兄
昔の兄は、本当に優しかった。
大村家という冷え切った家庭の中で、心人だけがいつも志人の味方だった。
「ほら志人、笑えよ! お前がそんな難しい顔してたら、世界が暗くなっちゃうだろ?」
そう言って、いつも変な顔をしたり、くだらない冗談を言っては、年の離れた志人を無理やりにでも笑わせてくれていた。
ずっと、心人は明るかった。
どんなに辛いことがあっても、弟の前では決して涙を見せず、太陽のように眩しい笑顔を絶やさなかった。
ずっと、誰よりも弟想いだった。
『志人は頭が良いからさ、きっと何にだってなれるよ。俺がずっと、お前の後ろを守ってやるからな』
あの優しい兄が、なぜ――。
自分が闇の世界に身を落としたばかりに、兄までをその底へと引きずり込み、自分のこの手で、その命を奪ってしまった。
「志人、終わったぜ。……大丈夫か?」
背後から、血に濡れたナイフを収めながら市川が歩み寄ってきた。
健人もまた、覚醒させた瞳の光を静かに消し、銃をポケットにしまいながら並び立つ。
二人は、心人が遺した言葉のすべてを聞いていた。
志人はゆっくりと、いつもの冷徹な仮面を被り直した。
眼鏡の位置を指で直し、振り返る。
その表情には、微塵の動揺も残っていないように見えた。
「ああ、問題ない。任務完了だ。……二人とも、先に東京へ戻って、どこかで飯でも食べていてくれ。俺は、上層部への報告と、ここの戦後処理をまとめてから行く」
「そうか? じゃあ、お言葉に甘えて新幹線で美味いもんでも食うわ。健人、行こうぜ」
「……ああ」
市川と健人は、志人の頑なな態度を察し、それ以上は何も言わずにその場を後にした。
二人の足音が、遠ざかって消えていく。




