第5話 迫る足音と、高架下の残光
体育館の喧騒が、遠い世界の出来事のように思えた。
僕を睨みつける女子バレー部副主将――星野の鋭い視線が、僕の胸元の一眼レフに突き刺さっている。
「あんた、葵と何、隠してるの?」
心臓が嫌な音を立てて跳ねた。
ここで動揺すれば、僕と葵が放課後にふたりきりで会っていることが筒抜けになる。それは、葵が必死に守り続けている『完璧なエース』という嘘を、学校中にぶちぶちと引き剥がすことと同義だった。
「……別に、何も隠してないよ」
僕はカメラのストラップをぎゅっと握り締め、できるだけ抑揚のない声で答えた。
「僕は写真部だから、インターハイ予選前の強化選手を記録として撮るように頼まれてただけだ。試合中も、単にシャッターチャンスを狙ってただけで……水瀬さんがどこを見てたかなんて、僕には分からない」
我ながら、心臓が口から飛び出そうなほど緊張しているのに、驚くほど冷徹な嘘が口をついて出た。僕自身、彼女と秘密を共有するうちに、嘘をつく痛みに麻痺してきているのかもしれない。
「……ふーん」
星野は腕を組み、納得のいかない様子で鼻を鳴らした。
「ならいいんだけど。葵はね、私たちの『希望』なの。変な虫がついて、プレーが乱れるのだけは絶対に許さないから。あんたみたいな地味な写真部員が、彼女の足を引っ張らないでよね」
それだけ言い残すと、星野は踵を返して去っていった。
背中を向けた彼女が見えなくなった瞬間、僕は大きく息を吐き出し、その場にへたり込みそうになるのを必死で堪えた。
(足を引っ張る、か……)
その通りだ。僕は彼女の痛みを消費しているだけのクズで、星野たちの言う「変な虫」そのものだった。
けれど、警告されればされるほど、僕の胸の奥には、葵をあの息苦しいコートから連れ去ってしまいたいという、いびつな独占欲が首をもたげていた。
その日の夜、僕のスマホに一通のメッセージが届いた。
送り主は、もちろん葵だ。
『星野に何か言われたでしょ。ごめんね』
それだけの短い文面。やはり、彼女も気づいていたのだ。星野が僕に接触していたことに。
僕は少し迷った末に、『大丈夫。適当にごまかしたから、気にするな』と返した。すぐに既読がつく。
『明日、部活休み。放課後、いつもの部屋じゃなくて、駅裏の古い高架下に来て。カメラ持ってきてね』
それは、初めての『外の空間』への誘いだった。
学校という檻から飛び出した場所で、彼女は何を求めるのだろう。
翌日の放課後。梅雨入り前の生ぬるい風が吹く中、僕は言われた通りの場所へ向かった。
駅の裏手、落書きだらけのコンクリート壁が続く、昼間でも薄暗い高架下。時折、頭上を激しい金属音を立てて電車が通り過ぎていく。
錆びついたフェンスに寄りかかり、スマホをいじっている少女がいた。
制服のローファーではなく、履き潰したスニーカー。いつもきっちり結ばれている髪も、今日はどこかラフに下ろされている。
「……水瀬さん」
「あ、瀬尾くん。遅い。三分遅刻」
葵は顔を上げると、ふっと、あの『計算されていない笑顔』を浮かべた。学校の誰にも見せない、僕だけの特権。
「ごめん。星野さんに警戒されてるかと思って、少し遠回りしてきたんだ」
「あはは、真面目だね。いいよ、星野には私からも適当に言っておいたから。……それより、ちゃんと持ってきてくれた?」
葵が僕のバッグを指差す。僕は頷き、中から使い慣れた一眼レフを取り出した。
頭上を、ガタゴトとけたたましい音を立てて電車が通過する。その爆音に紛れるように、葵は一歩、僕に近づいた。
「ここ、いいでしょ。誰も来ないし、電車の音がうるさいから、大声で叫んでも誰にも聞こえないの」
葵はそう言って、コンクリートの壁に背中を預けた。薄暗い高架下に、夕方のわずかな斜光が差し込み、彼女の瞳を怪しく光らせる。
「ねえ、瀬尾くん。今日は、思いっきり私を『消費』してよ」
その言葉に、僕の指先がピクリと反応した。
葵は自分の首元に手をかけ、制服のボタンを上から二つ、ゆっくりと外した。鎖骨のラインが露わになり、激しい練習で鍛えられた、引き締まった細い首筋が夕日に照らされる。
「水瀬さん……何をしてるんだ」
「何って、撮影会。瀬尾くん、私のボロボロなところが好きでしょ? 今日はね、すごく心がすり減ってるの。インターハイのプレッシャーも、星野の視線も、全部うっとうしい。だから……あんたのレンズで、全部壊して」
葵の瞳は、熱に浮かされたように潤んでいた。
彼女は自分を「完璧なエース」という呪縛から解き放つために、僕の歪なカメラを求めている。僕のクズな欲望に身を委ねることでしか、彼女は自由になれないのだ。
「……分かった」
僕はゴクリと息を呑み、カメラを構えた。
ファインダー越しに見る彼女は、狂おしいほどに美しかった。
コンクリートの汚れた壁、錆びたフェンス、そして、その中でボタンを外し、自らの不完全さを曝け出そうとしている学校のアイドル。
――カシャ。
シャッター音が、電車の通過音に掻き消される。
「もっと、もっと撮って。瀬尾くんのレンズが私を見てるときだけ、私は『水瀬葵』じゃなくて、ただの生き物になれる気がするの」
葵は壁に頭を打ち付けるようにして、狂気とも取れる笑顔を浮かべた。
僕は夢中でシャッターを切り続けた。
彼女の汗、歪んだ口元、露わになった鎖骨、そして、世界への拒絶が詰まったその瞳。
あぁ、僕は本当に最低だ。
彼女の心の叫びを、こんなにも「美しい」と感じて、指先が歓喜に震えている。
何十枚目かのシャッターを切ったとき、頭上の電車の音が不意に止み、あたりに静寂が戻ってきた。
葵は激しく肩で息をしながら、ゆっくりとボタンを留め直した。その顔には、いつの間にか、憑き物が落ちたような穏やかな表情が戻っていた。
「……ふぅ。やっぱり、瀬尾くんのカメラは特効薬だね」
葵は僕に近づき、カメラの液晶画面を覗き込んできた。そこには、世界の果てに取り残されたような、退廃的で、けれど圧倒的に生々しい彼女の姿が映し出されていた。
「これ、誰も見ちゃダメだよ。私たちの、本当の秘密だからね」
葵は僕の顔を見上げ、いたずらっぽく微笑んだ。
その瞬間、彼女の細い指が、僕の手首をきゅっと掴んだ。
「ねえ、瀬尾くん。もし私が、全部放り出して逃げ出したいって言ったら……一緒に来てくれる?」
電車の止まった高架下に、彼女の掠れた、けれど本気の呼吸音が響いた。
日常の境界線が、音を立てて崩れ去っていく。僕たちの歪な逃避行は、もう引き返せないところまで加速していた。




