第3話 レンズ越しの深呼吸、迫る影
約束を交わしてから、一週間が経った。
僕たちの間には、奇妙なルーティンが出来上がっていた。
週に二、三回。放課後の全体練習が始まる前のわずかな十五分間、あるいは部活が完全に終わった後の完全下校直前の数分間。
水瀬葵は、あの古い写真部室にふらりとやってくる。
「――はぁ、疲れた。一時間だけ、ここにいさせて」
そう言って、葵は制服のネクタイを少し緩め、部室のパイプ椅子に深く身体を預けた。
外はバレー部の強豪としての激しい練習の後だ。彼女の額には薄い汗が滲み、ショートカットの髪が少し乱れている。
「お疲れ様。スポーツドリンク、飲む?」
「もらう。……生き返るなぁ。外は本当に、息が詰まる」
ペットボトルを受け取り、ゴクゴクと喉を鳴らして飲む姿は、教室の男子たちが見たら卒倒するくらいに無防備だ。
ここでは、彼女は「完璧なエース」の看板を下ろすことができる。それを許されているのは、世界で僕一人だけだった。
「ねえ、今日も撮るんでしょ? ほら、構えて」
葵は少しおどけたように、パイプ椅子に座ったまま、僕の方を向いて両手を頬に当てた。少女漫画のヒロインのようなポーズ。
だけど、僕はシャッターを切らない。レンズを向けたまま、静かに彼女を見つめる。
「……何よ。撮らないの?」
「その顔は、教室の顔だよ。僕が撮りたいのは、それじゃない」
「……相変わらず、生意気なカメラマン」
葵は苦笑し、ふっと視線を窓の外へと向けた。
ポーズを解き、ただぼんやりと遠くの夕焼けを見つめる横顔。その瞬間、彼女の瞳に、日々の疲労と、拭いきれない焦燥感がふわりと影を落とす。
――カシャ。
静かな部屋に、僕のシャッター音が響いた。
「あ、ずるい。今、不意打ち」
「不意打ちじゃないよ。今のが、今の君の『本当の顔』だ」
液晶画面を見せると、葵は少し照れくさそうに、でも嬉しそうに目を細めた。
写真の中の彼女は、綺麗に笑ってはいない。どこか物憂げで、けれど、生きることに必死な人間の、生々しい美しさに満ちていた。
「瀬尾くんのカメラの前にいるときだけ、私、本当に深呼吸ができる気がする」
葵は自分の胸に手を当て、小さく微笑んだ。
この時間が、ずっと続けばいい。僕の胸の奥にも、そんなささやかな願いが芽生え始めていた。
けれど、そんな静かな時間は、外の世界の圧倒的な現実によって、簡単に揺るがされる。
翌々日の昼休み。校内放送が、いつになく熱を帯びていた。
『――続いてのニュースです。我が校の女子バレーボール部が、来月に迫ったインターハイ予選のシード権を獲得しました! 注目のエース・水瀬さんは「必ず全国への切符を掴み取ります」と力強いコメントを残してくれています!』
教室中がワッと沸き立った。
「やっぱり葵はすげえな!」
「今年も絶対全国行ってくれよ!」
クラスメイトたちの賞賛の声が、彼女の席に殺到する。
その中心で、葵はいつも通り、完璧な笑顔で応えていた。
「ありがとう。みんなの応援があるから、私、頑張れるよ」
その言葉を聞いた瞬間、僕は胸の奥がチリッと痛むのを感じた。
嘘だ。
彼女は今、笑いながら、心の中で悲鳴を上げている。僕には分かってしまう。彼女の笑顔の口元が、ほんのわずかに強張っているのを。周囲の「期待」という名の怪物が、彼女の細い肩にどれほどの重さで伸しかかっているかを。
誰も、彼女の本質を見ていない。みんなが求めているのは、「勝って当たり前の天才・水瀬葵」という記号だけだ。
その日の放課後。
僕はいつものように写真部室で待っていたが、完全下校時刻の十分前になっても、葵は現れなかった。
「……今日は、部活が長引いてるのかな」
少し胸騒ぎがして、僕はカメラをバッグに入れると、部室を出た。
気づけば、足は体育館へと向いていた。
体育館の入り口には、すでに他の部員たちの姿はなく、静まり返っていた。しかし、奥のコートから、激しい罵声のような声が聞こえてきた。
「水瀬! 今のトス、なんで合わせられない!?」
ビクッとして足を止める。
ステージの影から覗き込むと、そこには女子バレー部の顧問の教師と、ユニフォーム姿の葵が立っていた。
「……すみません」
「ここ最近、打点の高さが落ちているぞ。お前が崩れたら、このチームは終わりだ。SNSだ何だとチヤホヤされて、浮ついているんじゃないのか!?」
「そんなことは……!」
「結果がすべてだ、水瀬。お前は『天才』なんだろ。周囲の期待を裏切るな」
容赦のない言葉が、葵に突き刺さる。
葵は拳を強く握り締め、床を見つめたまま、「……はい。申し訳ありません」と、消え入りそうな声で頭を下げた。
教師が吐き捨てるように去っていった後、葵はぽつんと、広いコートに取り残された。
その背中は、以前見たときよりも、ずっと小さく、壊れそうに見えた。
葵はゆっくりと歩き出し、体育館の裏口から外へ出た。
僕は彼女に気づかれないように、少し距離を置いて後を追った。
彼女が向かったのは、校舎の裏手にある、普段は誰も使わない古い倉庫の影だった。
夕闇が迫る中、葵は壁に背中を預け、ずるずるとその場に座り込んだ。
「っ……、う……」
膝を抱え、顔を埋めて、彼女は静かに震え始めた。
まえのような、悔しさの涙ではない。それは、限界まで張り詰め、今にも破裂してしまいそうな、絶望に近い呼吸の音だった。
――天才。裏切るな。結果を出せ。
世界が彼女に押し付ける呪いが、彼女からまともな呼吸を奪っていく。
「水瀬さん」
僕はたまらず、物陰から歩み出て、彼女の名前を呼んだ。
「――っ!?」
葵が弾かれたように顔を上げた。
涙で濡れた瞳。そこには、いつもの凛とした強さはなく、ただ怯え、傷ついた、一人の不器用な少女の素顔があった。
「瀬尾、くん……なんで……見ないで、今の私は、ダメなの……」
「ダメじゃない」
僕は彼女の前に膝をつき、目線を合わせた。
そして、バッグからいつも一眼レフを取り出し、静かに彼女に向けた。
「こんな無様なところ、撮らないで……! 期待に応えられない私は、価値なんてないの……!」
葵が拒絶するように手を伸ばし、僕のレンズを遮ろうとする。
だけど、僕は引かなかった。
「価値なんて、誰が決めるんだ」
僕は真っ直ぐに彼女の瞳を見つめ、言った。
「世界が君に完璧を求めるなら、僕は君の不完全さを全部肯定する。勝てなくても、ボロボロでも、息ができなくても……僕のレンズは、今ここでもがいている水瀬葵だけを綺麗だと思う」
葵の手が、ピタリと止まった。
彼女の大きな瞳から、大粒の涙がハラハラと零れ落ちる。
「……息を吸って、水瀬さん。僕の前でだけでいいから」
葵は小さく唇を震わせ、それから、僕の言葉に導かれるように、深く、深く、冷たい夜の空気を吸い込んだ。
きみの、苦しそうな、だけど生きようとする呼吸が、静寂に響く。
僕は、その瞬間をファインダーに捉え、心を込めてシャッターを切った。
――カシャ。
暗闇に響いた金属音は、彼女を縛る世界の呪いを、ほんの一瞬だけ解く優しい鍵のようだった。
……いや、違う。
優しい鍵だなんて、それは僕の傲慢な言い訳だ。
液晶画面に映る、涙を流して息を吐き出す彼女の姿を見て、僕の胸はひどく高鳴っていた。傷つき、追い詰められているクラスのアイドルを前にして、僕はあろうことか「極上の被写体を見つけた」と歓喜している。
救いたいなんて、建前だ。
僕はただ、彼女の痛みを、苦しみを、カメラの餌にして貪っているだけじゃないのか。
(……僕は、最低だ)
自分の内側にあるどす黒いエゴに気づき、カメラを握る指先が今更になって冷たく震えだす。
だけど、もう止まれない。
レンズの向こうで、涙を拭った葵が「ありがとう」と僕に微笑むから。その本物の笑顔の引き換えに、僕は喜んで、自分の心を泥に染めていく。




