の中にある桜のブローチと、窓の外に咲き誇る本物の桜。
自分たちの生きる世界は完全に分かれてしまったのかもしれない。
それでも、二人の間にある記憶と絆だけは、あの頃と変わらないまま、朝の光に照らされて静かに息づいていた。




