拒絶
「健人、なんだよね……? なんでそんな格好をしてるの? ずっと、どこに行ってたの……?」
美有の声は震えていた。
その問いかけを背中で受け止めながら、健人は一言も発しない。
これ以上、彼女と言葉を交わすべきではない。
そう判断した健人は、上着のポケットに手を突っ込んだまま、美有を徹底的に突き放すためにゆっくりと振り返った。
その瞳には、かつての面影など微塵もない、完全な冷徹さが宿っている。
健人は美有を冷たく見下ろし、感情の消えた声で言い放った。
「……誰だよ、アンタ」
「え……?」
美有の思考が、一瞬で真っ白になった。
忘れ去られている。
火事の夜から一日たりとも忘れたことはなく、ずっと無事を祈り、探し続けていた大切な幼馴染。
その存在のすべてから、自分の記憶が完全に消去されたかのような拒絶の言葉。
「な、に言ってるの……? 私だよ、美有だよ……? 忘れるわけないじゃない、一緒に……」
美有は声を震わせながら、一歩健人に近づこうとした。
しかし、健人の視線は、まるで見知らぬ不審者を警戒するかのように、どこまでも冷ややかだった。
「知らないな。人違いだろ。俺の名前を勝手に呼ぶな」
その冷酷な一言は、美有の胸の奥を容赦なく引き裂いた。
忘れられていたという事実が、あまりにも重いショックとなって彼女の全身を打ちのめす。
心臓が痛いほどに脈打ち、涙が視界を遮っていく。
だが、美有はそれでも退かなかった。
ここで引けば、健人は本当に手の届かない暗闇へ消えてしまう。
彼女は溢れる涙を拭いもせず、必死に声を張り上げた。
「嘘……嘘だよ! 忘れるはずない! 目を見ればわかる、あなたは健人だよ! なんでそんな他人のフリをするの……っ!」
「しつこいな。アンタみたいな平和ボケした学生と関わっている暇はないんだ。どいてくれ」
健人はそれ以上取り合わないというように、美有の横をすり抜けようとした。
その焦りからか、ポケットから手を引き抜いた瞬間に、一枚の折り畳まれた紙が滑り落ちた。
白い紙が、夕風に煽られて美有の足元へと転がっていく。
「あ……」
美有が反射的にそれを拾い上げた。
健人が振り返り、奪い取ろうとしたが、一歩遅かった。
美有はその紙を開いてしまった。
そこには、ターゲットの顔写真、行動ルート、そして『排除』の文字と報酬額が、淡々と記されていた。
昨日まで関西で処理していた仕事の、まだ破棄していなかった依頼書だった。
「これ……何……? 排除って、どういうこと……?」
美有の顔から一気に血の気が引いていく。
衣服の焦げ跡、手や顔の無数の傷、そして目の前にいる少年の、あまりにも冷酷な瞳。
すべてのパズルが、最悪の形で美有の頭の中で繋がってしまった。
「健人、あなた……人を、殺してるの……? 殺し屋に、なっちゃったの……?」
「……だったら何だ」
秘密を知られた健人は、隠すことすら止め、低く威嚇するような声で言った。
「それが俺の仕事だ。アンタには一生関係のない世界の話だよ」
「そんなの仕事じゃない……! お願いだから、もうやめて! 私のことは、誰だか分からなくなったままでも構わない! 忘れたままでいいから……っ! でも、これ以上そんな恐ろしい仕事をするのはやめて、普通の生活に戻ってよ、健人……!」
美有はボロボロと涙をこぼしながら、健人の上着の裾を必死に掴んだ。
明るい世界から、闇の底にいる彼を救い出そうとする、悲痛な祈りの叫びだった。
だが、その「普通の生活」という言葉が、健人の強い逆鱗に触れた。
普通の生活など、あの火事の夜にすべて焼き尽くされた。
家族を奪われ、復讐のためにしか生きられない今の自分に、そんな温かい場所が残されているわけがない。
健人は美有の手を乱暴に振り払った。
「離せよ!!」
路地裏に、健人の激しい怒号が響き渡った。
いつも無表情な健人が見せた、初めての激しい感情。
しかし、それは美有を完全に拒絶するためのものだった。
「あんたに何が分かる! 何も知らないくせに、綺麗事を並べるな!」
健んは肩を荒く上下させながら、吐き捨てるように言った。
「……アンタには関係ねぇだろ。二度と俺の前に現れるな。さっさと家に帰りな!」
美有の心が、完全にへし折れた。
あまりにも冷たく、容赦のない拒絶。
自分の必死の願いは届かず、ただの迷惑な他人として処理されたのだ。涙で視界が完全に滲み、美有はもう、健人の顔を見ていられなかった。
「う、あ……っ……!」
押し寄せる悲しみと絶望に耐えきれず、美有は顔を覆ったまま、逃げ出すようにその場から走り出した。
健人の横をすり抜け、路地裏から大通りへと、周りを見る余裕もないまま飛び出していく。
「おい、待て――!」
健人が異変に気づき、手を伸ばした瞬間。
美有が飛び出した大通りには、夕方の渋滞を避けるように、猛スピードで走ってくる大型トラックの姿があった――。




