第6話 決戦前夜のファインダー
『ねえ、瀬尾くん。もし私が、全部放り出して逃げ出したいって言ったら……一緒に来てくれる?』
高架下で、電車の轟音が止んだ静寂の中、彼女が残したその言葉が、僕の耳の奥で何度も、何度もリフレインしていた。
それは、からかうような冗談のトーンではなかった。
世界中から完璧を求められ、勝つことを強要されている水瀬葵が、あの薄暗い光の中で、僕という最低なエゴイストにだけ零した、本物の悲鳴だった。
(一緒に来てくれる、か……)
机に突っ伏したまま、僕は自分の手のひらを見つめる。
もし彼女が本当にすべてを投げ出して、僕の手を引いたなら。僕はその手を握り返して、この学校から、バレーから、彼女を縛るすべてから連れ去る覚悟があるのだろうか。
救いたいなんて、僕の口が裂けても言えない。僕は彼女の痛みを消費して喜ぶクズだ。だけど、あの瞬間の彼女の瞳を思い出すだけで、僕の心臓は狂ったように脈打ってしまう。
「葵、明日の予選、絶対に勝とうね! 私、全力でトス上げるから!」
「うん、ありがとう。星野のトス、いつも最高だから信頼してるよ」
ふと顔を上げると、教室の前方で、葵が星野と笑顔で話しているのが見えた。
明日から始まる、インターハイ予選。クラスの空気は一色に染まっていた。『水瀬葵なら、絶対に全国へ連れて行ってくれる』という、悪意のない、けれどあまりにも巨大な期待という名の怪物が、教室中に満ち満ちている。
葵は笑っていた。完璧な、ミリ単位の狂いもない、みんなが大好きな『天才・水瀬葵』の笑顔で。
だけど、僕と葵は、その日一言も言葉を交わさなかった。視線すら合わせない。
星野が僕を鋭い目で一瞬だけ牽制してきたけれど、僕はただの地味な写真部員として、気配を消して席に座り続けた。
外側の世界がどれだけ盛り上がろうと、僕と彼女の間には、あの高架下で結ばれた、誰にも侵せない暗い境界線が確かに存在していた。
放課後。完全下校時刻の三十分前。
明日が試合本番ということもあり、運動部はどこも早めに練習を切り上げていた。静まり返った第二校舎の階段を上り、僕は写真部室のドアを開ける。
夕日が、部屋の中を真っ赤に染め上げていた。
パイプ椅子には、すでに先客がいた。制服姿のまま、小さく膝を抱えて座っている葵だった。
「……遅いよ、瀬尾くん」
葵は顔を上げずに呟いた。その声は、いつもより少しだけ震えているように聞こえた。
「ごめん。……明日、本番だね」
「うん。……ねえ、怖いよ」
葵はゆっくりと顔を上げた。その瞳には、うっすらと涙が浮かんでいた。
教室で見せる凛としたエースの姿はどこにもない。プレッシャーに押しつぶされそうな、ただの十七歳の少女がそこにいた。
「明日、もし負けたら、みんななんて言うかな。『なんだ、水瀬も大したことないじゃん』って、手のひらを返すのかな。そう思うと、足が震えて、今すぐここから走って逃げ出したくなっちゃう」
葵は立ち上がり、僕の目の前まで歩いてくると、僕の制服の袖をきゅっと掴んだ。
「あの日、私が言ったこと……覚えてる? 『全部放り出して逃げ出したいって言ったら、一緒に来てくれる?』って。……あれ、半分は本気だったんだよ」
彼女の熱い呼吸が、僕の胸元に届く。
僕は静かに、バッグから一眼レフを取り出した。そして、彼女の涙で濡れた瞳に、真っ直ぐにレンズを向けた。
「……また撮るんだ」
「うん。君がどれだけ怖がってても、ボロボロでも、僕はそれを全部記録する。それが僕の、君への答えだから」
僕はファインダーを覗き、息を止めた。
震える彼女の肩。拒絶と、恐怖と、それでも戦おうとする意志が混ざり合った、歪で、圧倒的に美しい素顔。
――カシャ。
静かな部室に、硬質なシャッター音が響く。
僕は液晶画面を確認することなく、その場でカメラからSDカードを抜き取り、ポケットから小さな現像済みの写真を取り出した。それは、あの高架下で撮った、一番剥き出しの彼女の写真だった。
「これ、持って行って」
僕はその写真を葵に手渡した。
「これは、世界中で僕だけが知っている、本物の水瀬葵の姿だ。明日、コートの上で息が詰まりそうになったら、これを見て。みんなが君に完璧を求めるなら、この写真の不完全な君が、君の味方になってくれるから」
葵は写真を受け取り、じっと見つめた。それから、胸に強く抱きしめるようにして、ポロポロと涙を流した。けれど、その涙はさっきまでの恐怖の涙ではなく、どこか救われたような、温かい涙に見えた。
「……本当に、あんたは最高のクズで、最高のカメラマンだよ」
葵は涙を拭い、クスッと笑った。その笑顔は、教室のそれとは違う、僕だけの特効薬だった。
翌日。インターハイ予選の会場である市営体育館は、異様な熱気に包まれていた。
何百人もの観客、飛び交うメガホンの音、各校のブラスバンドの演奏。その圧倒的なノイズの中で、僕は二階の観客席の片隅から、コートを見下ろしていた。
『――第一試合、間もなく開始です!』
アナウンスが流れ、我が校の選手たちがコートに入場してくる。
その先頭を歩くのは、背番号『1』を背負った主将、そしてエースの水瀬葵だった。
彼女の表情は、驚くほど冷静だった。
周囲の歓声にも浮つかず、ただ真っ直ぐにネットを見つめている。彼女のユニフォームのポケット、あるいはベンチのバッグの奥底には、あの僕が渡した『ボロボロの素顔の写真』が隠されているはずだった。
「葵、一本目から持ってくよ!」
「うん、いつでも来い!」
試合開始のホイッスルが鳴り響く。
相手のサーブをレシーブし、セッターの星野がきれいにトスを上げた。
その瞬間、葵が鋭く床を蹴って跳んだ。
滞空時間の長い、美しいジャンプ。
誰もが彼女の完璧なプレーに見惚れる中、僕は二階からカメラを構え、ファインダー越しに彼女の顔を拡大した。
――あ。
僕は息を呑んだ。
最高打点に達した葵の瞳は、激しい闘志に燃えていた。けれど、その口元は、ほんのわずかに、僕にしか分からない形に歪んでいた。
それは、あの日高架下で見せた、世界を拒絶し、自分を曝け出すときの『本物の呼吸』の形だった。
ドォン!!!
葵の放った強烈なスパイクが、相手コートの床を激しく叩きつけた。
一瞬の静寂の後、体育館が揺れるほどの歓声が沸き起こる。
「さすが葵!!」
「やっぱり天才だ!!」
誰もが彼女の「完璧な結果」を称賛する。
けれど、コートの上の葵は、仲間たちとハイタッチを交わしながら、一瞬だけ、二階の観客席――僕がいる暗がりの方へと、真っ直ぐに視線を送ってきた。
(……そうだ。それでいい、水瀬さん)
僕はゾクッとするような快感を覚えながら、シャッターを切った。
世界を欺く天才エースの裏側で、僕たちだけの秘密が、コートの上を支配している。
しかし、その快感に浸っていた僕は、気づいていなかった。
コートの中で葵と抱き合っていた副主将の星野が、葵の視線の先を追い、二階の暗がりにいる僕の姿を、蛇のような冷徹な目で見つめ直していたことに。




