表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
残像と、きみの呼吸  作者: ゆず


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
6/6

第6話 決戦前夜のファインダー


『ねえ、瀬尾くん。もし私が、全部放り出して逃げ出したいって言ったら……一緒に来てくれる?』


高架下で、電車の轟音が止んだ静寂の中、彼女が残したその言葉が、僕の耳の奥で何度も、何度もリフレインしていた。


それは、からかうような冗談のトーンではなかった。

世界中から完璧を求められ、勝つことを強要されている水瀬葵が、あの薄暗い光の中で、僕という最低なエゴイストにだけ零した、本物の悲鳴だった。


(一緒に来てくれる、か……)


机に突っ伏したまま、僕は自分の手のひらを見つめる。

もし彼女が本当にすべてを投げ出して、僕の手を引いたなら。僕はその手を握り返して、この学校から、バレーから、彼女を縛るすべてから連れ去る覚悟があるのだろうか。

救いたいなんて、僕の口が裂けても言えない。僕は彼女の痛みを消費して喜ぶクズだ。だけど、あの瞬間の彼女の瞳を思い出すだけで、僕の心臓は狂ったように脈打ってしまう。


「葵、明日の予選、絶対に勝とうね! 私、全力でトス上げるから!」

「うん、ありがとう。星野のトス、いつも最高だから信頼してるよ」


ふと顔を上げると、教室の前方で、葵が星野と笑顔で話しているのが見えた。

明日から始まる、インターハイ予選。クラスの空気は一色に染まっていた。『水瀬葵なら、絶対に全国へ連れて行ってくれる』という、悪意のない、けれどあまりにも巨大な期待という名の怪物が、教室中に満ち満ちている。


葵は笑っていた。完璧な、ミリ単位の狂いもない、みんなが大好きな『天才・水瀬葵』の笑顔で。


だけど、僕と葵は、その日一言も言葉を交わさなかった。視線すら合わせない。

星野が僕を鋭い目で一瞬だけ牽制してきたけれど、僕はただの地味な写真部員として、気配を消して席に座り続けた。

外側の世界がどれだけ盛り上がろうと、僕と彼女の間には、あの高架下で結ばれた、誰にも侵せない暗い境界線が確かに存在していた。





放課後。完全下校時刻の三十分前。

明日が試合本番ということもあり、運動部はどこも早めに練習を切り上げていた。静まり返った第二校舎の階段を上り、僕は写真部室のドアを開ける。


夕日が、部屋の中を真っ赤に染め上げていた。

パイプ椅子には、すでに先客がいた。制服姿のまま、小さく膝を抱えて座っている葵だった。


「……遅いよ、瀬尾くん」


葵は顔を上げずに呟いた。その声は、いつもより少しだけ震えているように聞こえた。


「ごめん。……明日、本番だね」

「うん。……ねえ、怖いよ」


葵はゆっくりと顔を上げた。その瞳には、うっすらと涙が浮かんでいた。

教室で見せる凛としたエースの姿はどこにもない。プレッシャーに押しつぶされそうな、ただの十七歳の少女がそこにいた。


「明日、もし負けたら、みんななんて言うかな。『なんだ、水瀬も大したことないじゃん』って、手のひらを返すのかな。そう思うと、足が震えて、今すぐここから走って逃げ出したくなっちゃう」


葵は立ち上がり、僕の目の前まで歩いてくると、僕の制服の袖をきゅっと掴んだ。


「あの日、私が言ったこと……覚えてる? 『全部放り出して逃げ出したいって言ったら、一緒に来てくれる?』って。……あれ、半分は本気だったんだよ」


彼女の熱い呼吸が、僕の胸元に届く。

僕は静かに、バッグから一眼レフを取り出した。そして、彼女の涙で濡れた瞳に、真っ直ぐにレンズを向けた。


「……また撮るんだ」

「うん。君がどれだけ怖がってても、ボロボロでも、僕はそれを全部記録する。それが僕の、君への答えだから」


僕はファインダーを覗き、息を止めた。

震える彼女の肩。拒絶と、恐怖と、それでも戦おうとする意志が混ざり合った、歪で、圧倒的に美しい素顔。


――カシャ。


静かな部室に、硬質なシャッター音が響く。

僕は液晶画面を確認することなく、その場でカメラからSDカードを抜き取り、ポケットから小さな現像済みの写真を取り出した。それは、あの高架下で撮った、一番剥き出しの彼女の写真だった。


「これ、持って行って」


僕はその写真を葵に手渡した。


「これは、世界中で僕だけが知っている、本物の水瀬葵の姿だ。明日、コートの上で息が詰まりそうになったら、これを見て。みんなが君に完璧を求めるなら、この写真の不完全な君が、君の味方になってくれるから」


葵は写真を受け取り、じっと見つめた。それから、胸に強く抱きしめるようにして、ポロポロと涙を流した。けれど、その涙はさっきまでの恐怖の涙ではなく、どこか救われたような、温かい涙に見えた。


「……本当に、あんたは最高のクズで、最高のカメラマンだよ」


葵は涙を拭い、クスッと笑った。その笑顔は、教室のそれとは違う、僕だけの特効薬だった。





翌日。インターハイ予選の会場である市営体育館は、異様な熱気に包まれていた。

何百人もの観客、飛び交うメガホンの音、各校のブラスバンドの演奏。その圧倒的なノイズの中で、僕は二階の観客席の片隅から、コートを見下ろしていた。


『――第一試合、間もなく開始です!』


アナウンスが流れ、我が校の選手たちがコートに入場してくる。

その先頭を歩くのは、背番号『1』を背負った主将、そしてエースの水瀬葵だった。


彼女の表情は、驚くほど冷静だった。

周囲の歓声にも浮つかず、ただ真っ直ぐにネットを見つめている。彼女のユニフォームのポケット、あるいはベンチのバッグの奥底には、あの僕が渡した『ボロボロの素顔の写真』が隠されているはずだった。


「葵、一本目から持ってくよ!」

「うん、いつでも来い!」


試合開始のホイッスルが鳴り響く。

相手のサーブをレシーブし、セッターの星野がきれいにトスを上げた。


その瞬間、葵が鋭く床を蹴って跳んだ。

滞空時間の長い、美しいジャンプ。

誰もが彼女の完璧なプレーに見惚れる中、僕は二階からカメラを構え、ファインダー越しに彼女の顔を拡大した。


――あ。


僕は息を呑んだ。

最高打点に達した葵の瞳は、激しい闘志に燃えていた。けれど、その口元は、ほんのわずかに、僕にしか分からない形に歪んでいた。

それは、あの日高架下で見せた、世界を拒絶し、自分を曝け出すときの『本物の呼吸』の形だった。


ドォン!!!


葵の放った強烈なスパイクが、相手コートの床を激しく叩きつけた。

一瞬の静寂の後、体育館が揺れるほどの歓声が沸き起こる。


「さすが葵!!」

「やっぱり天才だ!!」


誰もが彼女の「完璧な結果」を称賛する。

けれど、コートの上の葵は、仲間たちとハイタッチを交わしながら、一瞬だけ、二階の観客席――僕がいる暗がりの方へと、真っ直ぐに視線を送ってきた。


(……そうだ。それでいい、水瀬さん)


僕はゾクッとするような快感を覚えながら、シャッターを切った。

世界を欺く天才エースの裏側で、僕たちだけの秘密が、コートの上を支配している。


しかし、その快感に浸っていた僕は、気づいていなかった。

コートの中で葵と抱き合っていた副主将の星野が、葵の視線の先を追い、二階の暗がりにいる僕の姿を、蛇のような冷徹な目で見つめ直していたことに。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ