ばいばい、美有
数日後。
東京の街は、あの中山宅の凄惨な放火事件の話題で持ちきりだった。
警察の捜索により、焼け跡からは三体の遺体が発見された。
しかし、長男である中山健人の行方だけは、どれだけ捜しても分からなかった。
「健人……どこに行っちゃったの……?」
児童公園のベンチで、花山美有は一人、ぽろぽろと大粒の涙を流していた。
手の中には、あの桜のブローチが強く握られている。
あの日、健人が砂の上から拾い上げてくれた、世界で一番大切な宝物。
事件の夜、美有が感じていたあの激しい胸騒ぎは、最悪の形で現実になってしまった。
健人の家が燃え、彼の優しい家族は全員死んでしまった。
そして、何よりも美有の心を切り裂いたのは、健人自身がどこにもいないという事実だった。
「私をおいていかないって……言ったのに……」
いくら泣いても、いくら叫んでも、あのぶっきらぼうで温かい少年が「へいへい、ありがとよ」と笑いかけてくれることは二度となかった。
その頃、健人は組織が用意した、東京の最果てにある地下訓練施設にいた。
全身に包帯を巻かれ、点滴を打たれながらも、彼の目は死んでいなかった。
窓のない薄暗い部屋のベッドの上で、健人はただひたすらに、自分の体を鍛え直すことだけを考えていた。
大村からは事前にこう聞かれていた。
「表の世界に一人だけ、お前を心配している幼馴染の少女がいるが、別れを告げなくていいのか」
けれど、健人は静かに首を振った。
別れなんて告げるつもりは、はじめからなかった。
別れを告げれば、美有は必ず自分を引き留めようとするだろう。
泣きじゃくりながら、あの優しい手で自分の服の裾を掴むに違いない。
そして何より、これからの自分が歩むのは、血と硝煙に塗れた、陽の光の当たらない人殺しの道だ。
そんな地獄のような世界に、あの純粋で、桜のように美しい美有を巻き込むわけにはいかなかった。
美有には、表の世界で、自分の分まで普通に幸せな人生を送ってほしかった。
それが、悪魔に魂を売った健人が、唯一残した子どもらしい「優しさ」だった。
(美有、ごめん。俺はもう、お前の隣にはいられない)
健人は胸の中で、一度だけ、その大切な名前を呼んだ。
そして、記憶の中にある彼女の笑顔を、心の最も深い場所へと封印した。
二度と、その思い出に甘えて引き返したくなったりしないように。
「中山、始めるぞ」
ドアを開け、市川が冷徹な声で呼びかける。
「ああ、今行く」
健人はベッドから立ち上がった。
足首の痛みは、もう完全に消えていた。
花山美有と中山健人。
あの日、満開の桜の木の下で奇跡のように交わった二人の運命は、今、完全に引き裂かれた。
少女は失われた面影を求めて表の世界で涙を流し、少年は大切なものを守るため、そして復讐を果たすために、奈落の底へと歩みを進めるのだった。




