第4話 歪な呼吸の処方箋
ファインダーを覗く僕の指先は、あの日からずっと、かすかに冷え切ったままだ。
「――ねえ、瀬尾くん。今日は撮ってくれないの?」
放課後の写真部室。西日の差し込む古い机に頬杖をついて、水瀬葵が僕をじっと見上げていた。
全体練習の前のわずかな十五分。彼女はこうして、当然のように僕の『境界線の内側』へと滑り込んでくる。
「……いや。ちょっと、露出の調整が上手くいかなくて」
「ふーん。天才カメラマンにも、そんな日があるんだ」
葵はくすくすと悪戯っぽく笑う。
あの夜、体育館の裏で、僕の胸元にすがってボロボロと涙を流していた少女はどこへ行ったのだろう。今の彼女は、どこか憑き物が落ちたようにすっきりとした顔をしていて、それがかえって僕の胸をチクチクと刺した。
あの日、僕は泣きじゃくる彼女にカメラを向け、その無様な姿を「綺麗だ」と称賛した。
思い出すだけで、自分の浅ましさに吐き気がする。僕は彼女の痛みを、孤独を、写真家としての歪な好奇心を満たすための『餌』にしたのだ。
(僕は、ただの最低なクズだ……)
そんな男にレンズを向けられているとも知らずに、葵はリラックスした様子で、緩めたネクタイの首元をパタパタと仰いでいる。
その無防備さが、僕の罪悪感をさらに加速させた。これ以上、彼女の純粋さに甘えてはいけない。彼女を消費して、悦に浸るような真似は、もうやめるべきだ。
「……水瀬さん。僕、やっぱり、もう君の写真を撮るべきじゃないと思う」
僕はカメラを机に置き、視線を落としたまま、絞り出すように言った。
「え……?」
葵の笑みが、ぴたりと止まる。部室の空気が、一瞬で凍りついたように冷たくなった。
「どうして? ちゃんと約束したじゃん。私の専属になって、他の誰も撮らないって」
「それは、そうだけど……。僕は、君を助けたいわけじゃなかったんだ。あの日、君が苦しんでいるのを見て、僕は……それを『最高の被写体だ』と思ってシャッターを切った。君の傷を利用して、独りよがりな写真を撮っただけなんだよ。そんなの、ただのクズだろ」
一気にまくしたてると、部屋には再び、重苦しい静寂が降り積もった。
軽蔑されるだろう。怒って、二度とこの部屋には来なくなるかもしれない。それでいい、それが正しいはずだ。
僕は、彼女からの絶交の言葉を待った。
けれど、返ってきたのは、僕の予想とは全く違う言葉だった。
「……知ってるよ」
静かな、鈴を転がすような声だった。
驚いて顔を上げると、葵は怒るでも呆れるでもなく、ただ優しく、どこか哀れむような目で僕を見つめていた。
「瀬尾くんが、私の痛みを面白がって……ううん、綺麗だと思って撮ってることくらい、最初から気づいてた。だって、あの時のあんたの目、すごくギラギラしてて、ちょっと怖かったもん」
「だったら、なんで……」
「それが、嬉しかったからに決まってるじゃん」
葵は椅子から立ち上がり、ゆっくりと僕の前に歩み寄ってきた。
夕日の赤が、彼女の輪郭をぼんやりと縁取る。彼女は机の上に置かれた一眼レフにそっと触れ、それから、僕の冷え切った手に自分の手を重ねた。
「みんなね、私のこと『バレー部の天才』としてしか見ないの。もっと勝て、もっと笑え、完璧であれって。誰も、私が裏でどれだけ息が詰まりそうになってるか、どれだけボロボロか、なんて興味がないのよ。……でも、瀬尾くんは違った」
重ねられた彼女の手は、僕のそれよりもずっと熱を帯びていた。
「あんたは、私の最低で、無様で、壊れそうなところを、真っ直ぐに見てくれた。それを『綺麗だ』って言って、カメラに閉じ込めてくれた。世界中で、あんたのレンズだけが、私の本当の呼吸を許してくれたんだよ」
葵の顔が、至近距離まで近づく。その瞳の奥にある熱に、僕は息を呑んだ。
「瀬尾くんがクズなら、私はそのクズにしか救われない、もっと駄目な女の子だよ。ねえ、私の痛みをいくらでも消費していい。その代わり、これからも私から目を逸らさないで。……お願いだから」
それは、救済の形をした、底なしの沼だった。
僕の罪悪感すらも、彼女にとっては「自分を特別に見てくれている証拠」として消費されていく。
僕が彼女の痛みを必要とするように、彼女もまた、僕の歪なカメラを必要としていた。
「……本当に、君はバカだ」
「あんたに言われたくないよ」
葵は満足そうに微笑むと、重ねていた手を離し、いつもの完璧な笑顔の仮面をすっと被り直した。
「よし、充電完了。部活、行ってくるね。明日の練習試合、見にきてよ。私の『結果』、見せてあげるから」
軽やかな足取りで、彼女は部室を出て行った。
残された僕は、熱の残る自分の手を見つめながら、もう二度とこの歪な関係から抜け出せないことを、確信していた。
週末。体育館は、インターハイ予選前最後の練習試合ということもあり、独特の熱気に包まれていた。
相手は県内でも有数の強豪校。ギャラリーには、大勢の生徒や保護者が詰めかけ、黄色い声援が飛び交っている。
僕は体育館の隅、二階のキャットウォークの影から、ひっそりとコートを見下ろしていた。
「水瀬! ナイスキー!!」
ドォン、と重い破裂音が体育館に響き渡る。
葵の放ったスパイクが、相手のブロックを弾き飛ばしてコートに突き刺さった。
「キャーー! 葵先輩すごーい!」
「さすが天才、格が違うわ!」
割れんばかりの拍手の中、葵はチームメイトたちと笑顔でハイタッチを交わしている。その姿は、どこからどう見ても、誰もが憧れる「完璧なヒロイン」そのものだった。
だけど、今の彼女のプレーには、以前のような悲壮感がない。どこか、狂おしいほどの芯の強さが備わっているように見えた。
点が入り、ポジションがローテーションする。
コートの端へ移動した葵が、ふと、誰も見ていない瞬間に、視線を上へと向けた。
何百人もの観客がいる中で、彼女の瞳が、暗がりに隠れている僕を、真っ直ぐに射抜く。
葵は、他の誰にも気づかれないような、ほんのわずかな微調整で、僕にだけ分かる「不器用な、本物の笑み」を浮かべた。
(……あぁ、ずるいな)
心臓が跳ね上がる。
あの輝かしいコートの上での大躍進の裏に、僕という『クズの特等席』が存在している。その背徳感と高揚感が、僕の脳を激しく狂わせていく。
試合は、葵の圧倒的な活躍で我が校のストレート勝ちに終わった。
誰もが「さすが水瀬葵だ」と口々に言い合いながら、体育館を後にする。僕もカメラバッグを肩にかけ、混雑するギャラリーの階段を下りようとした、その時だった。
「――ねえ、ちょっと君」
背後から、低く冷ややかな声をかけられた。
振り返ると、そこには女子バレー部のユニフォームを着た、背の高い髪の長い女子生徒が立っていた。葵の同期で、副主将のメンバーだったはずだ。彼女は、値踏みするような鋭い視線で、僕の胸元にあるカメラと、僕の顔を交互に見つめていた。
「君、写真部の中等部から上がってきた子だよね。……最近、葵がよく部活の前にどこかへ行ってるんだけど。さっきも、試合中に変なところ見てたし」
彼女は一歩、僕に近づき、探るように目を細めた。
「あんた、葵と何、隠してるの?」
周囲の歓声が、急に遠のいていくような気がした。
僕たちの隠された『境界線』のすぐ近くまで、外の世界の足音が、確実に迫ってきていた。




