第1話 世界に嘘をつく人と、レンズ越しのハコニワ
ファインダーを覗くと、世界は少しだけ静かになる。
耳障りな喧騒も、他人の値踏みするような視線も、すべてが一枚のガラスの向こう側に追いやられる。だから僕は、この手のひらに収まる無機質な機械が好きだった。
「……よし、カビはなさそうだな」
放課後の古い第二校舎。その最上階の隅にある写真部室で、僕は古い一眼レフカメラのレンズを磨いていた。
部員は、僕――瀬尾瞬だけ。
実質的な廃部寸前のこの場所は、学校の中で唯一、僕が誰の目も気にせずに息を吸えるハコニワだった。
窓から吹き込む五月の風は、まだ少し肌寒い。
ふと視線を落とすと、格子窓の向こう、中庭の様子が切り取られた絵画のように見えた。
「あ、水瀬さんだ。今日も可愛いなぁ」
「本当、スタイル良すぎ。さすが女子バレー部のエースだよね」
開け放した窓から、下を通りがかった女子生徒たちの声が聞こえてくる。
視線の先には、一本の大きなハナミズキの木。その下で、数人の生徒に囲まれて笑っている少女がいた。
水瀬葵。
同じ二年二組のクラスメイト。そして、この高校の誰もが知るトップアイドルだ。
高身長で、モデルのようにつややかな四肢。夕日に透けるショートカットの髪を揺らしながら、彼女は楽しそうに鈴の転がるような声で笑っている。
地方大会を一人で勝ち抜いたと噂される圧倒的な実力と、その端正な容姿から、最近では「美少女アスリート」としてSNSなどでも名前が流れてくるような、文字通り『別世界の住人』だった。
彼女が微笑むだけで、周囲の空気がパッと華やぐのがわかる。
「……完璧、だな」
僕は小さく呟き、手元の一眼レフを机に置いた。
クラスメイトたちが彼女を「飾らない天才」と評するたび、僕はどこか奇妙な違和感を覚えていた。
僕の目は、嫌でも人の仕草や表情の『歪み』を捉えてしまう。彼女のあの、ミリ単位で計算されたかのような完璧な笑顔。それは僕には、あまりにも美しく作られた『仮面』のように見えて仕方がなかった。
でも、僕には関係のないことだ。
僕は主役たちの生きる世界を、ただ外側から眺めるだけの観察者でいい。
かつて、自分の傲慢なシャッターが、誰かの心を深く傷つけたあの日から――僕はもう、本気で人の顔を撮ることをやめてしまったのだから。
時計の針が、完全下校時刻の三十分前を指した。
僕はカメラをバッグに収め、静まり返った部室の鍵を閉めた。
古い校舎の階段を下り、体育館の裏手を通りかかった時だった。
――パンッ!
静寂を引き裂くような、硬い破裂音が響いた。
体育館の分厚い壁越しでもはっきりとわかる、重く、鋭い打球音。
「……まだ、誰か残ってるのか?」
バレー部やバスケ部の全体練習は、もう一時間以上前に終わっているはずだ。
不審に思いながらも、僕は引き寄せられるように体育館の裏口へと足を向けた。重い鉄製の扉が、ほんの数センチだけ隙間を空けて開いている。
中を覗き込むと、水銀灯が半分だけ落とされた体育館は、巨大な洞窟のように薄暗かった。
その中央。コートの端に、ぽつりと一人の人影があった。
――水瀬葵、だった。
放課後に見た制服姿ではない。膝にサポーターを巻き、汗を吸って色が変わった練習着を着た彼女が、息を切らせてそこに立っていた。
その手にあるボールを、彼女は高く放り投げる。
短い助走。しなやかな跳躍。
空中で美しく反った身体が、鞭のようにしなってボールを叩いた。
――パンッ!!
凄まじい勢いのボールが、無人のコートを急降下し、エンドライン際に突き刺さる。
常人なら拍手喝采するような見事なサーブ。だが、彼女は満足した顔を全くしなかった。それどころか、苦痛に耐えるように顔を歪め、荒い呼吸を繰り返している。
「ちがう、もっと……もっと高く、早く……ッ」
掠れた声が、広い体育館に虚しく響く。
彼女はカゴから次のボールを掴むと、再び跳躍した。
しかし、疲労が限界を超えていたのだろう。打球は無情にもネットに引っかかり、力なく足元へ転がっていった。
「っ……あ……」
葵の身体から、突然すべての糸が切れたようだった。
彼女はその場に、崩れ落ちるように両膝をついた。
張り詰めていた糸が切れた体育館に、彼女の激しい呼吸音だけが満ちていく。
床に両手をつき、肩を小刻みに震わせる彼女の顔から、いつも中庭で見せていた「完璧な笑顔」は完全に消え失せていた。
――ぽつ、ぽつと、木製の床に小さな水滴が滴り、夕日の残光を反射して光る。
彼女は、泣いていた。
声を押し殺し、ただ一人、世界の期待という名の重圧に押し潰されながら、惨めに涙を流していた。
いつも誰もを魅了していた「天才エース」の、これが裏側。
僕は息をすることすら忘れて、その光景に見入っていた。
可哀想だとか、声をかけてあげなきゃとか、そんな偽善的な感情は一切湧かなかった。ただ、ただ――。
(……綺麗だ)
不謹慎にも、僕はそう思った。
誰の目も意識していない、剥き出しの感情。泥臭く、必死に、世界の理不尽と戦って傷ついているその姿は、中庭で作られていたどんな笑顔よりも、圧倒的に「本物」だった。
気づけば、僕の右手はバッグの中から一眼レフを引き出していた。
レンズのキャップを外し、ファインダーを覗く。
夕暮れの斜光が、開け放たれた窓から差し込み、彼女の流す涙と、肌に浮かぶ汗のひとしずくを、奇跡的な逆光で照らし出している。
逃げていたはずの指先が、勝手にダイヤルを回し、ピントを合わせる。
彼女の苦しい呼吸に合わせて、僕の肺もシンクロするように縮む。
きみの呼吸が、僕のファインダーを満たしていく。
今、この瞬間、この世界で彼女の本当の美しさを知っているのは、僕だけだ。
胸の奥が、痛いほどに脈打った。
僕は吸った息を止め、静かに、人差し指に力を込めた。
――カシャ。
静寂に満ちた体育館に、金属質のシャッター音が小さく響き渡った。
「――誰!?」
弾かれたように、葵が振り返った。
その瞳には、一瞬で鋭い警戒と、自分の弱みを覗かれたことへの激しい怒りが宿る。いつもの「冷徹なエース」の仮面が、急速に彼女の顔を覆っていくのがわかった。
僕は隠れる間もなく、体育館の入り口でカメラを構えたまま立ち尽くしていた。
「……あ」
やってしまった。最悪の事態だ。完全にただの不審者だし、何より傷ついている彼女のプライベートを泥足で踏み荒らすような真似をしてしまった。
葵は床に落ちたボールを拾うこともせず、長い足で大股にこちらへと歩いてきた。一歩、近づくたびに、彼女から放たれる威圧感が肌を刺す。
「あんた……写真部の、瀬尾、くん……?」
「あ、うん。す、すみません……盗撮するつもりじゃなくて、その……」
言い訳を並べる僕の前で、葵はピタリと足を止めた。彼女の身長は僕とさほど変わらない。間近で見るその瞳は、涙で濡れているにもかかわらず、射抜くように冷たかった。
「今の、消して」
低く、拒絶に満ちた声だった。
「私が泣いてたこと、誰かに言ったら許さないから。SNSにでも上げるつもり? 『天才エースの無様な姿』って」
「そんなつもりは絶対にない! 誰にも言わないし、ネットにも上げない。それは約束する」
僕は必死に首を振った。だが、彼女の警戒心は解けない。
「じゃあ、今すぐここで消去して。見られるのも、残るのも嫌なの。私は……いつも完璧で、強くなくちゃいけないんだから」
完璧でなくちゃいけない。
その言葉に、彼女が背負うものの重さがすべて詰まっている気がした。
言われた通り、消去ボタンを押せばいい。そうすれば、僕はまたただの「無関係な傍観者」に戻れる。それが一番正しい。
だけど。
カメラを握る僕の手は、どうしても動かなかった。
この写真を消してしまったら、彼女のこの「本物の美しさ」まで、世界から無かったことにされてしまうような気がした。
「……瀬尾くん?」
不審そうに眉をひそめる葵に、僕は覚悟を決めて、カメラの液晶画面を彼女の方へと向けた。
「消す前に……これだけは、見てほしい。僕は、君を馬鹿にするために撮ったんじゃないんだ」
「何よ、それ……」
葵は不快そうに視線を落とした。液晶画面に映る、自分の姿へ。
そして――。
「……っ」
彼女の呼吸が、ぴたりと止まった。
画面に写っていたのは、彼女が恐れていた「無様な泣き顔」ではなかった。
薄暗い体育館の中、一筋の夕光を浴びて、床に膝をつきながらも、その瞳の奥に決して消えない闘志の炎を宿らせている、一人の美しいアスリートの姿。
飛び散る汗の残像さえもが、彼女の執念を物語るノイズとして、完璧な配置で切り取られていた。
それは、世界中の誰も見たことがない、けれど、誰よりもひたむきに生きている『水瀬葵』そのものだった。
「……これ、私……?」
葵の冷たい仮面が、音を立てて崩れ落ちていく。
彼女は信じられないものを見る目で、液晶画面を凝視していた。その瞳が、今度は怒りではなく、純粋な動揺で大きく揺れている。
「なんで……なんで、こんな風に撮れるの? 私は、みっともなく負けて、泣いてただけなのに……」
「負けてないよ」
僕は真っ直ぐに、彼女の瞳を見て言った。自分でも驚くほど、声が震えなかった。
「みんな、君のことを『天才』とか『完璧』って言う。でも、僕はそう思わない。君がそうやって、誰も見ていない場所で、ボロボロになりながらもがいているから、あんなに綺麗な笑顔が作れるんだって、今の写真を見て分かった」
葵は息を呑み、僕を見つめた。
「君が流した涙も、その息苦しそうな呼吸も……全部、格好悪くなんてない。僕の目には、世界中の誰よりも、綺麗に見えたんだ」
「あ……」
葵の白い頬が、夕日とは違う熱で、じわじわと赤くなっていくのが分かった。
彼女は言葉を失ったように口を微かに開け、それから、恥ずかしそうに視線を泳がせた。学校中の憧れの的である彼女が、まるでただの、年相応の不器用な女の子のように、激しく動揺している。
「な、何言ってるのよ、あんた……バカじゃないの……?」
蚊の鳴くような声で呟きながら、葵は自分の顔を隠すように、僕の制服の裾をギュッと掴んだ。
細い指先が、小さく震えている。
「……消さないで」
「え?」
「今の写真……消さないで、って言ったの」
彼女は顔を伏せたまま、だけど拒絶ではなく、懇願するように僕の服を握りしめていた。
「私の本当の姿、誰も気づいてくれなかった。みんな、私の『結果』しか見てないから……。でも、あんたは……」
葵はゆっくりと顔を上げ、涙の跡が残る顔で、小さく、だけど確かに微笑んだ。それは、中庭で見せていたあの作り物の笑顔とは違う、少し歪で、最高に愛おしい、本物の笑顔だった。
「……もう一回、撮って。私、あんたのカメラの前でなら……ちゃんと、息ができるかもしれないから」
静まり返った体育館で、二人の呼吸が重なる。
僕の止まっていた世界に、彼女という名の、消えない残像が刻み込まれた瞬間だった。




