第2話 嘘だらけの教室と、秘密の境界線
翌朝、教室の空気はいつも通り、僕をひどく疲れさせるものだった。
「おはよー、葵! 今度の日曜、駅前のカフェ行かない? 新作のパンケーキ出たらしくてさ!」
「あ、いいよ。楽しそうだね、みんなで行こう」
クラスの中心。朝の柔らかい光を浴びながら、水瀬葵はいつもの、非の打ち所がない完璧な笑顔を咲かせていた。
鈴の転がるような声。相手を不快にさせない完璧な相槌。誰もが憧れる、女子バレー部の天才エースとしての『水瀬葵』が、そこにはいた。
自分の席に座り、教科書を机に出しながら、僕は前髪の隙間からその光景をそっと眺める。
(……本当に、器用な人だ)
昨日の夕暮れ。薄暗い体育館の床に両手をつき、ボロボロになりながら涙を流していた少女と、目の前で煌びやかなオーラを放っている美少女が、どうしても同じ人物だとは思えなかった。
彼女の貼り付けた笑顔を見るたび、僕の網膜には、昨夜暗室で現像したあの写真が重なって見える。
夕光の逆光。飛び散る汗の残像。そして、泣き顔の奥に宿っていた、狂おしいほどの執念。
あの「本物の姿」を知っているのは、この教室の中で、僕だけだ。
その時、友達と話していた葵の視線が、ふと泳いだ。
そして――教室の片隅にいる僕の視線と、真っ直ぐにぶつかった。
「っ……」
葵の肩が、かすかに跳ねる。
いつもなら誰に対しても向けられる完璧な笑顔が一瞬だけ凍りつき、彼女の瞳に動揺が走った。しかし、それもほんのコンマ数秒のこと。彼女はすぐに何事もなかったかのように視線を外し、また友達との会話に戻っていった。
僕の心臓が、ドク、と嫌な高鳴りを見せる。
周りの連中は、誰も僕たちの視線の交差に気づいていない。
何十人もの生徒がガヤガヤと騒ぐ教室の中で、僕と彼女の間にだけ、目に見えないピリッとした『秘密の境界線』が引かれているようだった。
結局、その日一日は、葵と一言も言葉を交わすことはなかった。
休み時間も、移動教室も、彼女は常に誰かに囲まれていた。僕のような地味な写真部員が話しかける隙なんて、世界のどこにも用意されていないように思えた。
「……まあ、そうだよな」
放課後。完全下校時刻までのモラトリアム。
僕は一人、第二校舎の最上階にある写真部室へ続く階段を上りながら、小さく溜息をついた。
昨日の出来事は、夕暮れが見せた一瞬の幻だったのかもしれない。彼女は僕のことなんて、もう忘れてしまったか、あるいは「写真を消さなかった厄介な奴」として警戒しているかのどちらかだ。
僕はポケットから鍵を取り出し、使い古された木製のドアを開けた。
写真部室の中は、いつだって静かだった。
窓から差し込む西日が、誰もいない室内の埃をキラキラと照らしている。窓の外からは、遠く運動部の掛け声や、ブラスバンド部の不協和音がかすかに響いてくるが、この部屋の肉厚な扉を閉めてしまえば、それすらも別世界の出来事のように遠ざかる。
僕は机の上に通学バッグを置き、中から大切に持ち運んできた現像済みの写真を一枚、取り出した。
昨日、体育館で撮った、水瀬葵の「本当の素顔」。
我ながら、恐ろしいほどのクオリティだった。ここ数年、こんなに魂が乗った写真を撮れたことはない。彼女の美しさが、僕の死んでいたはずの指先を無理やり動かしたのだと、写真を見るたびに確信させられる。
その時だった。
――トントン。
静寂に満ちた部屋に、遠慮がちな、だけど確かなノックの音が響いた。
心臓が跳ね上がる。この幽霊部員しかいない写真部室に、人が訪ねてくることなんてあるはずがない。
「……はい」
僕が短く答えると、ドアのノブがゆっくりと回った。
静かに開いた隙間から滑り込んできたのは、制服姿の、水瀬葵だった。
「……驚かせてごめん」
葵はドアを閉めると、背中をドアに預けたまま、少し気まずそうに視線を下に向けた。
いつも中庭や教室で見せる、あの凛とした佇まいはどこにもない。どこか怯えるような、迷子のような雰囲気を纏っている。
「水瀬さん……どうしてここに」
「どうしてって、あんたがここにいると思って。……ここ、本当に誰も来ないんだね」
彼女は小さく息を吐き出し、張り詰めていた肩の力を抜いた。その瞬間、彼女の顔から『完璧なエース』の仮面が、綺麗に剥がれ落ちていくのが分かった。
彼女はゆっくりと歩を進め、僕の机の前で立ち止まる。
「……昨日の写真、もう一度見せて」
その声は、命令ではなく、どこか縋るような響きを含んでいた。
「あ、うん。これだけど……」
僕は机の上に置いていた写真を、彼女の方へと差し出した。
葵は細い指先で慎重に写真の端を掴み、自分の目の前へと持っていく。夕日が、彼女の横顔と、その手元にある写真を赤く染め上げた。
葵は無言のまま、じっと写真を見つめ続けた。
一分、二分……沈黙の時間が流れる。部屋の中には、窓の外から聞こえる遠い喧騒と、僕たちの微かな呼吸音だけが存在していた。
「……やっぱり、不思議」
ぽつりと、葵が呟いた。その瞳が、写真の奥にある自分の姿を愛おしむように潤んでいる。
「私、自分の写真って大嫌いなの。雑誌とか、学校のパンフレットとか、いつも『みんなが喜ぶ私』の顔をしなきゃいけないから。カメラを向けられるたびに、息が詰まりそうになる」
葵は写真を胸の前に抱きしめるようにして、僕を見た。
「でも、瀬尾くんが撮ってくれたこの私は、すごく苦しそうなのに……不思議と、ずっと見ていられる。私、昨日ここで『消さないで』って言ったとき、初めて自分のままでいいんだって思えた気がするの」
「水瀬さん……」
外の世界では、彼女は完璧でなければならない。勝たなければならない。笑っていなければならない。
だけど、この古い部室という『境界線の内側』でだけは、彼女はただの傷ついた女子高生でいることが許されていた。僕のカメラの前でだけは、嘘をつく必要がないのだ。
「ねえ、瀬尾くん」
葵が、机越しに僕の顔を覗き込んできた。
至近距離で見る彼女の瞳は、夕日の光を集めて、吸い込まれそうなほどに綺麗だった。
「これからも、私の写真を撮って」
「え……? でも、僕は普通の写真部だし、君はバレー部で忙しいんじゃ……」
「放課後、部活の前とか、終わった後とか、少しの時間でいいから。誰もいない場所で、私の『本当の顔』を、あんたのカメラで切り取ってほしいの」
それは、突拍子もない提案だった。学校のアイドルが、僕のような日陰者に、自分だけのカメラマンになってくれと言っているのだ。
「私、外ではこれからも嘘をつき続ける。完璧なエースでいなきゃいけないから。でも……それだけだと、いつか本当に心が壊れちゃうと思うの。だから、あんたが私の安全弁になってよ。誰も見ていない私を、記録して」
葵は一歩、僕に近づいた。彼女の甘い汗の匂いと、少し熱を帯びた呼吸が、僕の肌に直接触れるような気がした。
「その代わり――約束して」
彼女は僕の胸元に人差し指を突き立て、少し悪戯っぽく、だけど真剣な目で僕を睨みつけた。
「他の女の子の写真は、絶対に撮っちゃダメ。あんたのその天才的なレンズは、私の本当の姿を暴くためだけに使いなさい。……いい?」
「っ……」
それは、あまりにも独占欲の強い、そして歪な約束だった。
他の誰も撮るな。僕のカメラを、彼女だけのものにしろという、傲慢で切ない縛り。
普通の僕なら、面倒なことには巻き込まれたくないと断っていただろう。
だけど、僕の胸の奥にある、あの日から冷めきっていた『写真家としての本能』が、彼女の言葉に激しく呼応して脈打っていた。
世界に嘘をつき続ける彼女の、その剥き出しの素顔を、もっと見たい。もっと、このレンズで支配したい。
「……分かった」
僕は、彼女の真っ直ぐな瞳から目を逸らさずに、静かに頷いた。
「君が嘘をつき続けるなら、僕はその裏側を全部、このレンズで記録する。他の誰でもない、君だけのカメラマンになるよ」
「……うん。約束ね」
葵は満足そうに、口元を小さく綻ばせた。
それは、教室で見せるミリ単位で計算された笑顔とは180度違う、少し不器用で、子供のように無邪気な、本物の笑顔だった。
夕日が沈みかけ、古い部室に深い影が落ちていく。
世界の喧騒から切り離されたこの部屋で、僕と彼女の、歪で特別な放課後が、本格的に幕を開けた。




